触穢
翌日 浄花院の松平容保の病床
中川宮と晴雄と清子は会津中将の寝所に上がる。清子の行くところには葛の葉もいる。
宮は、会津藩に宮廷御用達の陰陽師が行くとしか伝えなかったらしく、寝所に通してもらうのに難渋した。陰陽師が来ると思っていたら、親王と公卿が来たのだ。驚くのも無理はない。晴雄の位階は中将より上である。
晴雄と清子らは中将の枕もとに、宮は少し後ろに座った。病気見舞いは触穢であるから、雅な世界の標準的行動様式だ。触穢は陰陽師の領分である。
臥せたままの中将の口から、何度も謝罪の言葉がこぼれた。
以前金魚鉢越しに覗いた時も華奢な印象だったが、今日は一段と儚げだ。若く麗しかった容貌は、痩せこけて唇が割れている。
「具合はあまり良くなさそうだね。」と宮が話しかける。
「申し訳ありません。」と中将は答える。
「中将が朝議にでてこないから、主上はご心配のあまり、毎日内侍所で病の平癒を御祈祷なさっているよ。」
「なんともったいないご鴻恩。」涙が一筋流れる。
中将は宮の言葉にぽつりぽつりと答えていく。
余計な負担をかけている。早く仕事を済ませて退散しよう。
「ご歓談中恐れ入りますが、一つだけお伺いせねばならないことがございます。」と清子が言う。
中将の目がぎょろりと動いた。
「私は、中将さんの天寿を見るよう宮様に仰せつかっているので、これから中将さんの魂を覗かなければなりません。魂とは心ですから、心の中を覗くということです。あまり気持ちのいいお話ではないので、宮様とは無理強いはしないというお約束をしています。ですからお断りになったとしても、私も中将さんも一向に構わないのです。どうなさいますか。」
清子は、魂を覗かれるのを嫌った泰清の事が頭にあるから聞いたのだ。中将は何と言うだろう。
「私には隠さねばならぬような二心はございません。どうぞご覧ください。」
声の頼りなさとは裏腹に、言葉は強い意思を持っていた。
「では、拝見いたします。」
清子は集中して中将の中に意識を沈めていく。衣服の下へ、肌の下へ、血肉の下へ。すると、しんしんと雪が降り続く藍白色の世界が広がって、魂に辿り着く。
寒くて清廉な世界の中心で、魂は異形であった。
青白い魂に、その半分くらいの大きさの橙色の魂が貼りついている。青白い炎と橙色の炎がその境界線で溶け合って、これはこれで美しいのだが、
「これは何?」傍らにいる葛の葉に聞いてみる。
葛の葉が面白そうに言う。
「魄を失った魂が、他人の魄を乗っ取ろうとしているところだよ。」
魂は心を掌り、魄は肉体を掌る。なるほどこれは悪霊が憑いている状態だ。宮の心配は正しかった。
「乗っ取るとどうなるの?」清子は聞く。
「魄を乗っ取られた魂は天に帰るしかない。だが魄を乗っ取ったからといって、他人同士の魂と魄が一つの魂魄になることはまずない。」
「何で橙色の魂は天に帰らないの?魄を失った魂は天に帰るはずでしょう?」
「この世に強い執着があるのだろう。お前様と同じじゃ。」と投げやりな答えが返ってきた。
「むぅ、私が何に執着しているというのです。」葛の葉は一言多い。
「輪廻に対する執着。自分以外の自分になりたい。」と棒読みする。
「ちょっと言っている意味がわかりませんね。」
「ふん、これだから困るのじゃ。」葛の葉は不機嫌になった。
「もし黒簿に名前が無かったら、それは乗っ取られないってこと?」
「魄の乗っ取りは本来予定していない黒簿の書き換えじゃ。乗っ取られた瞬間に黒簿に載る。」
「じゃあ、なんとかしないといけないじゃない。」と清子。
「乗っ取れるとは限らんから放って置いてもよいのではないか。もし忠伊なら、守護職を葬ることは良い冥途の土産になるだろう。」葛の葉は、この先の魄の攻防戦を見たいのだ。狐の姿であれば尻尾をふぁさふぁさ振っているに違いない。
確かに大樹公直属の守護職の命を奪えたら、少しは気が晴れるかもしれない。
「そうしたら天に帰ることができるのかしら。」
心のままにさせるのも一つだろう。
でも。
生き返りはしないのだから、生前の執着を叶えることは決してできない。
こんな風に思うのは手前勝手な思い込みかもしれないけれど、心の在り様は人それぞれだとわかってはいるけれど、この魂の主が誰であれ、早く次の生を生きた方が幸せなのではないだろうか。
…やっぱり、もう終わりにすべきだ。
清子は決めた。
「ねえ、どうやって二つの魂を剥がせばいいの?」
「お前様が名を呼べば言うことを聞くはずじゃ。だが名は間違えてはならんぞ。へそを曲げるからな。」葛の葉はいたずらっぽく言った。手伝う気など更々ありはしなかった。
このころは守護職から転職している頃なのですが、すぐに戻ってくるので守護職のままで話を進めます。それにしても、こんなボロボロな人間をこき使うなんて幕府は鬼じゃ。慶喜は鬼じゃ。