落花
緊迫感が伝わるでしょうか。
土御門家
今日、御所で何かが起こるかもしれない。
清子はお父上さんから、いつでも不浄祓いに出掛けられるようにしておくよう言われている。そして大がかりなことになるかもしれないから覚悟しておくように、とも言われている。
「戦後の始末など、年端もいかぬ女子にさせるものか?鬼じゃ。
心理的圧迫により精神障害にでもなったらどうするのじゃ。それでも親か。」と内心毒づくが、自分のしたことの後始末だと言われれば、ぐうの音もでないので、のみこんでおく。
あぁ忘れたい。
清子は、床の間の金魚鉢に公家町を映し出し、葛の葉と槐と共に様子を見ることにした。
御所の九門は南に堺町御門、西に下立売御門、蛤御門、中立売御門、乾御門、北に今出川御門、東に石薬師御門、清和院御門、寺町御門の順で時計回りに一周する。公家町の中にあり、禁裏御所自体を直接囲む門(建礼門、公卿門、清所御門、准后御門、朔平門、建春門)とはまた別である。
長州藩が警固を任されていた堺町御門は公家町の南側中央にある門である。
堺町御門の東隣には関白鷹司邸がある。
鷹司邸は武装集団であふれかえっていた。
薩摩藩士と会津藩士が合わせて50人ほど、長州藩士が50人ほど、加えて、三条実美ら長州系過激攘夷派公家が長州藩士や身辺警固の兵士を引き連れて参集している。
なぜこのような事態になっているかというと、鷹司邸には裏門があるからだ。鷹司関白は長州贔屓だから長州藩士が、裏門から次々入ってくる。九門を会津藩(守護職)、淀藩(所司代)、薩摩藩兵で守衛していても意味がない。
長州藩士、長州藩を擁護する公家、反長州派、仲裁しようとする者、鷹司邸はあらゆる立場の人でごった返している。
鷹司邸の前の道に、薩摩藩士と会津藩士は御所に行かせないように塞ぐようにして陣取る、それに向かい合う形で長州藩士が居並ぶ。
会津藩士の一人が、「勅がでているのに何故退かない。」と声を大にして聞く。
これを受けて桂小五郎が、「我が藩は尊王の志高く、日々御叡慮に沿おうと努めて参ったのに、この非常時に一人お役御免とは情けないことこの上ない。その上、ただ退けと言うだけでなく、兵をもって退けと言われては、武門の習いとして退くことなどできはしない。」と澱みなく述べた。
一触即発の雰囲気が漂う。
堺町御門前は狭いので、薩会は北へ移動し、禁裏の手前、凝華洞(別名お花畑。仙洞御所の一つ。)と仙洞御所(上皇御所)の間に陣取る。御所を囲む道の幅は他より広く、加えて凝華洞の北東部分が鬼門除けでかけているので空間に余裕がある。
長州方も薩会方も加勢が加わり兵数はどんどん膨れていく。
薩会と長州の間、仙洞御所の南面の道に所司代の淀藩兵約100人が陣取る。
壬生浪士組約50人も凝華洞の門を守衛する。
膠着状態はそのまま続いた。
夕刻、勅使が鷹司邸を訪れた。
「『今朝方議奏及び国事参政と国事寄人の参内禁止、他者との面会禁止を申し伝えたにもかかわらず、鷹司邸に参集した罪は軽からず。早々に退散せよ。』との思し召しである。」
これを聞いた長州藩は、家老益田右衛門之介が勅使に書面を渡し、兵を退いた。
どうやら清子の出番はないようだ。
長州藩排除だけでなく過激派公家ももれなく官位はく奪、御所への出入り禁止となった。
「これって、私にとっては喜ぶべきことよね?」
「お父上さんが御所に出仕できなくなる事態は避けられました。」槐がにっこり答える。
今回の不浄払いにはついて行こうと思っていた葛の葉は、清子の膝の上で丸くなった。
清子はついでに禁裏ものぞいてみた。
小御所の簀子縁から、正装をして衣冠をつけた人が庭の侍数人と話をしている。侍達は揃いの鬱金の木綿の襷をしている。
兵を率いて参内しているのは京都守護職の会津中将か所司代の稲葉長門守よね。お侍さんの訛からして中将にちがいないわね。
ふーん、あの名高い会津中将はこんなに線の細い麗人だったんですね、意外です。
木蘭あるいは蘭陵王といったところね。
清子は驚きをもって容保の顔を見つめ、それからそっと水鏡を解いた。
蕭々と雨が降っている。
行幸の中止は、京都町奉行所から早々に町年寄りに知らされ、町触が出された。
町内の寄り合いに出席するため外出していた三郎は、五条の橋を渡ってくる一団を見た。
参内禁止となった公家たちのうち長州に逃れることにした者たちの一行だ。
身分のある公家の奥方、姫、幼子が手をひかれて、取るものもとりあえず洛東に落ちていく。仕立ての良い着物は冷たい雨に濡れて、さながら川に落ちた落花のようだ。
「まるで平家物語みたいだ。」と三郎はつぶやいた。
いつの世も京に住まう産土神は性悪だ。よそ者の足元をすくう機会を手ぐすね引いてうかがっている。あんなに権勢を誇っていた長州藩が一夜にして都を追われるのだ。
驕れる者は久しからず。
――神州に250年の治世。
与力の息子は、言いようのない恐ろしさを覚えて、慌てて頭を振った。
代わりに、一時自分の指に止まった揚羽蝶の多幸を祈ることにした。
参考図書:幕末証言『史談会速記録』を読む 菊地明 著
狐2匹と一緒に金魚鉢をのぞき込む女の子の図。後ろ姿がかわいい。食べても美味しくないよ!