昔話
すごいの出て来ます。
行幸の日取りと場所を選定し終えたので、控えの間の二人を呼んだ。
「なにやら楽しそうじゃったのぉ。」と吉村は明るく言う。この人は気さくで人当たりが良い。
「とんでもない。大真面目に選んでおりました。」と清子。
「では筮占の結果を教えとーせ。」と、わくわくで聞く吉村。
「行幸は8月18日の御発輦、場所は春日大社。それに神武天皇の御陵も加えてください。行程は先に御陵、次に春日大社、その後に伊勢の神宮そして江戸です。」と清子。
「なるほど、神武天皇は日向国(宮崎県)から東征して橿原で本朝をお建てになった。今上は江戸へ東征して皇国を建て直す。行幸にそういった意味を持たせるわけじゃのぉ。」と黒石。
「8月18日とは、ちと急ではなかろうか。」と吉村。
「天時は移ろいゆくもの。『善は急げ』でございます。」と清子はにっこり答えて、
「ところで、この行幸はどなたのお考えでしょうか。主上さんを担ぎ出す話などは下々のお武家さんが思いついたとしても実現できる話ではありません。この話を実現しようとするなら背後に必ず公家がいるはずです。主上さんがお出ましになるということは、当然公家も供奉しますでしょう?
ですが過激攘夷派公家を見るに、自らを危険に晒しても、なお討幕を謀るような気概のある御仁に心当たりがございません。
中山忠光様(呪殺の章を読んでね。)は官位剥奪、姉小路様(不浄の章を読んでね。)はお隠れになられ、岩倉具視様(奉納舞の章を読んでね。)も辞官、今の過激派筆頭は三条実美様でしょう。しかし三条様は、(①)徳川様を見下して、(②)笏や扇で顔を隠しながら(③)こそこそ悪巧みをなさいますが(④)自分は決して矢面に立たずに、(⑤)主上さんの権威を笠にきて強気なことを言うだけの方でございましょう?」と尋ねる。
「わっはっはっ。姫様、言い過ぎ。」吉村が大笑いをする。
黒石は、「お父上さんが我等に協力してくださるなら、教えて差し上げてもええですよ。」と、また土御門民部卿を持ち出す。これに対して清子は、
「あなたがたは、私に意に反する筮占をさせました。それなのに何の礼もありません。何様のおつもりでしょうか?」とにこやかに詰る。
「これは確かに無礼が過ぎました。」と吉村。
「好奇心がお強いのは結構ですが、世の中には知らん方がええこともあるんですよ。」と黒石。そしてにやりと笑うと、
「中山伊尹様です。」と答えた。
「ナカヤマタダコレ
・・・それは、・・・それは、昔話ではないのですか?」清子は耳を疑った。
「先々帝の呪いじゃ。」葛の葉がそっとつぶやいた。
「どういう事?」三郎と山南にはわからない。
「・・・」どういうことか聞きたいのは清子だ。いや、清子は理解した。しかし認めたくない。
「公家町から遠く離れ、田畑に囲まれてほのぼのとお過ごしの姫君なら、ご存知なくても仕方ありません。昔話をご存知なだけでも上出来でございましょう。」黒石の言葉がねっとりと絡みつく。
葛の葉は昔話を三郎と山南に聞かせる。
――先々帝・光格天皇のお父上さんは閑院宮典仁親王であった。
閑院宮というのは世襲宮家であり、お父上さんは帝ではない。親王というのは、禁中並びに公家諸法度によれば大臣より格下じゃ。公家の家格には上から摂家、清華家、大臣家、平堂上(羽林、半家、名家)とあるが、帝はご自分の出自が大臣家より低いことに引け目を感じ、お父上さんに太上天皇の尊号を贈ろうと考えた。帝の近習であった中山愛親公と正親町公明公が、四年もの間幕府と折衝したが、幕府はこれを認めず、それどころか愛親公と公明公を処罰した(尊号一件)。
これを恨みに思った帝は、愛親公の子・忠伊公や岩倉尚具公らに金貨を密造させ、それを元手に長州をはじめ各地で討幕活動を煽動させた。
しかし、やがてこれは幕府の知る所となり、忠伊公は全責任を取って自刃、尚具公は落飾した。
帝の討幕への思いは潰えることなく、思いはいっそう募った。
譲位後、一人の皇子に、中山家の養子となり自由な立場で討幕活動をするように内勅を下した。
その皇子は小松宮長仁親王である。
親王は、討幕に殉じた忠伊公になぞらえて、自らの名を忠伊と変え、公家を中心とした討幕のための秘密組織・天忠党を興した。
それが四十年ほど前の話じゃ。
つまり中山忠伊とは、討幕のために臣籍降下した皇子である。
昔話が突如として色づき始めた。
大丈夫よ。私は一つの選択肢を示してみせただけなんだから。
でも・・・先々帝の御叡慮と今上の御叡慮、どちらがより尊いの?
中山家、いったいどうなってるの!
忠伊の話は伝説のような話なので私も話を盛大に盛っていきます。あと、この小説の主は歴史の大まかな流れを変えずに魔改造していくことで、歴史の影の立役者に迫ることではありません。ですので忠伊の話は傍論です。
天誅組紀行 吉見良三著作 を参考にしています。これは大変な良書です。