別れの櫛
やっとここまで来ました。
8月7日祇園社
南楼門にて山南敬助様とお姫さんを待つ。
空は青いがやはり秋の匂いがし、赤とんぼも飛んでいる。
「蜻蛉は昔から勝ち虫と言います。幸先がいいですね。」と山南様。
三郎はボケっと天気が良くて良かったな、などと考えていた。
「・・・常在戦場の心持、見習いたいです。」
長柄の真ん中に揚羽蝶の家紋をつけた黒塗りの乗り物がやってきた。
「ごきげんよう、お師匠さん。本日は宜しくお願いします、山南様。」清子は何も心配事などないかのように微笑む。
葛の葉は他の供の者を下がらせた。ここからは浪士組の範疇となる。
せっかく祇園社に来たのですから御参りもします。祇園社の牛頭天王は陰陽道では天道神にあたります。その昔、御朝が北と南に別れて相争うまでは当家の縁者も社務をしておりました。祇園社は当家と浅からぬ縁のある宮寺なのです。
角力場のある北林に行くまでもたくさんの摂末社があり、見ているだけで楽しい。
そこかしこに萩や曼殊沙華が咲いている。私の振袖の曼殊沙華は白だけど、咲いているのは赤ばかり。黄色い野菊も美しい。
北林には団子屋、見世物小屋、調髪油を売る店、楊弓場(射的)たくさんのお店が並んでいて心躍ります。
お姫さんと葛の葉は、すべての店先を覘き、店主を冷やかしながら、気の向くままに進んで、角力場から逸れていく。相撲は既に始まっているが、水を差すのは憚られる。二人の後からゆっくり、のらりくらりと三郎はついて行く。なんでもない日に近所の北林に遊びに来た、そんな錯覚を覚えそうな穏やかな光景だ。
先を行く山南様が察して三郎のところまで戻ってきて歩調を合わせてくださった。
「なんでしょうか、あの主従は?兄妹ですか?」と山南様。
最初は私も気になりました。「あれは愛玩動物と主です。」
「は?」
「ですから・・・。お母上の違う兄妹です。」説明は難しい。
「私はこれほど身分の高い姫君を拝見するのは初めてです。やはり町娘とは違いますが、こうしていると、なんというかごく普通ですね。」
確かに。些細なことに笑ったり、驚いたり。
「公家というのは、(①)人を見下して、(②)笏や扇で顔を隠しながら(③)こそこそ悪巧みをし、(④)自分は矢面に立たずに、(⑤)誰かの権威に寄生して生きる生き物でしょう?」
「言いますね。」悪意しか感じられない。
「ふふっ、冗談です。三郎さんの想い人は意外で好感が持てると言いたかったんです。」
「えっ?」
「えっ?我々の屯所に単身乗り込んでくるなんてそういうことかと。」
「・・・そういうことではありません。」
誰も彼も迷惑な。
北林を一周したのち、角力場に着く。
相撲観戦は凄い席が用意されていた。ちなみに桟敷席は、一間(二畳分)で銀35匁が相場だ。
大入りの会場で取り組みが始まってから随分と経っている。それを人をかき分けかき分けこんな席に着くなんて、皆の視線が痛い。
太鼓の音、行司の声、勝負が決まるとみんなが歓声をあげる。場の雰囲気だけでも楽しい。
楽しいことは楽しい、残念なことは残念とあけっぴろげに表現することが許される。それは楽しいの重要な要素だと思う。
お昼休み一刻。
まめまめしい三郎は三段重の弁当を作ってきた。今まで浪士組の控室に置かせてもらっていたのだ。お昼時はどこの店も混雑するし、お弁当も行楽の楽しみの一つだ。
「私が作ったのでお口に合うかわかりませんが、どうぞ、召し上がってください。山南様もどうぞ。」
「おぉ〜。」みんなが歓声を上げる。
「お姫さんの好きな緩ふわ豆腐は弁当には向かないので、今回は甘味噌田楽にしました。飛龍頭と野菜の煮しめもお勧めです。」その他に伊達巻、かんぱちの照り焼き、柿の葉寿司などなど。
「これは大変でしたでしょう?」と清子。
「私の趣味は料理なので、苦ではないですよ。」と三郎。今日のことが心配で寝れなかったからとはさすがに言えない。
「お師匠さんは万能型なのですね。」
「お褒めに預かり恐縮です。」
「器用貧乏じゃな。」葛の葉が田楽を摘みながらいう。
すべて並。なんて的確。
「酒が飲めないのが残念ですね。」と山南様。
みんなが食べ終わった頃合い。
「お師匠様、どれも美味しかったです。ありがとうございました。」と言うとお姫さんが扇子を膝前に置き、三郎との間に境界を作った。
「ここまでは何事も無く過ごせましたが、これから先はわからないのでしょう。時間のあるうちに、きちんとご挨拶をいたします。」と背筋を正した。
そして、「お師匠さん、短い間でしたが大変お世話になりました。思い返せばいつの時も楽しく・・・」
三郎は目を閉じた。
別れの口上など聞きたくはない。いちいち最後と念を押さないでほしい。
御伽話を読んだのだと自分で本を閉じるので、そんなのなしに、いつの間にか私の前から消えてほしい。痛みなどないただ美しいだけの記憶を残して。
目を開けるとお姫さんが深々と頭を下げていた。何と仰っていたかは聞いていなかった。
艶やかな黒髪に目がいく。気づけば、「一つだけお願いが。」と口走っていた。
「何でしょうか?」にっこり。
「いや、やっぱりなんでもありません。」慌てて言った。
三郎は自分に驚く。確かに自分で用意したのだが、機会があれば渡そうくらいのつもりだった。渡さなくても一向に構わなかった。渡すだけで良かったのに、今自分が望んでいることはなんだ?
「?言いかけてやめないでくださいませ。このままでは一生気になります。」にっこり。
三郎は、あさましいと思いながらも、この機会を逃してはいけないとも思う。腹をくくって懐中より薄い箱をだした。
「この櫛を髪に挿させて下さいませんか?」
中には飾り気のない黄楊の櫛が入っていた。
これは自分の為に買った櫛。自分で本を閉じる為の櫛。
それを見た清子の顔は曇った。
町歩きをした時に、お師匠さんは仰いました、櫛は将来、婚約者に買ってもらえと。
市井ではそうなのでしょうね。でも、私達(公家)にとってはそうではないのです。特にこの黄楊の櫛は。お師匠さんは知らずに贈ろうとなさっているのでしょうか。
「この櫛を髪に挿させて下さいませんか?」
(もしかして、知っている?)
清子はぎこちなく微笑むと少し前屈みになった。
三郎は梔子のような甘い香りを嗅いだ。
「もう、こちらにいらしてはいけませんよ。」
三郎はお姫さんの髪にそっと櫛を挿す。
(あぁ、知っているのだ。この櫛の意味を。)
今生の別れ。別れの御櫛。
前屈みのまま三郎の言葉を聞き、清子は一時唇を噛んだ。
それからゆっくり顔をあげる。いつもの笑みを湛えて。
「恐れ入ります。では、私からもお渡ししたい物がございます。葛の葉、あれを。」
葛の葉の懐中からでてきた袱紗を広げるとそこにはお姫さんの掌に納まる大きさの柄のない鏡があった。真ん中に空色の房がついている。
「私らしいものがよいと思ったので、破邪の鏡です。仁王教を唱えておきましたので常に持ち歩いて下さいませ。」
男に鏡?受け取って鏡面を返して見る。当たり前だがピカピカだ。しばらく鏡面を見つめる。
何か引っかかる。何かに似ている。鏡のような水面というが、鏡面は水面に似ている。
「うん?」お姫さんの顔を見る。
「これは?」
お姫さんは全く同じ鏡を手に「そういうことです。」と笑った。
三郎はどうかしている。ひどく安心した自分を見つけた。
何も始まらずに終わった二人。