揺れるそれが消えないように
残暑がしつこく尾を引きずる。昼は照りつけるほどあんなに暑いのに、日が落ちるとみるみる気温が下がっていく。だからそろそろ温かいものが食べたいのに、仕送りの中身はまだ夏から抜け出していなかった。そうめん、ざるそば、中華そば、冷麺。この間、いい加減大量の麺類を入れるのはやめてくれと言ったはずなのに、電話越しの母はちっとも分かっていなかったらしい。ダンボールの前でしゃがみ込み、冷蔵庫にもまだ残っている麺類を思い出して溜め息をもらす。これじゃあ、一人で食べてもきりがない。
おもむろに冷蔵庫を開け、とりあえず気を取り直そうと麦茶のケースを手に取る。重さを感じないと思い見てみれば、中身は見事に空っぽだった。それに舌打ちをして、腹いせに冷蔵庫を強く閉めた。
昼夜の変温の差。机に広がる締め切り間近の課題。終わりのない麺類。都合の悪い麦茶。なにもかもに腹が立ってきて、財布を手に取りアパートを出た。
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人通りの少ない住宅街の隅っこで、自動販売機の光が眩しいくらい光っている。空の麦茶に苛立ったまま外に出て、夜風に当たればだいぶ落ち着いてきたように思えた。
自動販売機の光で財布から小銭を取り出し、お気に入りのお茶のペットボトルを選んだ。ガタン、と降りてきて、私はしゃがんでそれを手に取る。
「なーにやってんの?」
ぎょっとして、突然聞こえた声に振り向いた。
「……先輩」
「こんばんわー」
自動販売機の隣に座り込み煙草を吸う男性を見つけた。のんびりと気持ち良さそうに煙を飛ばして、にっこりと私を見ている。
「先輩こそ何やってるんですか」
「俺? 夜逃げ」
「は?」
「嘘。散歩」
いきなり何を言い出すんだこの人は。そんな風に怪訝な顔で見ていると、彼は「はは」と軽く笑った。
「お前は? こんな夜中に出歩いちゃって」
「お茶が切れたんで買いにきたんです」
「茶ー? お酒を飲みなさい、お酒を」
先輩はすぐ手元にあった缶ビールを私に見せた。
「私、お酒飲めないんで」
「いいじゃん、そんなの」
「よくないです。未成年ですから」
そうやって私が顔を歪めても、先輩は酔っているのか機嫌良く笑う。
こんな所で飲むなんて、本当に危なっかしい。まだ20代なのにすごくおっさん臭い。私は溜め息を吐いて、しばらく見張っていようと先輩の隣にしゃがみ込んだ。
「未成年? 俺なんて、高校の時から飲んでたっつーの」
「犯罪です」
「お前かたいなー。青春だよ、青春」
「何が青春ですか」
「スリルだよ」
く、と缶ビールを飲み干す先輩。そこから微かにビールの匂いがして、それが少しおいしそうで、成人したらこの人と飲んでみたい、なんてことを考える。
「俺もう少しで卒業なんだよー。卒論できてねーんだよー」
「そんなこと私に言われても困ります」
「冷たっ! なんか祝ってよ、卒業するんだから」
「……あ、じゃあそうめんとざるそばと中華そばと冷麺あげます」
「マジで!?……っていらねーよ!」
ちっ。麺類ならなんでもあげるのに。いっそ今家から持って来て押し付けようか。
「そんでさー、彼女にふられちゃってさー」
「彼女いたんですか」
「いるよ、心外だな! でさ、なんて言われたと思う?」
先輩は声色を変えて、
「『あんた、ありえない』」
「ぶっ」
「笑うなー!」
「笑ってません」
本当は彼女がいることを知っていた。でも先輩は酔っているからすぐ話が飛ぶ。きっと、私と話す内容はどれもどうでもいい話。
「はー。鬱だよー。なんとかしてよー」
そうぶつくさ言いながら、先輩は煙草をくわえて吸い込んだ。次に吐き出される煙はゆらゆらと揺れて、住宅街の夜に昇っていく。
「……じゃあ、私が彼女になってあげましょうか」
「……え!?」
「冗談です」
「なんだよそれー!」
半分冗談なんかじゃないって気が付いて欲しい。それでもやっぱり、これもどうでもいい話。
自動販売機の光も不安定で、私の気持ちも人知れず緊張して、揺らめく紫煙と同調している。隣から漂うアルコールの匂いも、指先から昇る知らない銘柄の匂いも、先輩の言葉の香りも、ずっとこのままでいたらいいのに。
―――なんて、夢と現実は残暑の変温の差に等しい。
「先輩」
「んー?」
「今度お酒の飲み方教えてください」
揺れる光。揺れる煙。揺れる匂い。揺れる二人。
それらが消えてしまわないように、私はこの瞬間をシャッターでも切るように目に焼き付ける。
でもそれだけだとあまりにもったいないから、このまま朝まで独り占めしていようと思った。