第八説
「行くぞ、猫坊。」
「ソラ。 ソラはソラ。」
「ソラ、か……。 ははっ! 悪くねぇ名だな。
俺はソルダ……って、知ってるか。」
「ん。」
両者とも名乗り終え、猫神家の屋敷へと向かった。
猫神家訓練道場
ここで少女は父親から仕置きを受けていた。
紅白巫女服を着込み、腰まで伸ばされた黒髪をポニーテールにしている。
彼女は今、道場の奥の壁に磔にされた状態。
両手を横に広げて縄で縛られ、身動きは一切取れない。
巫女服の袖が捲られ、隠されていた腕を露出する。
傷一つなく、日に焼けた跡もない、白く華奢な腕。
そんな菊梨花の前に立つのは同じ黒髪を持ち、オールバックにした男。
全身を黒装束で包み、冷酷な瞳で娘である菊梨花を見つめていた。
その手には一本の竹の棒が握られている。
「もう一度訊く。 何故、妖怪を逃がした?」
男が問い掛ける。
その言葉に対し、ジッと見据えた菊梨花は口を開いた。
「……正しいと、思ったからです。」
ヒュンッ! バシッ!!
「ッ!? っ、く……!」
壁に磔状態となっている菊梨花に向け、竹の棒が襲い掛かる。
男の手によって振るわれたのだ。
大の大人によって、まだ十六を迎えたばかりの少女に振るわれる竹の棒。
空気を切り裂く音の直後、肌を叩きつける音が訓練場に響き渡った。
痛みのあまり顔を歪める菊梨花。
叫びたくなる口を懸命に噛み締め、苦痛を外に出さないように試みる。
傷一つなく、日焼けの跡すらなかった、白く華奢な腕。
しかし、殴られた箇所を中心に赤くなり、一本の線のように腫れ上がった。
なんとも痛々しい光景だが、周りに男を止める者など居ない。
助けに来る者も居ない。
痛い、と菊梨花は思う。
一撃が強く、熱を持ったように打ち付けられた箇所がジンジンと熱く感じていた。
多少の痛みには慣れているはずだったが、痛いものは痛いのだ。
「もう少しで猫神家の権威が、地の底に堕ちるところだ。
お前は責任を感じていないと? 妖怪を逃がすことが正しいと? 誰がお前にそう教えた?」
「っ、誰からも、教わってなどいません。 ただ、自分で正しいと思っただけです。」
「なに?」
菊梨花の答えに、男は睨みつける。
猫神家の権威を一とする男にとって、妖怪を逃がすという行為そのものが理解の外なのだろう。
だからこそ、彼女の言葉と行動に苛立っているのだ。
菊梨花は蓮華に視線を向けた。
彼女は菊梨花の隣の床で胡坐をかき、刀の手入れをしている。
黒髪の菊梨花と違って茶髪に染められた髪はショートカット。
黒の袴に身を包み、興味がないと言いたげに菊梨花たちの会話に一切関与しない。
彼女は、菊梨花の双子の妹である。
猫神家でありながら、猫神家当主とは絶縁したことで集落中で語り草になっている。
彼女らは双子の関係でありながら、酷く仲が悪い。
いや、蓮華が一方的に嫌悪していると言った方が妥当だろう。
半ば破門扱いされていた彼女のことを、菊梨花は気にかけていた。
しかし、今回の件で蓮華は破門せず、未だ猫神家の一員としての力を有している状態にある。
そのことを正統後継者たる菊梨花にすら、父親の口から告げられていなかったことに、悲嘆の感情を滲ませていた。
「集落の皆さんにも、私にすら、蓮華と絶縁したと……そう、公表していましたのに……。
なのに……それが嘘だったなんて……嘘を吐いていたなんて……。」
「黙れ。」
バシッ!! バシッ!!
「っっっ!!! ……ぅっ……。」
再度振るわれた竹棒。
一発目はもう片方の腕。
二発目は先ほど腫れ上がった箇所に打ち付けられた。
熱を帯びていた部分に炸裂した殴打に、流石の菊梨花も小さく呻く。
俯き、ギュッと双眸閉じながら痛みに耐えていた。
「お前はこれまで通り、父の言うことを聞いていればいいのだ。 それがお前の正しい道だ。
大人の事情に、子どもが首を突っ込む必要はない。」
父親たる男は、娘に対して冷徹に一言で片づけた。
この男にとって菊梨花は、猫神の巫女以上の存在価値を見出してなどいない。
黙って言うことを聞き、黙って従う菊梨花は、自分にとって都合の良い駒に過ぎないのだ。
だが今回、菊梨花は父親の意志に反し、自分で正しいと思った道を突き進んだ。
今までのように言いなりの人形ではなく、一人の人間として判断し、行動したのだ。
だからこそ、こんな状況になっても後悔はしていない。
「っ……。」
ただ、今の菊梨花は先の言葉を受けて尚、抵抗するだけの精神力は持ち合わせていない。
また自分の中で父親への屈伏しようとする思いが発現する。
抵抗し、自分の正しいと思った道を行きたいのに、父親からの言葉が全て正しく思えて仕方がない。
正しくないと思いながら、正しいと思ってしまう矛盾した感情。
それは長年に渡って組み込まれた呪縛のようなものだ。
父に対する絶対服従。
一日すら経たずして、易々(やすやす)と解けるものではないだろう。
寧ろ、一日も経たずしてこれだけ自分で行動できる精神力を、称えるべきなのかもしれない。
そうして菊梨花が男に屈伏しそうになった時
「猫神流神術を継承する資格ある奴は、大人じゃないってことかい?」
道場内に声が響いた。
その瞬間、扉が勢いよく開けられる。
「っ、ソルダさん!?」
「よぉ、猫神のお嬢。
さっきぶりだが、元気そうで何よりだぜ。」
突如として現れた見知った少年の姿に、菊梨花は驚きの表情を隠せない。
そんな彼女に手を挙げて挨拶し、二ッと余裕の笑みを浮かべる。
この集落ではあり得ない金髪と青い瞳を持った少年・ソルダ。
長身の体を白シャツと長ズボンという簡素な服装で覆っている。
そんな彼に、男も冷たい視線を向ける。
その瞬間に彼は事の次第を把握した。
「ソルダ……あぁ、そうか。
お前の入れ知恵だな? 菊梨花に接触し、妙なことを吹き込んだ、と。」
「俺の言ったことなんて軽いもんさ。
そいつはそいつの意志で突き進んでるだけだろ? 俺のは、過大に考えてもきっかけになった程度だ。」
ソルダは木刀を肩に担ぎ、不敵な笑みを浮かべる。