第二説
聖錬の儀式が始まる。
場所は人間が住む集落外れの木々の中。
周りは木で囲われ、中央が大きく開けており、雑草がまるで絨毯のように生えている。
火は絶やさないようにしているのか、松明があちこちに灯っていた。
松明の炎が揺らめき、周りを明るく照らし出す。
何本も何本も立てられているため、ここら一帯は非常に明るかった。
開けた中央には石で出来た祭壇があり、その上に猫耳が生えた少女が横たわっていた。
妖怪だ。
人間ではない。
人間とは違う、妖怪。
その妖怪の少女は目隠しをされ、四肢をしっかりと縛られているため、全く身動きが取れない状況。
更に口も閉ざされてしまっているため、助けを呼ぶことも叶わない。
妖怪であるために実年齢はもっと上であるため、そもそも少女と言っていいのかは疑問だが、見た目はどう見ても少女だ。
子どもの、女の子だ。
人間の七、八歳の子どもと並んでも違和感はなさそうだ。
その妖怪が横たわる祭壇の周りを囲うように多くの人間が立ち、期待の眼差しを向ける。
彼らの視線の先では、短刀を片手に持つ、紅白巫女服姿の少女が立っていた。
猫神菊梨花。
艶やかな黒髪を腰まで伸ばし、ポニーテールにしている。
誰もが魅了されるほどの整った顔立ち。
可愛らしさの中に美しさがあるような印象だ。
彼女は全身から汗を噴き出し、微かに震えていた。
菊梨花は短刀を片手に、考えを巡らせる。
『遂に、この時が来てしまいましたね。
聖錬の儀式……猫神家の正統後継者として、認められる神聖な儀式。』
初めて妖怪を殺す状況に、固唾を呑む。
猫神家の巫女として認められる、神聖な儀式。
これで成功すれば、集落の者たちから認められ、晴れて巫女としての格を与えられる。
『妖怪は絶対悪』
猫神家が抱える、妖怪に対する固定観念だ。
人間にとって妖怪とは、どのような結果になろうと敵であり、殺すべき存在である。
人間を脅かし、人間を襲う妖怪を、嫌悪しながら憎悪し、敵対していた。
そんな猫神家が事実上、この集落の実権を握ってしまっているため、集落がこうした思想の偏りを持っているのはどうしようもない。
菊梨花もこの観念には賛成なのだ。
妖怪は絶対的な悪であり、救うのは人間であると信じて疑わない。
『でも……この気持ちは、なんでしょう……。』
菊梨花は自身の中で違和感を覚えていた。
なにか、心の中に引っ掛かりを感じる。
目の前の光景から、目を背けたくなる。
その理由は分からない。
その問いに答えてくれる人など居ない。
内なる想いを背負いながらも、誰も気づいてはくれない。
誰か答えて欲しい。
その想いもまた、口に出さなければ誰も反応してくれない虚しいものである。
「さぁ、菊梨花……ひと思いにやるのじゃ。
皆が正統後継者として迎えてくれるはず。
何も心配せんでえぇ。」
「はい、長老様。」
長老は短刀を片手に立っている菊梨花に向けて言葉を投げかけ、彼女は微笑を浮かべて頷く。
『長老様……ここまで、私を育ててくれて、ありがとうございます。
立派な巫女として相応しくあるため、貴方からは多くのことを学ばせて頂き、妖怪についても勉強しました。』
菊梨花は心の底から、長老に対して感謝していた。
物心がついた頃から傍に居て、どんなに悪いことをしても許してくれた。
長老の寝顔に落書きをしても。
長老が大事に育てた柿を、取って食べてしまっても。
長老が大事に伸ばしていた、鬚を寝ている間にコッソリ全剃りしても。
決して怒ることはなかった。
しかし、同じくらいの年恰好をした妖怪と遊んでいた時は、鬼の形相で怒られたことを菊梨花自身、今でも鮮明に覚えている。
その妖怪はどうなったかは分からないが、きっと殺されたのだろう。
長老の話によると、幼くも力のある菊梨花の生き肝を狙っていたのだという。
力ある人間の心臓を喰らうことで、力を得るという『生き肝信仰』が妖怪の中で流行しているという。
その話を聞き、心底恐ろしくなった。
だからこそ、妖怪に対して自身も敵視していたのだ。
『しかし、これは……。』
自分の目の前には、どう見ても子どもの姿をした、猫耳を生やした妖怪が祭壇に寝転がっている。
見た目だけで言えば、集落の中を駆け回る子どもたちと、大して変わらない。
『話を聞けば、この子は集落に入ったというだけで、特に危害を加えた、という訳ではない。
妖怪だけど……妖怪だけど……。』
心では疑問を抱く。
今の気持ちを理解できず、困惑する。
『何かが、引っかかってしまう。』
妖怪は絶対悪。
見た目は子供。
悪さはしていない。
迷いはないはずなのに、何故だか手が重かった。
思うように動かない。
それを誤魔化すかのように、菊梨花は微笑を浮かべた。
周囲の人間に、余計な心配は掛けたくなかった。
これまで自分に愛情を注ぎ、育ててくれた人への恩返しのためにも、早く巫女として確立しなければならない。
そして何より、彼女の中にある他者中心を是とする精神。
誰かに教わったわけではないが、自然と身に着けたものだ。
猫神家のため、集落のため、他者を優先する。
菊梨花は短刀を両手で持つ。
初めての殺処分。
いくら凶悪な妖怪とは言えど、初めてであることに対する緊張はあった。
微かに震える手を、腕を、足を、体を抑えながら、笑みを浮かべる。
まるで今から料理でもするかのような、立ち居振る舞いであった。
ここで泣いてしまえば、この場に居る全員が菊梨花を失望するだろう。
大きな期待と希望は、時として憎悪と失望に変わることになる。
流石にそういった事態にはならないだろうが、泣いてしまうのは巫女としても格好がつかないだろう。
いつも通り、求められたことを実行する。
そして、ゆっくり、ゆっくりと振り上げていった。
菊梨花が内心で呟いている頃。
聖錬の儀式を行う場所よりも、森の中を進んだ先。
そこに一つの家がある。
それはこの集落の異端者・ソルダの家だ。
集落ではあり得ない金髪と、青い瞳をした長身痩躯の体。
少年にも青年にも見える顔立ちをしていた。
白いシャツと長ズボンという、非常に簡素な服装で、長身の体を覆っている。
「ふっ! はっ! せいっ!」
両手で持った長い木刀で素振りを繰り返し、気迫と共に空気を切り裂く。
家の前には、雑草が青々と生い茂る庭がある。
非常に広いもので、一人で過ごすような場所ではない。
家自体も、一人暮らしには不相応なほど大きい。
全てが木造の家だが、集落内で一般的にある瓦屋根や深い軒先の様式ではなく、丸太や角材を用いたログハウスであり、家の構造も異質な存在として、集落中に知れ渡っている。
庭の周りに木々が取り囲むように立ち並んでいる。
既に辺りは闇に包まれているが、彼はお構いなしに鍛錬を続けていた。
「……。 ふぅ、こんなものか。」
やがて満足げな笑みを浮かべて構えを解く。
その時、空の一部が明るくなっていることに気づいた。
「そういえば、今日は聖錬の儀式だったな。
あまり興味はないけど、とりあえず参加したってことで覗きに行くか。」
ソルダは木刀を肩で担ぎ、歩みを進めた。
暗い森の中で彼の足音と虫の声のみが響いていた。
集落までの距離は、それなりに離れているが、地形としては坂があるわけでもなく、獣道があるわけでもない。
どこもかしこも木に覆い尽くされているものの、歩みの邪魔にはならなかった。
やがて、松明の灯りが見えてくる。
集落の灯りだ。
「ははっ! 相変わらずの熱気だな。
妖怪殺して喜ぶ、なんて悪趣味持った連中が最も盛り上がる夜には、相応しいねぇ。」
ソルダは独り言のように呟いたが、実際は盛り上がっていると判断できるほどの熱気はない。
彼はその場に流れる空気を、肌で敏感に感じ取っているのだ。
殺せ
殺せ
殺せ
集落の繁栄のために殺せ
仲間のために殺せ
理想世界実現のために殺せ
外界の者全てを滅するまで
これが、彼の認知した集落の者たちの意識だった。
「……。」
彼は無言で近づいていく。
人が密集している場所に。
相変わらず胸糞悪い、どうでも良いと思える場所に。
そして、集落内に入った彼の視線に、まず初めに飛び込んできた光景は、石の祭壇の上に縛られた猫耳の妖怪と、それを殺すべくゆっくり、ゆっくりと短刀を掲げる黒髪長髪の、巫女服に身を包む一人の少女だった。
彼女は笑っていた。
彼女は微笑んでいた。
まるで、料理の腕前を見せつけるかのように。
その表情は非常に穏やかだった。
だが、ソルダは騙されない。
彼女の内心では、今すぐ泣き叫んでも可笑しくない状態となっていた。
それを、感じ取った。
『殺したくない! 殺したくない! 殺したくない!』
まず感じたのは現実逃避。
『妖怪といえど見た目は子どもだから。』
次に感じたのは、目の前の状況とそれを見て思った心情。
『自分よりも小さい子を殺すなんてこと、できない! でも、やるしかない。
猫神家のため、この集落の皆のために心を殺さなければ!』
最後に感じたのは、自らの使命感。
外側のことばかりで、自分のことを度外視にした考え方だ。
彼女は既に、心の奥底では泣き叫んでいた。
退こうにも退けず、もがき苦しんでいた。
その心を、大まかながらも敏感に感じ取る。
気づけばソルダは、口を割って叫んでいた。
「おい!! そんなもので妖怪を殺せると思ってんのか? お前みたいな未熟な奴が、そいつを殺せるとでも言いてぇのか? それなら笑いものだぜ! 猫神家だか何だか知らねぇけどな。
自分にすら負ける奴は、いくら術や技を身に着けても妖怪なんか殺せねぇよ!」
「ッ!?」
ソルダの叫びによって、集落の者たちの熱気が一気に霧散した。
まるで、後ろから冷水をかけられた気分でも味わっているかのようだ。
菊梨花もまた、ソルダの方へと視線を向ける。
いきなり発せられた言葉に、衝撃が走った。
その場の全員が、ソルダに視線を向けていた。
彼は更に続ける。
「猫神家は集落を守る家柄なんだろう? だったら尚更、テメェは相応しくねぇよ!
自分の意見を貫けず、誤魔化して逃げ、周りの意見にヒョコヒョコついていくだけの弱虫野郎に、この集落は任せられねぇ。」
『なに? いきなり何を言い出すの? 私は……何か悪いことでもしたの?』
周りの視線がどうなろうと、ソルダは菊梨花のみを見つめて叫んだ。
それほどまでに、ソルダの癇に障る行動を彼女はしていたからだ。
菊梨花はそれを受けて大きく目を見開かせ、どういう状況かを必死に読み取ろうとした。
彼の言葉を思い返しながらも考える。
自分の意見?
それは分かってる。
この聖錬の儀式を以って妖怪を殺し、巫女として認められること。
誤魔化して、逃げている?
そんなことはない。
誤魔化す部分などは、ない、はずだった。
しかし、先ほどから妙な違和感を抱えている菊梨花としては、完全に否定することはできなかった。
『まさか……彼は、私の心を、読んでいる?』
信じられないと言った風情で、ソルダを見つめる。
金髪碧眼の、集落ではあり得ない容姿をした少年とも青年ともとれる男。
彼の言葉が、妙に心に突き刺さり、引き寄せられた。
「ソルダ! 貴様というやつは……このような大事な日に限って現れおって!」
長老はソルダに向かって怒鳴りつける。
その直後、菊梨花の方を向いた。
少しでも、彼女を元気づけるために。
何としても、儀式を続けてもらえるように。
すぐにでも、儀式を始めてもらえるように。
「菊梨花、奴の言うことには耳を傾けん事じゃ。」
と言った。
傾けないこと、と言われながらも、傾けたいとする思いも芽生えていた。
「……。」
このような事態は初めてだ。
長老の言うことだけは、今まで無条件に聞いてきた。
一度注意されれば、二度と同じ過ちを繰り返さずに生きてきたのだ。
だが今回、ソルダからの言葉によって、初めて長老に反抗したくなった。
その理由もまた、分からない。
気が付けば、菊梨花は手に持った短刀を落としていた。
力が、自然と抜けてしまっていた。
「少し疲れとるんじゃろう……ゆっくり休め。
皆の者、延期じゃ、延期! ソルダのおかげで聖錬の儀式は失敗したのでな。」
長老は菊梨花に何らかの変化が生じたと感じ取り、集落の者たちを解散させる。
そして、聖錬の儀式は延期することを宣言する。
それを受けて、この場に集まった集落の面々は、一斉に解散して各々の家に戻っていく。
「ソルダ、貴様……この責任をどう取ってくれる!?」
「日を改めるんだろ? 責任もクソもあるかよ。」
「こりゃ! 貴様、いい加減にせんと、只では済まさんぞ!」
「勝手にしやがれ!」
長老に責められるソルダ。
彼がこれほど激怒するのは、なかなかに珍しい光景だ。
しかし、ソルダは慣れた様子で言葉を吐き捨て、森の奥へと姿を消していった。
「ふぅ……さて、帰ろうかのう、菊梨花。」
「…………。」
長老の一言で、菊梨花は行動を移す。
しかし、これ以降の記憶は殆ど覚えていない。
そんな余裕など、今の菊梨花には存在しなかった。