森の中の合唱―7
夜が更けていく。
ワイワイと酒に飲まれた店内の人間も数を減らして、酔いつぶれた客を表通りに投げ捨てる作業も終わった。
そのうち目が覚めて二次会に行くか、そのまま星空を掛布団に夢の世界へ旅立つか、なるようになるとリビは言った。
平和な国。平和な街。
まるで平和ですー、と見せかけているようで、少し気色悪い。
二階に宿を持ち合わせているこの『女神の休所』は表の酒場と違って営業時間が短い。
それを少し惜しがるリビが梯子に上り、看板を照らすロウソクの火を消した。
「しかし、よく気づきましたねエイさん。エティーが焦っていると」
リビが下りてくるまで梯子を支えていた俺に酒場でのことを聞く。
「そりゃ、あいつがお前らの仕事の邪魔をするはずがないしな」
また、俺はともかくエティーヤがこいつらに嘘をつくとも思えない。
なら残る可能性は、本当に仕事が下手なだけになる。
「まあ、あれだ。お前の仕事を手伝っていた時の俺と同じだよ。要は慣れてないってことだ。それをもともとそうだとか、ダメだとか言ってたら、エティーヤはやりたくても店の手伝いができない。いつまでたってもお前を横目に見ながら居心地悪く酒飲んでるだけになるんだよ」
「へぇ、そこまで考えていたんですか。正直驚きです」
「何言ってんだ。身内のお前ならとっくに知ってたはずだろ」
「あ、聞いたんですか」
「姉のほうからね」
ロウソクを新しいものに入れ替えたリビが下りてきた。
「だとすると、私としたことが少々お姉ちゃんを甘やかしすぎましたようですね」
「姉を甘やかすってのもおかしいだろ。それにお前は甘いというかー」
自分で言いかけて、さっぱり言葉が見つからない。
ただ浮かぶのは、俺がリビの手伝いをしていた頃。
ああ、わかった。
こいつは、期待というものをしない。
できる者にできることをさせ、できない者には他にできそうなことをさせる。
適材適所。効率的で、雇用側としては一番基本になるマネジメントスキル。
それのどこが悪い?と聞かれたら、悪いなんて一言も言ってない、と返すしかない当たり前な方針だ。
だがしかし、それを姉にまで適用する妹ってどうだ?
失敗が続き、最後は不満でも罵倒でもなく、妹に「もういいよ」と言われる姉の気持ちはどうだろうな。
俺には想像できないな。
そして、知ったこっちゃない。
「でもエイさんは優しいですね。あんな冷たくされても、最後まで付き合ってくれましたし。やはり私の目は間違ってありませんでした」
ふとそんな恥ずかしいセリフを投げかけて微笑むリビに、俺は返事の代わり苦笑いで答えた。
きっと、俺が優しいのではなくお前が他人行儀なだけだろうな。
またもリビに付き合わされて二階の人魚をさっぱり忘れていたことを思い出した。
あいつが窓際で星を眺めてもうあれこれ5時間はすぎている。
ふと活きのいい魚が水槽から脱出して勝手に干していく場面が脳裏をよぎった。
そして、○ョーズのBGMが流れ、海から上がってくる筋肉質のおっさんが見えた。
これは、やばい。
息をする暇もなく、俺は全速力で部屋に向かった。
ドアを開いたとき、水槽の中で丸まって、震えていた。
胸の中が不安で渦巻く。
「大丈夫か!?」
『ぅぅうう~! エイ! エイ~!』
俺を見て水槽の中から飛び出たメーリアがこぼれないように支えてやると、ギュッと抱きついてきた。
しかし何かに怯えているように、尾ひれのばたつきはやむを知らない。
「ど、どうした! 何があった!」
病気か!? 怪我でもしたか!? せめて悪夢でお願いします!
目の前の魚が不安に身をよじる度、俺の寿命も縮んでいく気がした。
そして抱き返してやると彼女の体の震えが徐々に治まり、口が開いた。
『えぅぅぅ、あっちから変な、変な音がするの、怖いぃぃ……』
「変な音?」
と、そのことに気付いた瞬間、俺は自分がいる場所を思い出した。
「め、メーリア? 少し耳塞いでいよう。できるか? 俺が調べてくるから」
『うん! できる! 気を付けてエイ!』
すると彼女は、両エラをふさいでーって、それ耳なの?
い、いや。今はそんなところじゃない。
とにかく俺はできる限りの安全措置を施し、壁に近づいた。
そっと壁に耳をあてがう。
いや、あてがう必要がないことを知っていても俺は精密な調査のためなお耳を壁にした。
すると予想通り、向こうから人気の気配と、切羽詰まった息使いが伝わってくる。
女性特有のハイトーンが断続的に続く往復運動に伴い、吸気と呼気を不自由にされ、結果的に酸素欠乏にも似た艶めかしい声音を作り上げていた。
ぶっちゃけ、ヤっていた。
『あぁん~、あひっ、あ~ああっ! はっ、あはっ~!』
「うわぁ……」
そりゃ俺の部屋でも耳にしたことはあるけど、正直言えば、近所迷惑を気にしないことに対するうっとうしさが増していて、他人の情事を楽しむには当たらなかった。
それはこの場合も同じはずだが、最近フェベロスが居座ったこととこちらにきている時間が多いわけで、自家発電のチャンスもなかったのである。
そして、何よりも異世界という非日常的なシチュエーションが興味を沸かせた。
壁越しの情事の熱に混じって会話が聞こえた。
『はぁっ、あはっ~! ベンくん、もっと腰使わないと~ 私からいくわよっ~!』
き、騎乗位!?
女性の息遣いが拍車をかけると、それまで小さい呻き聞こえていた男の声が聞こえた。
『ね、ねぇさん! ボク、もう、もお~!』
ってショタかよ!
息の根を断ち切られたように、一際大きな奇声を上げて、壁越しでほとぼりがさめる。
『はぁ~はぁ~、あ~私の中が、ベンくんでいっぱい~! でも、さすがにもう無理かなー』
『ね、ねぇさん……!』
『きゃっ、ベンくん!?』
二回戦かよ!
『もう4回は出したのに、まだこんなにたくましく……!』
ヨンカイ? 四回!?
ふざけんな! すごいを越して化け物だろ、そっちのべんくん!
マセガキといったところじゃねーよ!
するとドアの開く音とともに、新しい声が登場した。
『おーやってるやってる。んじゃあ、私も混ざろうかな~?』
『えっ、ええ!?』
今度は3Pかよ!
おい、ベンくん、お前大丈夫なのか!? この兄さんはそろそろ妬ましさを通り越して心配になってきたぞ!?
返事は聞こえず、ただかすかな息づかいと姉さんのほうの喘ぎが状況を表していた。
そして、壁越しでもはっきり分かるように、男の決断が下りた。
『いっ、いける! 問題ないっ!』
俺は壁から離れた。
もう、この壁の向こうにあるのはピンク色の楽園ではなく、男の戦場である。
それを蚊帳の外で高みの見物だなんて、許されざる行為だろう。
俺の頬を熱い何かが伝っていた。
『エイ、大丈夫?』
心配そうに俺を見てくるメーリア。俺の言う通り、まだエラをきっちり塞いでいる。
俺は、高ぶった心を落ち着かせながら説明した。
「大丈夫だ。あれは怖い音なんかじゃない。あれは、仲間を作る儀式だよ」
彼女にとって一番わかりやすい例えだろう。あながち間違ってもいない。
しかし俺の予想よりも彼女は活気を戻していた。
『仲間?! 仲間! 仲間! メーリアも作る!』
満面の笑顔でそいつは多分一割も理解してないはずのセリフを口にした。
ふと挙動が不便になるくらいアピールしてくる俺の下半身と、お日様のように輝くメーリアを順番に見た。
考えるまでもなかった。
俺は心の中で素数を数えながら、そっとメーリアの頭を撫でた。
「うん、だめ」
『えぇぇ、なんで!』
「だめなものはだめなんだよ」
『えぅぅぅぅぐ、仲間……』
なぜ彼女が仲間を欲しがるのか、なぜ泣いているのか俺は知らない。
ただ泣き止んでもらえるように頭を撫で続けるしかなかった。
翌日、元の世界に戻れず一晩中メーリアをあやしていた俺は、当然眠れずにいた。
また困ったことに、懐いてしまったのか寝息を立てる今も俺の腕を放してくれない。
おかげで腕の疲れが半端ない。
そして何よりも、その場面を見られたくない気持ちがあったのだが。
残念ながら、すでに状況を確認しに来たヒッチーとトーイにさんざん冷やかされてしまった。
もちろんその後ろ姿に真ん中の指を立ててやった。
どうせ意味もわからないだろうし、できる限り使おう。
夜の魔法が解けて窓の外から鐘の音が響く。
馬車の轍が地面をたたく音や小鳥のさえずり。
初めてこの世界で朝を迎えた俺が新しく得た景色。
そこで、ドアが開いた。
相変わらず水を垂らすフードの巨漢が目の前に現れた。
彼は「ただいま」でも「おはよう」でもない、無言で近づいてきた。
そして現在、自分がどういう体勢なのかを認識して、血の気が引く。
すぐにでも彼の剣で腕ごと飛ぶのではないかとひやひやしていると、クェヴェンは静かに俺の腕を枕にしたメーリアの顔をそっと擦った。
彼の指が辿った頬には、赤黒い液体が跡を残していた。
「血……?」
俺が思わず声を上げてしまう瞬間、彼は指を口にあてがってしぃっ、と合図を送ってきた。
そして雑な動きで彼女の顔についた血痕を拭く。
メーリアが寝息を変えて、しかしまだ起きる気配がないことからクェヴェンはつぶやいた。
「間もなく魚人族が攻めてくる。ここでじっとしていろ」
それは彼女ではなく俺への伝言だった。
そして、それが俺への心掛かりではないことは、彼の今までの言動でもわかっていた。
「駆け落ちのつもりですか」
俺の質問に顔を歪めるクェヴェンに会合の内容を聞かせた。
商団の船舶の沈没、魚人族の赤光族。そして女王。
東大陸から西大陸のこのロワイヤンに至るまで。
彼が招いた結果を。
「女王……。くくくっ、そうか。人間側としてみれば、どっちみち型にはめないと気がすまないだろう」
まるで、自分は人間じゃないみたいなことを口にした。
「魚人族は、海神を敬畏する種族。祭り上げては恐れ、海の現象に一族の赴きを決める。そして、その一族のこれからを決めるのが神の言葉を承る海の魔女の一族……巫女だ」
女王ではなく、巫女。
魚人族の正体は、ただの低能な連中ではなく、原住民。
隔離された社会で己の文化を磨き上げた、映画などに描写される攻撃性の高い種族。
彼の話による俺の解釈はそうだった。
「そして戦に負け、追い詰められた部族に残るは絶滅だけだ。最後の一匹まで根こそぎ、復仇の余地も残らせない。それが魚人族の、族同士の戦争だ」
しかし、彼の言葉を聞き取るにつれ、徐々に疑問が増え続くばかりだった。
「え、族同士って」
「そうだ。メーリアは虹殻部族の巫女の末裔。赤光族との戦で巫女が亡くなった今、彼女は次の巫女として虹殻族を率いらなければならない」
俺は呆然と彼を見ていた。
メーリアの血筋とか虹殻族とか赤光族とか、そんなものはどうでもいい。
そういうレベルの話じゃない。
眼の前の人間でも魚人族でもない男は、自分が何を仕出かしたか百も承知で、やらかしていた。
「じゃ、じゃあ、今この海に向かっているのは」
赤光族だけではなく。
「ああ、虹殻族もだ。両方とも、最終的にメーリアを狙っている」
これから起きること。
ロワイヤンの海についた虹殻族と赤光族が部族同士の戦いを広げる。
それにこの国は為す術もなく巻き込まれるだろう。
自然とキュリアたちの姿が脳裏をよぎった。
「クェヴェン……。あんた正気か?」
俺はわかりきっていてなお、聞かざるを得なかった。
彼は至って正気だ。冷静で、冷徹で、確固たる目的とそれに担う判断力があるからこそこんなことができる。
正気を通り越して、狂気。
「当然だ。あわよくば虹殻族も赤光族も共倒れで、さしずめもともと優勢だった赤光族をこの国様々が方をつけてくれるだろう。ロワイヤンほどの強大国をたった90万ピッツで動かせるなんざ、世の中の商人もどきも泣きじゃくるに違いあるまい」
愉快に笑うクェヴェンは俺の腕からメーリアを奪い取り、優しく抱きしめた。
「これが貴様の言う駆け落ちなら、何度でも駆け落ちよう」
自分の世界を守るためならほかがどうなろうが構いやしない。
いつだか自分がぼやいた言葉を実現させようとする男がここにいる。
そして何よりもその男の目の奥に俺などいない。
弱くて、腰抜けな俺など計画の妨げになれないと判断したのか。
それとも俺が自分自身に言い聞かせてきたように、関係ない存在と見做したか。
どちらにしろ結果は変わらない。俺の知ったこっちゃない。
だが確かに、もやもやとする何かが俺の中に芽生えていた。