森の中の合唱―3
ハードボイルド
ロワイヤン王国は西大陸の東北の山を整わせて国に立ち上げたらしく、国領にたどる道のりがそんな緩めではないようだ。
また海を隣に沿えることで海上貿易に優れ、それはそれは西大陸に訪れる商団や冒険者にとって立ち寄るしかない地理的利点を有していた。
そしてそのロワイヤンの中でも港にやや近いこの東区には自然と宿屋や酒場、それこそ売春宿などの客商売が多いわけで、リビが運営する酒場『女神の休所』の二階もそれに投じて宿屋として使われている。
2つのサービスを同時に行うことでお客のニーズを充足させる、至って効率的な営業方針だ。
もちろん表通りの酒場や宿屋に比べれば話にならないほど人口の流れは少ないわけだが、それなりに店は繁盛していると思う。
しかし店の側としてみたらやはり酒場と宿屋の差が見えてきてしまう。
基本的に客は、より良いサービスとより便利な施設、そしてもっとも用事に近い場所を好む。
なので東区でも城門とは距離のある、路地裏の奥の奥に位置するこの店でわざわざ宿を取ろうとする客が少ないのは当然である。
その上、10歳から何らかの仕事について社会生活を行うこの世界で、とっくに掃除も終わった今の時間帯に宿に人が残っているのは珍しいということだ。
だから俺は二階に上がった瞬間、物音がするのを不思議に思っていた。
物の音? いや、多分人の声だ。
それが俺の足音が響くに連れて、俺が音の発信源に近づくのに連れて大きくなっていく。
『……ヴェン…アナ………ノ?』
廊下の一番奥の部屋。
声というより、頭の中に直接響いているような音。
ドアを開くと、俺はその音の在り処から目を離せなかった。
『ダ……タハ、ダレ。クェヴェ…ナイ。ダレ?』
ひと一人が入るよりもう少し大きな水槽に、誰かが身を据えていた。
顔面のエラと、人間の下半身ではない、魚類の鱗と尾ビレが目立つ人間が……いや。
人魚がそこにいた。
窓から通る日差しが鱗に届き、彼女が身を揺らすたび緑に、赤に、虹色に輝く。
普通の人間とは程遠い瞳は焦点がなく、虹彩が見当たらないその瞳は、何を見て何を思っているのか予想もつかず、黒く光っていた。
この世界で人間じゃない人外を見るのは初めてではない。
表通りや商店街へ歩き回るだけで他の種族の者は見当たることができる。しかし、人間でなんの能力もない俺がそういう人外に近づくことはまずありえない上に、この店だってほぼ人間族の募り場である以上、こんなパッと見ても陸と縁のなさそうな種族と出くわすことなど想像もしていなかったわけで。
その瞬間、俺はぼうっと見とれてしまった。
そして最初は途切れ途切れ、ただの音だと思っていたものが徐々に聞き取れ始めた。
『あなたは? だれなの? クェヴェンはどこにいるの? わたしをどうする気なの?」
多分、俺の勘違いじゃなければ俺に聞いているに違いないはずではあるけど。
流石に今まで交わした会話とはわけが違くて、変な気分だ。
「えー、一応この店で働いたものですけどー、あ、すいません。勝手に入っちゃって」
同時に不法侵入について謝ると、人魚は水槽の中を一度潜ってから顔を出した。
『言葉……通じる? なぜ? ナカマなの、ちがう? 人間……仲間? わからない……』
一人で何か言葉を巡らせている。
何だ、この人魚。いや、人……魚? というかこんな客いたっけ?
「あのー、お客さん? 大丈夫です?」
彼女の言動に置いてけぼりで悶々としていると、人魚がまた水槽に潜った。
そしてまた出てきたとき、今度はパタパタと尾ヒレをばたつき始めた。
「うわっ、ちょっ! やめろ!」
やばい! こんな水飛んだら寝具類が全部ずぶ濡れになるぞ!?
あ、そういえば俺、命の危機から逃げている最中だったな! こんなとこで油売ってる場合か!?
『言葉通じた!! 仲間!! 人間で、仲間!! 嬉しい!! クェヴェン~!! 仲間~!!』
窮屈そうな水槽で良くも身動き取れるとか思って感心している場合じゃなかった。
しかし、我に返ったとき、俺はすでに足を深く入れてしまっていたのである。
『クェヴェン!! クェヴェン!! 仲間!!』
出口は、はしゃぐ人魚の声を聞いて駆けつけてきた巨漢によってすでに立ちふさがれていた。
ずぶ濡れのマントをかぶった巨漢、リビに密入国の仕事を依頼した本人が部屋の入り口で俺を見下ろしていた。
俺の後ろでは、水槽の人形が多分彼の名前である『クェヴェン!! クェヴェン!!』と、連呼している。
ってかうるさい!
「貴様……周旋屋の連れだったな。ここで何をしている」
少々のことではびくともしなさそうな形相が、俺を目にして少しうねっていた。
「そ、それはー」
その連れの連れに殺されそうなんで逃げてます、とは口が裂けても言えないわけで、何を言い訳にすればいいのかと悩んでいたら、彼は鼻の先で笑った。
「ふん、所詮は小娘か。部下の管理もままならぬようだな」
正直黙って誤魔化せば問題ないわけだが、その言葉には黙っていられなかった。
「おい……誰が部下だ。俺はあいつの部下でもなければ仲間なんかじゃない。勝手にされちゃ困るな」
「……なんだと?」
俺はこの世界に来た初日から今まであいつに散々こき使われた上に散々バカにされて、ご迷惑かかりっぱなしなんだ。その上、事実無根のことであいつのビジネスに泥を塗ったと誤解されちゃ、そのときこそあの魔の手から逃れられない状況になるに決まっている。
原金500ロワだったのを3200ロワの分、働かされたくらいだ。
ついさっきまでな! もううんざりだよ!
しかし、俺は「あいつらと無関係です」と伝えるタイミングを見誤った。
結果的に俺は、自分の首を狙うやつから逃げてここに来たといのに、わざわざ相手に自分を狙う理由を与えていた。
「貴様、あの周旋屋の仲間でないならなおさら、ここで『何』をしている」
その『何』をどういう意味で取っているのか、彼が自分の得物取っていたことと深く関係してるんだろう。
丸腰で、逃げることも叶えず、今更「仲間というべきか否か」を悩みながら冷や汗をかく俺は筋金入のばかだった。
命乞いをするために土下座に行ずる単純な動作さえ彼の殺意を促すだけだと、俺は本能的に理解していた。
「はは、話を、しませんか?」
「ああ……無論だ。貴様の所在を、いろいろ聞かねばなるまい。さあ、『話』をしよう」
彼が言う『話』はきっと俺が知っている『話』と違う気がした。
だって得物の先が俺の足だからな!! 何を放すつもりだこのおっさんは!
ああ、どうして毎回こんな目に合うんだ。一階でマイケル・マイヤーズから逃げたってのに二階でジェーソン出現とかマジかよ。三下のスリラーだってこれよりは主人公に優しいプロットになってんだよ。この世界の神様がどんなやつかは知らないけど、ってかその神ってやつが俺を異世界に飛ばしてまで書き上げたかったシナリオがこんなんだったらそいつマジで呪い殺……。
「ってかうるさいわ!! いつまで『クェヴェン』とか『仲間』とか言ってんじゃねー! こんなおっさんの名前でエールされながら死ねるか!!」
『ナカっ、えうぅ……ゴメンナサイ』
水槽の人魚はさっきからずっと同じ言葉ばっかり繰り返していて、それがいつの間にBGMになった感じですっかり忘れておっさんに集中していたが、死に際になって気になってしょうがない訳で。
つまり、こんなくだらない死に方なんか認めたくはないわけである!!
そんな渾身のクレームをどこか宛もない誰かにほざいていたら、さっきまですぐにでも降りかかりそうだった刃物の先端が、視界から消えていた。
代わりに見えてきたものは彼の得物ではなく、フードで隠れていた中身。
傷だらけで、ところどころが鱗で包まれた皮膚。
人間のそれに魚の要素が少しだけ混じった顔面。
「貴様……! メーリアの言葉が、魚人族の言葉がわかるのか……!?」
彼の言葉が理解できないでいる俺に、彼は再び聞いてきた。
「貴様はいったい『何』だ……?」
どうやら、話が最初に戻ったみたいだ。
仲間!