光らない星様はまだ光らない
撃沈。
鼻をくすぐるアロマの匂いとまぶたを襲う光の中で、久しぶりに夢を見た。
俺は一体何者だろう。なんで今まで生きているんだろう。
壊れたビル。響く轟音。見えない光。遅い来る恐怖と寒さ、あとそれすらあやふやにする幼さ。
助けを求めた民は息途絶え、助けに来た勇者は炎に飲み込まれた。
彼らは何を考えていたんだろう。何を考えてこんな命を救った。
たかが子供一人のためにどうして自ら踏み台になりえる。
何様気取りで自らの命を台無しにするんだ。
俺はああなりたくない。
感謝の気持ちとかみんなの分も生きろうとか、微塵も思わない。
人のために命を投げ出すとか、犬死にも程がある。
俺は行く。登って登って光を追うぞ。
せいぜい俺の下敷きになって、あの世で待ってろ。
絶対、俺はお前らみたいにはならない。
気がつくとそこは見覚えのある礼拝堂だった。
俺はあの時と同じく隅っこの席から目を覚ました。
周りを見回すとただ一人のシスターが俺とは反対側の隅っこの席でスヤスヤと寝息をついていた。
ふと魔の差した出来心でその寝顔をジロジロと見つめた。
最初の時はどうも不親切なシスターだと思ったけど、今こうしてみると、言葉が出ないほど美しい顔立ちをしている。
綺麗とかかわいいとか、そういう賞賛の言葉が物足りない感じすらしてくる。
「ホント綺麗だな」
誰かを前にしてこんな言葉を直接口にしたのは二十年人生で初めてのことかもしれない。
それくらい、シスターさんは優れた美貌の持ち主だった。
しかし初めての出会いからして多分、彼女は喉が不便なんだろう。
神はこの人に美しさを与えて、声を奪っていったのかもしれない。
そんなことを考えていると何か哀れで、大変失礼な気がした。
「あ」
俺はどうしちまったんだろう。思わずその柔らかそうなほっぺに指をつついて、自分で驚いて声を上げるというバカをした。
「うっ、え、ん?」
やばい。と思った時はすでに遅かった。
彼女は俺の指と顔を目で順番に追いながら顔色を変えた。
しかし俺がなによりも驚いたのはそういうところじゃない。
「な、なな、なにするのですかこのクソムシが!?」
彼女の声帯はどうやら正常でいらっしゃるようだ。
「く、クソムシが! ムシケラに等しい下等生物の菌がああ!」
そして俺は少しづつ違和感に気をついた。
「じ、浄化! そう、浄化しないと! 病気に侵される、汚されてしまうのです!」
シスターはもう正気にはみえなかった。席から飛び上がって派手で白い礼服でほっぺが焼けるんじゃないかと思えるほど拭いている。
「あの、そんなにこすったら傷つきますよ、せっかくきれいな肌なのに」
「はっ!」
ほっぺを拭くのに一生懸命になって一瞬俺の存在を忘れたみたいだ。
「な、なななぬ、なぬ言ってますか、く、クソムシ! オタンコナス! トカゲの尻尾!」
シスターはもう顔真っ赤っかになって目をそらしていた。
それにどうも、さっきから聞こえる悪口が様になってない。
要するにガセにしかみえなかった。
しかし俺も俺で大概なやつだ。こんな普通に悪口言われてるのに何とも想わないとは。
本当にムカつくというか、それ以上命に係わる悪口を毎日聞いているからか。
頭の隅っこでせんべいをかじって感激していたあいつが思い浮かぶ。
「あの、そんなに無理して悪口使わなくても」
「えっ、別に、ムリなんかクソ喰らえですけど! クソ当然の下等な寄生虫ばかばかばっかっかにはわからないのです!」
「あ、は、はい。なんかすみません。あの、寝顔がとっても可愛かったもんでつい魔が差して」
俺は場所的に、あと相手がシスターだからか思わぬ真実を告げながら懺悔していた。
そしてローブが色白だからか、彼女の茹で上がる顔色がやけに目立った。
「か、か、かわ、川沿いの馬の糞!」
照れ隠しと思ったら微妙な悪口が飛び出た。ってかもうどこがどんな意味として使われているのかさっぱりである。
「ほんとに申し訳ございませんでした。だからそんな怒らないでください」
せっかくの美人がなにを口にしてるんだろ。そもそもこの人シスターだよな。
神か何かにつかえる身だよな? ここの神様は怒らないのか?
もしかしたら、ここの神様は口を悪くすることで祀り上げているのかもな。
いろんな経験から、俺の常識が通用するとも思えない。
「い、いや、べ、別にクソムシ当然にそんなに馬鹿らしく怒ってるわけでも、なくて」
口ごもってよく聞こえないが、どうやらそこまで怒ってるわけでは無いらしい。
「い、も、いいからクソ人間は虫らしく外にでしゃばってくたばりなさい、です。ここは紐当然のムシケラごときが入っちゃだめなところですからね!」
もう目を合わせてくれることもなかった。そしてまだ浄化という名のもとでほっぺをこすっている。流石に勢いは弱まったけど。
俺はもう十分謝ったと思ってドアに向かった。
「あっ、む、ムシケラ!? そこから出たらクソ当然です!」
すると、表のドアから出るのは色々まずいらしく、彼女は自分にとって不審者以上何者でもない俺に裏の通路をおしえてくれた。
しかしだとすると一つ疑問が残る。
最初の時、なぜ彼女は俺にこのことを教えてくれなかったんだ。
それこそクソ当然にさせるつもりだったんだろうか。
自分のことながら全くおかしいもんだ。普段なら他人がどんなに綺麗だろうと関わること自体を避けるのに。まさか魅了の魔法とかでもかかってるんだろうか。だとしたら厄介だ。
俺は礼拝堂の裏道から出て前の方に回ってみた。するとそこには沢山人が通ってて、あと礼拝堂の正門には沢山の人だかりが静かに座っていた。
どうやら参拝を行っているらしく、だったらなぜ礼拝堂をおいてここでやってるのかという疑問よりシスターの言葉の意味がまっすぐ浮かんだ。
あの時は正門から出ても誰もいなかった。多分今日は何らかの参拝があって、それで正門から出たらまずいという意味だったんだ。
口は悪くても、いや。実際口が悪いのかもあやふやなシスターに心の中で感謝しつつ、俺は広場に向かった。
ベメリスさんに頼むつもりだった逃走の計画なんか、始まる前から水の泡になってしまったし、もうフェべロスのために動くしかなくなった。
するとこれからは情報収集がメインになる。でも俺がこの世界でもってるのは運良くもらった訪問証と移動魔法がかかった雑貨屋のレシートだけ。
お金もなにもない俺にできることは片手で数えても半分以上余るくらいである。
幸いなのは今日はルームシューズではなくちゃんとスニーカーで来たことくらいか。
「はあ、居酒屋も夜じゃなきゃ人来ないし、ベメリスさん、どこかな」
「ベメリスさんなら西区にいると思いますよ。昼にはだいたいそこで物語っていたりするのです」
「お、そうか。ありがとうな」
早速行くとするか。この世界では俺も向こうでのフェべロス同様、無知すぎる。
ベメリスさんという心の支えがなければどうも不安でしょうがないのだ。
「なに人を無視する気まんまんですか。利子込みで700ロワ、きっちり弁財してもらいます」
適当にずらかろうとしたがやっぱり失敗した。
足先を西の方に向けた途端前方を遮る宿屋の店主。
「そんなこと言ったって俺お金なんか全然無いんだけど」
「だから体で払ってもらいます」
「え」
こいつの商売を知っている俺としては固まるしかなかった。
これは喜ぶべきなのか。一石二鳥なのか?
でも、俺はお金で結ばれる関係とか、いやなんだよな。それとも、まだ経験が無いからなのか。もし経験済みになったら俺も彼女のようにビッチになったりするのか。
「なにを悶々と悩んでいるんですか。あなたみたいな能無しはお盛んのばあさんでもお断り申し上げですよ、早漏のエイさん」
「おま、昼間から何言ってんだよ! あとソウロウチガウシ」
「目そらせば可愛く見えるんじゃないかとかおもってたりしてますか。気色悪いだけですよ」
いつにもましてえげつないな。さっきのシスターといいフェべロスといい、この世界には毒舌吐く女しかいないのか。
みんな、少しはべメリスさんを学んでほしいわけだ。
「何ぼっとしてますか。行きますよ」
「え、ちょ、お前」
やることも別になかったからもともと付き合おうとは思ってたけど、意外と力強くて驚いた。
リビにつられてついたところは東城門だった。そこから入ってくる馬車の中でリビ担当の荷物を各々の指定された店に納品すること。リビは鍛冶屋、武具店、道具店他諸々の運び屋の仕事も担っているらしい。
道具店や居酒屋とかは頷けるけど、その前の二つはどうも女の子にできる仕事には思えなかった。
しかし彼女がやってると言ったらどうも様になってる場面しか思い浮かばない。
一体どこまで守銭奴なんだ。それともただのワーカーホリックなのか。
「何をぼーっとしてますかエイさん。一番近いところから始まります。まずは道具店ですよ」
馬車に入ったものはだいたい袋に包んでいたり、木箱で詰まっていたりしていた。そこにはまだ使ってない呪文書みたいなのもたくさんあって、今更ながらファンタジーだって思ってしまう。
馬車に連れて道具店につくとリビは早速荷物を下ろし始めた。俺もそれを真似て何個か運んでみたが、ポーションの材料となるハーブの詰め合わせが意外と重くてミスの連続だった。そして、そのミスは短時間に対処できるものではなかった。
「何してるんですか! 呪文書の木箱の上にハーブの袋なんか載せたら呪文書に傷つくかもしれないんですよ!」
「す、すまん」
「あ、ああ! 宝石類は表にちゃんと"魔法石"と書かれているじゃないですか! 下ろすときはもっと慎重にしないとヒビ入って売り物にならないんですよ!?」
「う、わあっ! ごめん!」
「……エイさん、私の話聞いてないですよね! どうしてハーブを灯の下に置くんですか! 万が一火種が飛んだらどうします!? あなたは常識というものがありませんか!?」
「あ、ああ。気をつけるよ、うん」
なんか理不尽に思えてきた。こっちは初めての仕事だ。もっと色々と教えながらやってくれてもいいんじゃないかと思った。
もちろん仕事を始める前に道具に対する注意事項を述べていたけど、こっちは初仕事なんだ。全部覚えられるかよ。
そんな感じで一時間くらい過ぎて道具屋の納品が終わった。と言っても俺は荷物の四分の一しか運べてない。残りは全部リビが運んでいた。その上、俺の手違いで品物の合計を間違えたり、運ぶ位置を間違えたりして仕事が増えっぱなしだった。
決定的に、俺が運んでいた消耗性の道具が何個か使えなくなり、その分仕事の代金が叩かれることになった。
「防御系呪文書に害毒瓶、痛み止めに氷球……。はあ、呪文書だけでも2000ロワは叩かれると言うのに」
謝りの言葉はもう出なかった。すでに俺は何度も謝って、リビは何度も仕方ないとだけ言っていた。
「次、急ぎますよ。もうだいぶ遅れてますので」
「あ、ああ……」
この時すでに俺の意欲はゼロになっていた。しかし、俺のせいで収入の相場が違ってくる上、仕事の流れにで支障がでると思うと、どの口がやりたくないとか言えるだろうか。
さすがに鍛冶屋や武具店のときは他の人手がいた。大の男三人で、みんな体が引き締まっていて、筋肉がついている。重いものを運ぶには適役な人たちだった。
当然、その後の納品でもミスが起きた。ただ武具店らしく大体のものが硬度のあるものだったので、お金を払わないといけないくらいの損害には及ばなかった。
せいぜいリビに小言を食らったくらいである。
しかしここでは仕事のミスより他のことで傷ついてしまった。もしかしてとは思ったが、俺の方よりリビのほうが断然運べていたから。
いくら不慣れな仕事だと言っても重いものを運ぶだけなら男の俺のほうがうまくできそうな気がしていたんだ。
しかも相手は冒険者とかの力を要する職業でもない。町の宿主なんだ。
つまり俺は村娘Aに力仕事で劣っていることである。
リビ曰く、「エイさんは要領が悪い」と言っていたが、そんな部分を含めてなお勝てると思っていたんだ。
結局、なんだかんだで仕事が終わったが、俺には逆に増えている弁財金と、敗北感だけが残った。
「今日もよく働いた!」と夜の魔法が降りかかる間、俺はべメリスさんに昼のことを愚痴っていた。それを聞いてさも当然のように助言をした。
「エイさんの世界の道具を持ってくるのはどうでしょうか」
そうすると断然俺だけの強みが出るということ。
だがしかし、それを考えられないほどバカな俺でもない。
「あ、ああ、まあ。レシートも持ってきてるわけだし、多分可能ではあるんでしょうけど」
今だって普通に自分の服着てるし、あとあのゴルモーイのフィギュアだってある。
電気製品とかの繊細なものを除けばそれなりに使えるものがあるかもしれない。
しかしそれを持ってきたらファンタジーな世界に何か味がなくなる気がしたり、そんな理由もあるにはあるけど。
もっと根本的な理由を付けば、いっそ魔法使い雇ったほうが簡単だからだ。
この世界には魔法がある。俺の世界には魔法のような便利なメカニズムがないから人間の知恵と科学を用いて道具を作ったんだ。でも魔法があるならそりゃもう浮遊魔法やら移動魔法やらを使ったほうが手っ取り早い。
もちろん、魔法だけでは精密なコントロールが難しいかもしれない。でもだからって異界の道具なんかを持ってきてしまったら、オーバーテクノロジーが起きる可能性がある。
「おーばーてくのろじー、というのですか?」
「はい。現代技術より遥か先にある技術のことです。そのせいで世界が一変する可能性が高いです。特に戦争、やらがですね。あと、どうしてそれがいやなの?と聞かれたら正確には答えられませんが、俺はここが変わるのを望んでいないんですよ。いや、まあ、いつかは変わるだろうけど、少なくともそんな爆発的な進歩は望んでません。ましてや俺がその中心になるなんて、なんか違う気がして」
いろんなSF映画や小説によく出てくるシーンがある。
エーリアンから入手したテクノロジーを用いて急激に発展した社会が環境汚染やA・Iの反乱、大量殺傷武器の使い間違いなどで滅ぶというありきたりなシーン。
そのどれもがテクノロジーを使い間違った挙句、滅亡に駆けつけるマイナスイメージをわざと反映している。
まあそれは間違った思想や判断でことを誤らないようにしましょう、という意味だが。
最初、この世界を夢だと勘違いしていた時思った。
なんて素晴らしい世界だ。スモッグや空気汚染もない。その上、道をあるきながらスマホを見る人もいないし、その癖に自分からぶつかっておいて逆上する人間もいない。
詰まり詰まった車の行列もないし、ラッシュ時で走るサラリーマンや押しつぶされて窒息されそうな地下鉄もない。
この王国の広場も東京駅や新宿駅同様、行き交う人でいっぱいいっぱいではあるけど、少なくともその顔を眺めたらどこかがイキイキしていた。
ぶっちゃけ、不便すぎる。だが生きている。
そういう感じだった。
至って俺の個人的な偏見かもだけどね。
そしてそのことすらこの平和な王国だけの話かもしれないけど。
結果的に俺は、なんて安らかな世界なんだ、そう思ったんだ。
これは、そのどっちの世界でも社会の歯車に属することなく、外野で眺めていただけの俺だから言えるのかもしれない。
自慢することでもなく、むしろ恥じるべきだけどな。
「それで、俺はこの世界なりの流れで変化を遂げてほしいんです。えーと、うまく説明できないな。なんと言えば良いんだこれ」
あ、そうなんだ。
「生れてこのかた見ることもなかった、不便な世界を目にして絶賛堪能中でございます」
俺ながらなんとバカみたいな答えだろうか。よくできたあほだ。
べメリスさんが口を開いた。
「欲がないんですね。エイさんは」
「い、いや、まあ俺も人なりの欲はあるんですよ。お金たくさんできたらいいなーとか魔法とか使えたら便利だろうなーとか」
それこそ女の子にモテたらいいな、とか普通に思ってる。
「それでいつまでたっても無職でいるつもりですか。二十歳で無職で無能で借金でお盛んなエイさん」
「はいはい、悪かったっですよ。主さん」
目の前にプリオという酒を二杯置きながらリビが割ってきた。
この酒は発泡酒を連想させるもので、果物酒のような酸っぱくて甘い感じはないが、それなりにビールに近い喉越しを味合わせてくれる。
しかしやっぱ発泡酒飲むくらいなら生ビール飲みたいな。何個かこっそり持ってこようか。
「リビちゃん、エイさんはそんなに出来損ないですか?」
「ちょ、べメリスさん……」
あなたにまでそんな直接言われたら立ち直れそうにないのですよ!
「出来損ないというか、使えません。全くこれっぽっちとも。ここに関しては早漏でもなく不能に等しい感じです」
「お前な! こ、言葉を少しは選べよ!」
清純で清らかであどけなさこの上ないべメリスさんの前でなんてことを!
「はあ、これ以上ぴったりな例えがありますか」
いや、まあ上出来だとは思うけど。
「か、彼はそこまで無能ではないですからね? あと、不能でもない、と思います。絶対」
「あ、ありがとうございます!」
べメリスさんは笑っているのか、それとも恥ずかしがっているのかよくわからない反応をした。
「ふーん。やけに庇うじゃありませんか。まさか私の知らないところですでに出来上がったりしているのですかお二人さん」
リビの問いにまた先日みたいに笑みを浮かべるべメリスさん。
「ふふっ、それはどうでしょう」
あれ、なんかこの会話、俺をおいて言い争ってるように聞こえたりしなかったりするんじゃないのか?
「あの、お二人とも、そういうのはもっと俺に直接話題振ってくれませんか。もっとアピールしてもいいんですよ!?」
「あらまあ、冗談ですし」
「不能はいりませんので」
「はは……、そっすか」
まあ、当然か。二人とも相手が俺に気があると前提して相手をからかうために言っているだけだ。
しかしお互いが狙いあってんのになぜ外側の俺だけダメージ入ってくるんだよ。
まったくひどい話だ。
「リビー! あたしのお出ましだー」
「あ、キュリア姉さんだ」
モテ期の幻想が早くも終わった時、見覚えのある女性が群れを連れてきた。
眼鏡のおっさんと二人の警備兵を含めた10人ほどの大人数だった。
「なんだ。無職じゃん。ぺっ!」
「おい、店主さん。この人、床に唾吐きましたよ。あと俺はそんな名前じゃないよ?」
「よかったですねエイさん。床を拭く程度なら無能で不能なあなたでもできるはずですから」
「えっ、こいつ不能なの? ぷっ、ぷぷっはははっ!!」
「不能じゃねーよ!」
東区第三警備隊隊長、キュリア、というイノシシのような女は店に入った途端つばを吐いたり無職呼ばわりしたり、最後は不能と聞いて腹で笑ったりなんとも嵐のような功績を残した。
そしてもっとたちの悪いのは、フェベロスからの視線に似た、目で人を殺しそうな視線だ。
「なあ、リビ。あたしと連れの分の酒、いつものテーブルでよろしくー」
「注文受け取りました」
オーダーを聞くなりすぐマブラさんのとこへ走ってくリビ。キュリアの連れの中でヒッチーとトーイ、ボーベの警備隊の三人は、俺と目が合うと軽く手を振ってくれた。
服装が鎧じゃないことからもう仕事帰りって感じかな。
「ん? 隊長さん、あんたは行かないんですか」
キュリアさんがまだその場で俺を見下ろしている。俺だけじゃなく、べメリスさんを見る目も尋常ではなかった。
「どいつもこいつも胡散臭いやつばっかだな。どうせそこのメギツネが手を配ったんだろ。あたしはてめぇもこの女も信用してねー。せいぜい身だしなみに気をつけることだな、無職」
あとリビにちょっかい出すんじゃねーよ、と最後にもう一度、床につばを吐いてテーブルに移動した。
同時に遠くから雑巾が飛んできた。程よく手前に着地したそれを持って発信源を見ると、リビが視線だけで「拭く」と言っている。
まあ、昼のお詫びもあるしここは素直に従うとした。
「俺ならまだいいけど、なんでべメリスさんまで」
「仕方ないのです。私だっていきなり町に現れた不審査が王様と知り合いだとか言ったら疑うでしょう」
そこで相手の立場で考えるのか。あんな態度を前にして……。
「べメリスさんは器が違いますね。やっぱり」
「えっ、うーん。そんなこと全然ないと思いますけど」
すると突然俺の膝を触る気配があった。下を見るとまだうまく歩けもしない赤ん坊が、泣きそうな顔で俺を見上げている。
瞬間、自分がしていたことに気づいて、罪悪感に襲われた。
すぐに席から立ち上がってその子を座らせる。
「ごめんな。お姉ちゃん独り占めして」
「あら、お姉ちゃんってエイさんったら。ふふっ」
べメリスさんに軽く頭を下げて壁の方にさがる。
そこは常連たちの盛り場。物語と場違いな音色を楽しむために人が集う場所。
俺みたいなよそ者が独り占めしていい場所では、人ではない。
「くくく、やさしいのう、若造。はてさて。残るはこの老いぼれの相席ぐらいなんだが」
俺は人付き合いが良いわけではない。多分、この隻眼の爺さんも俺の顔なんか知らないはずで。
それでも彼は俺のようなよそ者に声を掛けてくれていた。
「……ありがとうございます」
まだ俺のプリオは残りわずか。おじさんのぶどう酒も、楽しめるほど残ってはいない。
でも爺さんは軽くジョッキを挙げてくれた。そして俺もそれに応えるべくジョッキをあてがう。
「アイルベルンじゃよ。アイルと呼んどいてくれ」
「エイです。よろしくお願いします、アイルさん」
穏やかにハープの旋律が歩み出す。後ろから聞こえる酔っぱらいの笑い声も悪くない。
今日の物語は『ピッツアリアの星座』、光らない星様が輝く星座になるまでの話らしい。
夜が更けていく。店内を整理する店員さんたちが酔いつぶれた人を半強制的にチェックインさせて部屋に運んでいるのを見ると、リビの商売の腕前には舌を巻くしか無い。だからここの常連さんたちは酔いつぶれる前に退散したり、潰れたら潰れたで地べたを這ってでも店の外に出るみたいだ。
外の窓から中の様子をみて苦笑いを浮かべていると、べメリスさんが近づいてきた。
「まだ帰らなかったんですね」
「いやあ、そろそろ帰るところです」
今日も収穫はなし。もともと情報というのがそんなにたやすく手に入られるくらいだったら、フェベロス自ら探せただろう。俺は悪くない。
「というか、あいつあんなことしていいんですか」
「え? あーそれは、もう。みんなを保護するという意味でいいのではないでしょうか?」
「こんな平和ですのに?」
俺は横の道端でぶっ倒れたままいびきを掻いているおっさんを指差した。
「それでも危ないのは危ないのですよ? 平和と言っても、ただの人間としての平和。人間同士の争いは繰り返されてるんです。エイさんの世界もそうでしょう?」
「そりゃ、そうですけど」
まあ、考えてみればそうだ。この国の東区だけでも警備隊が十二部隊はある。人外との戦いを騎士団が務まるとしても、その数は多い。人間同士の、それも王国の国民同市の争いだけを携わるのにしてもその規模というのだ。
それはもちろん、人外などいない日本も同じだ。いくら平和気取りしても穴場はある。
完璧な平和などこの世のどこにもない。
平和ボケで危機感が薄れた時代の若者である、俺でさえそう思えるんだ。
ますます平和って言葉の意味が理解しがたい。
「でも、みんな結構いい人じゃないですか。あ、さっきアイルベルンさんと酒飲んだんですよ。毎日べメリスさんの話をつまみにしているようですね」
「アイルさんですか。いつもお世話になってる良いお方です。昔はヴィリノーイ王国周辺で冒険者をしていらっしゃったとか」
「はは、それさっき聞きました。いや、武勇伝がすごくて驚きましたよ」
町を苦しめているジャイアントスパイダーの駆逐とか鉱山を占拠したリザードマンの黒輪尻尾部族を退治したり、仲間たちとのワクワクする冒険譚を聞かせていただいたものだ。
「エイさん。前に、どんなことでも聞くっていいましたね?」
「はい?」
べメリスさんが俺の手をぎゅっと、掴んだ。
「あっ、あ、あ、えーと」
頭に熱が上がる。「もしかして」と「まさか」が頭のなかで飛び回っていた。
そして、二つの隙間を「やっぱり」が割ってきた。
「人に、容易く心を許さないでください。せめてこの世界だけでは」
「あ、へ?」
いきなりの言葉に戸惑うのは当然だ。誰だって多分そうなるはずだ。
「じゃないと、貴方が壊れてしまいます」
最初、彼女の手は震えていた。それがいつの間にか沈んでいて、今は夜の魔法の施した夜風でひんやりしている。
べメリスさんはどこか悲しんでいるように見えて、そのベールの奥が見えない限り確信などできやしない。
彼女が今した言葉と行動にどんな意味があるのかを独りで一生懸命考えてみても、それこそ一生答えは出ないだろう。
いや、もしかして。彼女は心に傷を負っているのではないだろうか。今はそれを癒やしてほしくて俺の手を繋いだのではないだろうか。
もし今の話は自分のことを俺に投影しての話ではないだろうか。
これが、彼女のSOS信号なら俺がやるべきことは。
「あ、そうだ。エイさん。今していい言葉ではない気もしますけど……」
「は、はい!」
彼女が何かを思い出したかのように手を放してドアに向かう。
「私、旦那様がおりますので、くれぐれも惚れないでくださいね? ふふっ」
その楽しい口調は何を狙ってのものなのか予想もつかない。
ただ一つだけは理解できた。
彼女のアドバイスはこの瞬間、俺の心の深くに、確実に、根を張った。