夜光花
遠山信広、32歳。一応作家である。
大学を出た後に、とある企業に就職。勤勉に勤める傍ら、俺は大学の頃から書き続けている物書きを止められないでいた。
折角書き上げたものを溜め込んでおくだけではもったいない。で、何度か新人賞に応募している内に『下手な鉄砲も数撃ちゃ』当たった。丁度5年前、28歳の時だ。
それから徐々にではあるが執筆の依頼が入り、会社を辞め、作家業の道に入った。最近ではどうにか物書きだけで日々の生活に困らないようになってきた。家族は妻に、小学生の子供が2人。
仕事に勤しむ日々である。
だが、元々俺は地道に小説を書いているようなタイプではなく、机に向かってパソコンのキーばかり叩いていると、どうも体がなまっていけない。いけないばかりか気持ち悪くなってくる。これでも高校までは野球に明け暮れる日々を送っていたものだ。大学では肩の故障で野球からは離れてしまったが、スポーツはできる限り行ってきた。まず汗をかくというのは楽しいものだ。
それをどう間違ったものか小説など書き始めてしまい、今にいたる。たまに草野球などに参加する事はあっても、その他には、そうそう体を動かす機会はなかった。
そこでだ、俺は一つ習い事をしてみようと思い立った。もちろん体を動かす習い事だ。さらには、元々興味のあった、日本古来の何か古武道のようなものを。
俺はつてを辿り、何か手ごろなものはないかと探した。すると、ある知人が俺に教えてくれた。
「弓道でよかったら、1人先生を知っているから、紹介してやるぞ」
弓道と聞いて俺はあまりピンとこなかった。俺が抱いている弓道のイメージといえば、矢を放つだけの地味なイメージ。確かに武道ではあろうが、スポーツとしては程遠いような。
だが知人は首を捻る俺に、
「見た目は地味だけどな、やってみると結構疲れるもんだぞ。それにな、弓道は精神のスポーツだ。何よりも精神が鍛えられる」
俺は、精神はともかく、運動がしたかったのだが、その知人に強く勧められるまま、一度その先生が自宅に構えているという道場に赴く事となった。
先生、渡瀬邦孝先生の自宅は、都心から離れた郊外の、田園風景の残るある一角に建てられていた。広大な敷地に二階建ての、まだ建てられてから間もない住居。その庭先に、長さが60メートルはあろうかという道場を備えていた。
8月のある晴れた日、俺は知人に伴われて渡瀬先生の元を訪れたのである。
出迎えてくださった渡瀬先生は、今年で68歳になると聞いていたのに大変に若々しい方で、大柄で背筋もきちっと伸び、豊かな白髪は几帳面に整えられていた。やや丸顔の、戎様とでもいったような柔和な笑顔がとてもよく似合う、好々爺といった感じだ。
座敷に上げられた俺は知人によって先生に紹介され、少しの歓談の後、実際に道場へと足を運び、先生の腕前を見せていただく事となった。
俺達を先に道場へと向かわせた先生は、少し遅れて白の袴姿で道場に現れた。
平日の昼間でもあり、お弟子さんの姿は他にはない。片隅に正座して見守る俺達の視線を受けて、弓矢を手にした先生は板間の中央に立ち、的を一瞥すると、静かな澱みのない動作で弓を引き絞り構え、まるで的に当てようという気概がないように躊躇いなく矢を射た。
絹を無理矢理引き裂くような音を残して矢は飛び、やがて晒された白日の向こう、屋根の影に物憂さそうに飾られた黒白の的の、その核たる中心を見事に射抜いた。その時起こった紙の張り裂ける乾いた音は、まるでまどろむ時の流れを一瞬突き上げ、急かすように響いた。
俺は静寂を破られ、思わず拍手しようとしたが、知人に止められると先生の二射目を、僅かに騒ぐ心持ちと共に見守った。
二射目もまた、何事もなかったように放たれ、的の周りに固められた盛り土は、矢の刺さる恐怖を忘れたように日陰に涼み、そんな盛り土を驚かす事なく、矢は再び正確に的を捉えた。
三射目、四射目、五射目、先生の放たれる矢はそれがまるで運命であるが様に的の中へと吸い込まれ、危なげなく的を射た。
ようやく先生が射撃を終えた時、俺は畏怖の念にかられた。拍手などもっての他だ。沈黙こそが最大の賛辞となる。いくら素人の俺でも、先生の偉大さを身に染みて感じた。
と、先生は俺を招き寄せると、自らの弓を手渡されて、
「試しにどうです?」
とおっしゃった。俺は当然の事ながら素人であり、先生の後、無様な姿を晒すだけだと遠慮しようとしたが、
「初めから上手に出来てしまっては、私の立つ瀬がありませんよ」
と、笑っておっしゃったので、俺は教えられるがままに弓を取り、矢を取って的に対した。
左手に矢を番えた弓を持ち、斜に構えて板間に立つと、矢の筈を右手の指で掴み、一度高々と頭上に掲げてから、腕を自然に開くように弓を引く。とてもぎこちなく、引いた弓の抵抗が意外に強いのに俺は驚かされた。腕がブルブルと震え、とてもではないが的など狙えそうにない。だが、なんとか体勢を整えると、遮二無二それらしき方向へと放った。
しかし、その矢はまるでやる気なく実った稲穂のように頭を垂れて、半ばも行かずにだらしなく地面に刺さった。こんなんでは苦笑いするしかあるまい。
風の吹き込む板間に3人して座り込むと、俺は早速先生に入門を願い出た。意地というかなんというか。意外に弓道は奥が深く、面白い事を実感したからだ。
先生は俺が望むならばと丁重にお受けして下さった。しかし、
「弓道はただ的に当てるだけのものではありません。心が大事なのです。まずそれだけは心に刻んでおいてください」
と、弓道に対する心構えを俺に諭された。
俺はまだ正直、弓道のなんたるかさえ知らなかったものだから、ただあれだけの腕前の先生のおっしゃる事、意味が分からずとも無条件に頷いておいた。だがしかし、この事が後々になって俺を苦しめる事になるのだが、それは先の話。
こうして俺は、この日から渡瀬先生の門弟になり、弓道を学ぶ事になったのである。
※
「弓道は弓を引く事によって筋肉を発達させようとするものではないのです。ですから、あなたは弓を腕の力で引いてはいけません。心で引くのです。つまり筋肉をすっかり弛め、力を抜いて弓を引く事です」
俺に与えられた先生からの最初の課題は、このようなものだった。
仕事の合間を縫っては道場を訪れ、澄み切った青空の下、紺の練習着に身を包んだ俺は、道場の傍ら、固く束ねた大きな藁束を前にして稽古弓を引き絞った。けれど「心で引く」とは一体どういう事なのか、俺はどうしても先生の言葉の意味が分からなかった。なぜなら、とてもではないが力を入れなければ弓は引けず、また、射放つためにはその体勢を保持し続けなければならないのだが、数秒の後には俺の腕は緊張に震え、呼吸は段々と苦しくなり、射放った後に、ようやくその苦しみから解放されるという具合なのだ。
俺は自分でも驚くほどに稽古を積み、先生が言うところの「心で引く」を体得しようと試みたが、一向にその成果は現れない。そこで俺は、先生の言葉の裏側にあるものを読み、きっとこれには何かしらのコツのようなものがあるのだが、あえて抽象的な言葉を使う事によって、俺にあまり早く悟らせまいとしているに違いないという思いに至った。きっと時期がくれば、分かりやすい言葉でそのコツを伝授してくれるに違いないと。
だが俺は先生の伝授を待つ事なく、先生を驚かせるつもりで、そのコツを探し始めた。言葉の意味さえ分かってしまえばこちらのものだ。事柄をあれこれと思い巡らし、これかと思うものを次々と試していった。しかし、俺の企みは悉くついえ、どうしてもコツを得るまでには至らなかった。
ある日俺は、ついに行き詰まりを感じ、先生に教示を求めた。すると――
「あなたが弓を正しく引けないのは、肺で呼吸するからです。腹壁が程よく張るように、息をゆっくりと圧し下げて、痙攣的に圧迫せずに、息をぴたりと止め、どうしても必要な分だけ呼吸してご覧なさい。一旦そんな呼吸の仕方ができると、それで力の中心が下方に移された事になるから、両腕を弛め、力を抜いて、楽々と弓が引けるようになるのです」
先生は実際に弓を引いてみて、俺に腕を触ってみるようにと言われた。実際その両腕は、まるで何もしていないかのように弛んでいたのだ。
俺は早速その呼吸法に取り掛かった。最初慣れない呼吸法に酷く戸惑ったが、やがて時が経つにつれ、呼吸法を身につけた俺は、矢を射放つ事を許された。しかし、なんとその時、俺は入門してから1年の月日を経ていたのだ。もはや軽い気持ちでの習い事などではなくなってきていた。
矢を放つ。それは右手に手袋を嵌め、詰め物をして太くなった親指を、弦を握った矢の下に折り込ませ、人差し指と中指と薬指で親指を上から掴んで固く握る。そして親指を握っている他の指が開かれて親指を解き放つと、弦が激しい勢いで元に戻るため矢は飛び出すのである。この時、親指の上に抑えられている他の指は、パッと裂けるようにしか開かれなかったが、それでは駄目なのであった。先生が矢を放つのを見ると少しも衝撃は起こらずに、手は不意に開かれて、それがどうなるのか見る暇もなく、稲妻のような速さで行われた。俺は先生の真似をしようと試みるのだが、どうしても駄目だった。
ある日の事、色々と試行錯誤した俺はどうしてもこれ以上は自分の力では進めないと先生に告白した。すると先生は、次のように言った。
「あなたは頃合よしと感じるか、あるいは考える時に、矢を放とうと思うでしょう。あなたは意志をもって右手を開く。つまりその際あなたは意識的である訳です。そこであなたは無心になる事を、矢がひとりでに離れるまで待っている事を、学ばなければいけません」
けれど俺はありきたりな理屈から、
「意識的に矢を放さなければ矢は離れないのでは?待っていてはいつまでも矢は放たれません」
と、俺の言葉を聞いた先生は、
「確かに、待たなければならないと言ったのは誤解を招く言い方でした。本当を言えば、あなたは全然何事をも、待っても考えても感じても欲してもいけないのです。術のない術とは、完全に無我となり、我を没する事です。あなたがまったく無になるという事が、ひとりでに起これば、その時あなたは正しい射方ができるようになります」
「無になる」とはよく聞く言葉であるが、残念ながら俺には理解しがたかった。それで俺はこんな子供じみた質問を先生にぶつけたのである。
「無になってしまわなければとおっしゃいますが、では私が無になった時、誰が矢を射るのですか?」
すると先生は次のようにお答えになった。
「あなたの代わりに誰が射るかが分かるようになったなら、あなたにはもう師匠がいらなくなります。経験してからでなければ理解できない事を、言葉でどのように説明するべきでしょうか。仏陀が射るのだとでも言えばいいのでしょうか。この場合、どんな言葉や口真似も、あなたにとってどんな役に立つでしょう。それよりむしろ精神を集中して、自分をまず外から内に向け、その内をも次第に視野から失う事をお習いなさい」
そして先生は深い集中に到達する仕方を教えてくださった。俺はそれを実行に移し、長い間稽古を続けた。
だが、なかなか成果は表れなかった。時折は弓を引き絞っている間、無我の境地に達したように感じられた事はあったが、矢を放つとなると、もう離れる頃だというのをどうしても考えてしまい、ついには意志をもって手を開き、矢を放ってしまうのである。
「あなたは無心になろうと努めている。つまりあなたは故意に無心なのです。それではこれ以上進みはしませんよ」
先生はそうおっしゃるが、
「少なくとも無心になるつもりにならなければいけないのでは?そうでなければ、私には無心というものがどうして起こるのか分からないのです」
すると先生は、ついに言葉に窮してしまわれた。
時の流れは早いもので、ついに俺は入門から3年を迎えていた。無心の謎が解けない俺は、動きのとれない焦燥から、ある一つの考えに捕らわれていた。矢の放し方は、実は技巧の上だけで解決されるのだと。そうすれば、さながら無心のように射放つ事ができるに違いないと。
俺は実直勤勉に矢を放つ工夫を凝らした。やがてもっともらしい一つの方法を俺は発見した。それは指を目立たぬように弛めていき、あたかも自然と矢が放たれたものと見せるのだ。
早速俺は、先生の前でその工夫した技巧をお目にかけた。上手い具合に矢は自然と放たれ、自分でも満足の行くものであった。俺は先生のお褒めの言葉を期待せずにはいられなかった。
だが先生は一言もなく歩み寄ると、俺の手から静かに弓を取り、それを片隅に置いた。先生は無言のまま座布団にお座りになり、まるで俺など同じ空間にいないようにただ前だけを向いていた。
直感的にその意味を悟った俺は、その場を去らずに入られなかった。翌日俺は、自分が先生の裏をかこうとして深く先生を傷付けたのだという事を聞いた。
すぐさま俺は先生の元を訪れ、精神的に前に進めぬ窮状を訴え、そのため技巧に走ってしまった事をつぶさに述べた上で、この度の事を謝し、全てを分かってもらった上でお許しを得た。それから俺が、盲目的に先生の教えに従い、稽古に励んだのはいうまでもない。
そして俺はついに、先生から認めていただける発射に成功した。俺はどのようにして正しい射方ができるのか未だもって説明ができない。ただ自分は少しも手を加えず、またそれがどうなるのか見守る事もできないが、矢はすでに放たれているのであった。
入門から、4年の月日が流れていた。
※
渡瀬先生のおっしゃる通り矢を射放つ事ができるようになった俺は、ついに最終課題を与えられる事になった。それは60メートルも離れた的を、射る事である。それまでは2メートル程しか離れていない藁束を的にしていたのだから、当たって当然であった。
磨きぬかれた道場の板間に立ち、的を目前のものとした時、俺は不覚にも眩暈を覚えた。それ程60メートルという距離は途方もなかったのである。
初めて的を狙う俺に対し、先生はこれまでの稽古をただ繰り返す事を勧めた。しかし俺の眼に、的は頼りないほどに小さく映り、どうしても当たりそうにない。そこで俺は、的に当てるにはどのようにしたら良いのかを先生に尋ねてみた。
「的はどうでも構わないから、これまでと同様に射なさい」
との言葉を戴いた。
だか、それでは俺の求める答えではなく、当てるためにはどうしても狙わない訳にはいかないと返した。
すると先生は声を励まし、
「いや、狙うという事がいけない。的の事も、当てる事も、その他どんな事も考えてはならない。弓を引いて、矢が離れるまで待っていなさい。他の事は全て成るがままに任せておくのです」
そう言って先生は弓を取られると、矢を引き絞って射放した。矢はさもそれが必然とばかりに、的の中心に立っていた。
「私のやり方をよく見ていましたか?仏陀が瞑想にふけっている絵にあるように、私がほとんど眼を閉じていたのを、あなたは見ましたか?私は的が次第にぼやけて見えるほど眼を閉じる。すると的は私の方へ近付いてくるように感じられる。そうしてそれは、私と一体になる。これは心を深く凝らさなければ達せられない事である。的が私と一体になるならば、それは私が仏陀と一体になる事を意味する。そして私が仏陀と一体になれば、矢は有と非有の不動の中心に、したがってまた的の中心に在る事になる。矢が中心に在る――これを我々の目覚めた意識をもって解釈すれば、矢は中心から出て中心に入るのである。それゆえあなたは的を狙わずに自分自身を狙いなさい。するとあなたはあなた自身と仏陀と的を同時に射当てます」
とりあえず俺は、先生の言葉に従ってみる事にした。が、言われた事の何割かもできなかった。
先生のおっしゃる通り的を視野から一切去る事。つまりは狙いを定めるのを放棄するという事は、俺にはどうしてもできなかった。それにも関わらず、俺の矢はあらぬ方にばかり飛んでゆき、一向に的には当たらなかった。
俺は自分の不甲斐なさに悔しくなった。その悔しさがまた悲しくて、次第に俺は的に当てたい一心で矢を射ていた。
だが、そんな俺の焦りを先生は難じた。
「当てようと気を揉んではいけない。それでは精神的に射る事を、いつまで経っても学ぶ事ができない。あれこれと試してみて、なるべく多くの矢が少なくとも的の枠の中に当たるようにするのはたやすい事です。あなたがもしそんな技巧家になるつもりなら、私というこの精神的な弓術の先生は、実際に必要がなくなるでしょう」
事実、決して技巧家になどなろうとは思っていなかった俺は、先生の言葉に従って的に矢を当てるという目的を捨て去った。俺は再び的に対峙し、数知れぬ矢を射放った。が、いくら努力しようとも精神的な射手にもなれなかった。
やがて俺は、後一歩のところで、今までの苦労が実を結ばない結果で終わってしまうのではないかという不安にかられた。
その影響は仕事の方にも現れ、まったく筆が進まなくなってしまった。締め切りを守れず、ついには脱稿し……。小説家と出版社は信頼関係の元に成り立っている。もし原稿の約束を度々破るようなら、出版社の方としても考えがある。家族を養う俺にとっては、死活問題であった。
ついに俺は、今後弓術を続けるか、続けまいかの瀬戸際に立たされた。
そこである日、俺は先生を訪ねて、自分にはこの狙わずに当てるという事が理解も習得もできない訳を申し述べた。すでに俺の頭の中は、自分にはできないという考えが支配していた。
先生は俺を宥めようとする。が、俺の思いは変わらず、話はなかなか上手く進まなかった。
すると先生はついに、俺の行き悩みは単に不信のせいだと明言した。
「的を狙わずに当てる事ができるという事を、あなたは承服しようとしない。それならばあなたを助けて先に進ませるためには、最後の手段があるだけである。それは余り使いたくない手ではあるが」
先生は俺に、その夜、改めて訪問するようにと言われた。
そして、その夜の九時ごろ、俺は再び先生のお宅に伺った。
先生の元に招じられた俺は座布団を勧められ腰を下ろしたが、先生は一切俺の事を顧みらず、黙然となされていた。やがて静かに立ち上がると、付いて来るようにと目配せをして俺の先に立ち、道場に入った。
先生は細針のように細長い1本の線香に火を灯して、それを安土の中ほどにある的の前の砂に立てた。そして無言のままに矢を射る板間に戻り、先生は白袴の衣擦れの音を森閑とした空気に響かせながら弓を取った。
先生は光をまともに受けて立っているので、まばゆいほどに見える。しかし、的は暗闇の中にあり、線香の微かに光る一点は非常に小さく、その在りかを知る事さえ困難である。
先生は2本の矢を手にし、射る構えに入った。その動座は流麗であり、躊躇い、澱みの一切が省かれていた。1本目の矢をつがえ、悠然と引き絞り放つ。糸を引くような音を残して矢は闇の中に吸い込まれ、紙を突き破る乾いた音が矢の的への命中を判然と知らせた。
続いて2本目も先生は素早く構えると、自然の内に射放していた。またしても矢の飛び去る音の後に生まれる、あのパンッ、という張り裂けるような音が鳴り響いた。
矢を射終えた先生は、矢を確認するよう俺を促した。
言われるままに俺は板間を下り、的へと近付く。俺はこれから見るだろう映像をはっきりと予想できた。あの音が物語っている、見事に的に突き刺さった2本の矢。近付くにつれその期待は大きく膨れ、闇の中にその姿を見た時、俺は大いに感嘆した。矢は2本とも見事に的に命中していた。1本はやや中心から外れているものの、1本は正確に的の中心を射ていた。
その見事な姿は、微かな月明かりを受けて白む羽が、まるで神秘的な夜光花のようで。
一時見とれていた俺は、しかしある異変に気付いた。それは的の中心に刺さっている矢の筈が裂けている事である。俺はある予感の元に愕然とした。つまり、先生の放った1射目は見事に的の中心を捉え、続いての2射目も中心を捉えていたのだ。それも1射目とまったく同じ軌道を描いて。ただその軌道の符合が余りにも著しかったために、2本目の矢は1本目の矢の筈に接触し、切り裂いて的に当たったのである。俺はただただその先生の神業に、驚嘆するしかなかった。
俺は2本目の矢を抜いた。するとそこには神々しいまでの輝きを放つ夜光花が1本だけ残った。
その夜光花を摘み取り、俺は先生の元に戻った。
自若として待つ先生は俺の手から2本の矢を受け取ると、少し考え込んでいられたが、やがて次のように言われた。
「私はこの道場で30年も稽古をしていて暗い時でも的がどの変にあるかは分かっている筈だから、1本目の矢が的の真ん中に当たったのはさほど見事な出来栄えでもないと、あなたは考えられるだろう。それだけならいかにももっともかもしれない。しかし2本目の矢はどう見られるか。これは私から出たものでもなければ、私が当てたのでもない。そこで、こんな暗さの中で一体狙う事ができるものか、よく考えてご覧なさい。それでもまだあなたは、狙わずには当てられぬと言い張りますか。まぁ私たちは、的の前では仏陀の前に頭を下げる時と同じ気持ちになろうではありませんか」
先生が1本目の矢の筈に2本目を当てたのは、偶然ではなかった!!
それ以来、俺は疑う事も問う事も思い煩う事もきっぱりと諦めた。その結果がどうなるかなど考えずに稽古に励んだ。夢遊病者のように確実に的を射当てるほど無心になるところまで生きているうちに行けるかどうかという事でさえ、もう気にならなかった。それは最早、俺の手中にあるのではない事を知ったのである。
1度か2度、狙わずに的を射当てた事がある。しかしそれは俺の射方に対する先生の判断に何物も加えなかった。先生はひたすら射手に注目して、的には眼をくれなかった。的から外れた矢でも、先生が注意に値すると見たものは少なくなかった。それは少なくとも、心の持ち方が認められたからである。そして俺が自分でも当てる事はまったく二の次であると考えるようになると、先生が完全に同意を示す矢は、次第にその数を増してきた。
やがて、矢を射る時に自分の周りにどんな事が起ころうと、少しも気に懸からなくなった。俺が射る時に観衆の眼がある事も頭には入らなかった。のみならず先生が褒めるか貶すかという事さえ、俺には次第に刺激を与えなくなった。
ついに『射られる』という事がどんな意味か、俺は今こそ知ったのである。
こうして体得した事は、例え俺の手が弓を引く事が出きなくなったとしても、決して失われる事はないであろう。
そして稽古を始めて5年目のある日、先生は俺に試験を受けさせた。それに見事に合格した俺は、ついに免許状を授けられたのである。
※
渡瀬先生が亡くなったのは、俺が免許状を授けられてから僅か3ヶ月後の事だった。脳梗塞。稀代の名人も、あっという間に逝ってしまった。
俺は何か実感がなくて、葬式、納骨を終えた今でも、先生の声が聞こえてくるようでならない。
考える事は先生との思い出ばかり。この5年という間、厳しくも真摯に教えてくださった先生の面影が、瞑った瞼の裏にはっきりと蘇る。
俺は先生が亡くなったショックから、ここ数日、筆をとる事さえ出来なかったが、こうして先生の思い出に触れていると、いつしか体は机の前にあり、愛用のパソコンのキーを叩いていた。
先生との思い出を、先生の教えを記録しよう、そう思ったのだ。
その物語は、一人のドイツ人学者が戦前の日本を訪れるところから始まる。彼は日本の文化、とりわけ武士道に代表される精神について非常に興味を抱いていた。
彼は招かれた大学で教鞭を取る傍ら、日本の精神を学ぶために武道を志す。そして、知人の勧めにより弓術を学ぶ事を選択したのである。
最初、弓術の先生は彼の弟子入りを危ぶんだ。それは今までにもいくらかの外国人が門弟となって弓術を学んだが、誰一人として弓術の真髄に達したものがいなかったからであった。そればかりか、すぐに止めてしまうのが常であったからだ。
しかし、ドイツ人学者は自分の想いを先生に熱弁し、ようやく門弟として受け入れられる。
だが、彼を待ち受けていたのは、理解しかねる日本人の精神論であった。
何もかもを言葉によって理解し、説明できるとしてきたヨーロッパの思想とは違い、先生の口から語られる言葉は、すべて曖昧なものであり、彼にとって掴みがたいものであった。
多くの壁にぶち当たり、彼なりの理解を示そうとすれば先生に否定され。その中で彼は、一度だけ先生を裏切るような行動にまで走ってしまう。それは全て、真に理解できぬ苦悩からであった。
だが、その時、先生が示してくれた啓示によって彼は全てを知る事になる。そう、あの月明かりに映し出された一矢『夜光花』を目にした時に。
彼はついに全てを悟り、盲目的に先生に従って、ついには弓術の真髄に至って免許状を与えられた。
彼は語る、日本人の精神を。
彼は語る、言葉では表す事の出来ぬ精神を。
全ては、経験によってしか知ることの出来ない精神がある事を。
言葉に頼りきったヨーロッパ人には決して解する事が出来ぬ精神を。
彼は、経験したのだ。そして知った。
俺はパソコンのキーから手を離した。気が付けばあの日と同じように薄っすらとした雲の合間に月が輝いていた。
俺は部屋の明かりを消して、窓を開けて月を眺めた。
今でもありありと思い出せる『夜光花』の姿。あの姿こそ、日本人が遠い昔から受け継いできた精神そのものだったのだ。
ドイツ人学者とは、もちろん俺の事だ。そして言葉に頼りきったヨーロッパ人こそ、現在の日本人だ。
俺は渡瀬先生の言葉を、言葉として理解しようとしたが叶わず、理解ができなくなると自分なりに捻じ曲げた理解を創り上げ、なんとか「理解」という体裁を整えようとした。だが、渡瀬先生の言葉は、一切理解などしなくても良かったのだ。決して、言葉でなど理解できるものではなかったのだ。ただ、経験さえすれば全てが己の物になる。
経験無くして言葉を語る人々。その言葉に力はあるだろうか。
溢れる情報、その情報は語れるものか。
言葉を否定するのではない。言葉が絶対である事を否定するのだ。
言葉では理解できない事がある事を知って欲しい。経験こそが何よりの理解であると。
言葉に飲み込まれてしまった日本人よ。我々はかつて、理解せずとも理解していたのだよ。
研ぎ澄まされた感覚こそが、我々の言葉だった。
あの月明かりを受けた『夜光花』こそが!
参考文献:岩波文庫「日本の弓術」/オイゲン・ヘリゲル述・柴田治三郎訳