10:出発の合図
今日もまた朝が訪れる。
ゆっくりと頭を擡げる太陽の日差しが、雪に埋もれたイドの村を照らし出す。
それが出発の合図だった。そして終わりの合図でもある。
エーミールは、ヴィズに繋いだ犬ぞりに荷をくくりつけた後、背中に背負われたクロスボウと黒塗りの矢筒の位置を確認していた。
そして我が家を振り返った。
そこには、父母と、今しがた支度を終えて家から出てきたばかりのフェリシアの姿があった。
フェリシアはいつの日かリュミネス山へたどり着いた時に身に着けていたコートやケープを着て、銀色の髪に白い髪飾りを付けた格好で、そこに立っていた。
「エーミール、お待たせ」と、微笑むフェリシアの表情にあどけなさは無い。
王女らしさを伺わせる淑やかな微笑を向けられると、エーミールはむず痒さを覚えてしまう。なんだか慣れないのだ。
それでも気を取り直すと手招きをしつつ、エーミールは彼女に声を掛ける。
「おいで、フェリシア」
「……その言い方、もう少しなんとかならないかしら? まだ子ども扱いが抜けていないような」
フェリシアは不満ありげな表情を浮かべるようになったものの、とりあえずは歩み寄っていた。
エーミールはキョトンとしていた。
「じゃあ、他になんて言えばいいの? こちらにいらしてくださいませ~とか?」
「…………変ですよ」
半ば嫌そうな表情を浮かべて、ボソッとフェリシアが言った。
「じゃあどうしろってのさ?!」
エーミールは不条理を覚えていた。
「さあ、どうしたものかしらね」
フェリシアはため息をつきながら犬ぞりに足を掛けて乗っていたから、エーミールはげんなりとしていた。
「……僕の可愛かったフェリシアが……」
「は?」
「いえ、はい。なんでもありません……」
エーミールは即答していた。
今のフェリシアは氷の女神様も吃驚な程に冷たい視線を向けてくれるからだ。
「くそー……」
不満たらたらながら、エーミールもまたそりに乗っていた。
そんな二人を見て、笑い声を上げたのはエーミールの父母である。
「ははは。その調子だと、大丈夫そうだな」
笑ってそう言ったのは父だった。
「そうね。相変わらず仲が良さそうで何よりだわ。この調子なら、この先も上手くやって行けそうね」
そう続けたのは母だった。
「むしろ仲が悪くなったような気がするんだけど……」
エーミールがフェリシアの背中に目を向けると、「さあ、どうかしらね」と言ってフェリシアはぷいとそっぽを向いた。
(可愛くない……『そんなことないもんエーミールのこと大好きだもんー』って言ってほしい! うああ!)
エーミールは内心で悶絶していた。
それを口に出さなかったのは、フェリシアにまたビンタを食らわされたくないからだ。
記憶喪失時代を掘り返すことに関して、フェリシアは過剰なまでに手厳しいのだ。
「……まあでも」と、エーミールは気を取り直して微笑んでいた。
「ここまで深く関わった以上、フェリシアの事は僕が守るよ。安心して」
そう言って両親に対して笑顔を見せるエーミールに、両親は頷いていた。
「ああ。最後までしっかりな、エーミール!」と父が言う。
それに続いて母もまた言う。
「ちゃんと守ってあげなさいよ! 大人だからとか年上だからとか思っちゃダメよ。お姫様は、こう見えて昨日だって――」
「あ、あわわ。黙ってて! それ、黙っててください、お母さん!」
フェリシアは真っ赤になると、すかさず母に口止めをしていた。
「……? 昨日がどうしたの? フェリシア」
エーミールがキョトンとして話し掛けると、「なんでもありません!」と言ってフェリシアはそっぽを向くようになった。
「ふふふ。はいはい、そうね。でも、適度に甘えた方が良いわ。どうもお姫様は無理しがちな人だから」
何か含んだ物言いに対して、フェリシアはため息を零していた。
「わ……わかっていますから」
言い辛そうにごにょごにょとフェリシアは返していた。
エーミールは余計に疑問を深めるのだった。
「じゃあ、行ってきます!」
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい!」
両親に手を振られ、エーミールとフェリシアもまた手を振り返していた。
それから、「ヴィズ、ゴー!」と声をかけ犬ぞりを走らせる。
ヴィズはその白い巨体を揺らしながら、そりを引いて力強く雪上を駆けて行く。
それに伴って、雪景色が流れて行くのだった。どこまでも。どこまでも。
まるで軽く家を出掛ける時のような出発に、エーミールの心も幾らか軽かった。
「また、帰って来れるよね?」
エーミールの問いかけに、フェリシアは頷いていた。
「ええ、きっと」
「その時もまた、一緒に帰ろうね、フェリシア」
エーミールのその言葉に対しては、少しだけ間が空いたものの。
「……そうですね、エーミール」とフェリシアは答えていた。
「きっと帰れますよ。これからも、いつだって」
そう呟きながらフェリシアは小さく微笑んでいた。
白い北領犬の引くそりは、風を切りながら、少年と少女をどこまでも運んで行く。
向かう先は、アゴナス地方の主都カルカロス。
そこでフェリシアは元の身分を明かし、有志を集め、今やグランシェス王国に成り代わるようにしてカルディア地方、エルマー地方、ゴート地方を支配しているモレク第二王国に対し、宣戦布告をする決意を固めていた。
(なんとしてでも、私は此度の責任を果たさねばなりません。そして臣民にきちんと顔向けできるように示さなければ)
フェリシアは視線を真っ直ぐと先へ向け、目を細くすぼめていた。
(……その為には)と、フェリシアはふと口を開く。
「カルカロスに到着次第、まずはルドルフと接触を試みねばなりません。以前、彼は話しておられましたから。……グランシェスを再興させると。その為には、臣民の力が必要となります。私たちが個人で動いたところで、出来る範囲はたかが知れています。この計画には、必ず、必ずや、多くの者たちの協力が必要となるのです」
「うん、そうだね」
エーミールもまた表情を引き締めると、頷いていた。
「今のグランシェス人にとって、ともすれば銀色の髪は『災厄の象徴』になっていても可笑しくない。キミが髪の色を元に戻したって事は、それだけ人の目を引くし、危険に晒される事が多くなるかもしれない」
話しながら、エーミールはフェリシアの手に手を重ねていた。
「え、ちょっと……」と、フェリシアが呟いた声はエーミールの耳に届かなかった。
エーミールはフェリシアの手の温もりを感じながら、決意していたからだ。
「けれど何があっても、僕は必ずキミを守るよ。仮にこの弓で人を射抜く事になったとしても、僕は最後までキミの味方でいる。だから一人きりだと思わないこと。……わかったね、フェリシア?」
まるで言い聞かせるかのようにして話し掛けられ、フェリシアは面食らった表情を浮かべていた。
しかしやがてフェリシアはため息を吐き出すようになる。
はー……と長い長いため息の後、フェリシアはつんと澄ました表情を保ちながら、答えていた。
「わかっていますよ、エーミール」
まるで何てこと無いかのような返事をする事が、フェリシアにとってのプライドを保つ方法だった。
絶対に、絶対の絶対に、笑みがこぼれるなんて姿を見られてはいけないのだ。
エーミールの庇護欲を刺激しないためにも。下手をすればまたヨシヨシされかねないし。
相変わらず可愛くない返事だなと思って、エーミールは微笑んでいた。
そんな二人の間を、冷たい風が吹き抜ける。
それはまるで女神イスティリアの手が肌を撫でて行ったようだった。
しかしそれは気のせいでしかないだろう。
何しろ、今やイスティリアはフェリシアの中に居る。
イスティリアの概念はフェリシアが引き継いでいる。
イスティリアはもう誰に声を届けることもできないだろう。自らの意思で雪を動かすことも出来ないだろう。
しかしそれがイスティリアが望んだ道。彼女が生き残る術だったのだ。
(次は僕たちの番だね)と、エーミールは思っていた。
イスティリアから受け継いだそれを、繋いでいく番なのだ。これからは人々自身の手によって。
(安心してね、女神イスティリア。フェリシアはきっと、それを成し遂げてくれるよ。そういう器のある人だと、僕はそう思っている)
エーミールはそう考えると、目を細めて微笑むのだった。
『ありがとう、エーミール』
そう言って囁いた女神の声が、今もまだエーミールの胸の中に残っていた。
―― 第二部・第四章 宿命の運河 ―― 終




