9:日常の終わり
「お父さんとお母さん、随分と驚いていらっしゃったみたいね。何故かしら?」
不思議そうに首を傾げるフェリシアは、しっかりとしていそうに見えて、庶民感覚というものを知らないのだろう。
どうやら世間ズレしているようだ。
「いや。普通、いきなり息子が国王になるとか言われたら、誰だって吃驚するでしょ」
思わずエーミールは冷静になって指摘していた。
「ふうん、そうなの……」
本気で理解していなかった様子で、フェリシアは口元に手を当てて神妙な面持ちで頷いている。
そんな彼女は、今エーミールの部屋に居座って、椅子に腰掛けながら、エーミールがクロスボウを手入れする作業を眺めていた。
カルカロスへ行くと言っても、大神殿から戻ってきたばかり。今日一日はゆっくりと休むことにしたのだ。
とはいえ、今日が最後のエーミール家での日となる。
今日が過ぎれば、下手をすればしばらくエーミールの父母と会えなくなってしまう。
だというのにフェリシアは。
「なんで僕の部屋に居るの。母さんと一緒じゃなかったの?」
「エーミールこそ、どうして自室に引き篭もっているの?」
「いや、父さんが少し待ってろって言って出掛けたから」
「お母さんが、待っててねって言って出掛けたのよね」
二人で言い合った後、互いに目を合わせていた。
「……なんだよそれ。結局、フェリシアの世話係は僕ってこと?」
エーミールはため息をついていたから、フェリシアはムッとしていた。
「それほど私の面倒を見るのは嫌だったのかしら? お生憎様、もうお世話は要りませんよ」
「頼まれたってまっぴらだよ。 何回もビンタされたのに、わざわざ面倒見ようなんて気持ちが起こるわけない」
この二人、二日間に及ぶ帰路の間で、地味にそこはかとなく険悪になっていた。
フェリシアはボソボソと言っていた。
「きちんと謝ったではないの」
「最初の一回だけね」
「それ以降はエーミールが悪いのではなくて?」
フェリシアが睨むと、エーミールはあからさまにため息を吐き出していた。
「あーあ。前のフェリシアはあんなに可愛かったのになあ。お兄ちゃんお兄ちゃんって擦り寄ってきてさあ……」
次の瞬間、フェリシアはばん! と椅子の縁を手のひらで叩いていた。
「一言もお兄ちゃんなんて言った覚えはないのですが? あと、それ、くれぐれも他言無用とわかっていますよね?! 人前で言ったら消しますから。あなたの存在を抹消しますから!」
真っ赤になりながら叫んできたフェリシアの表情は、三年前にエーミールに口止めをした時とは違う。
本気で存在を抹消する気があるのだろうと思わせるほど、鬼気迫る形相となっていた。
しかしそうもムキになられると、エーミールはむしろ逆にウズッとしてしまうのだ。
「えー、どうしよっかな――」
言いかけるエーミールの前でフェリシアが立ち上がると、ゆらりと暖炉の方へ歩いていった。
「そう。あなたがその気なら仕方がないわね」
にこやかにフェリシアは火バサミを使ってカンカンに熱されている薪を取ったから、エーミールは焦っていた。
「ごめん。ごめん、調子に乗りすぎてました!」
「宜しい」
フェリシアはにっこり笑うと、薪を元に戻していた。
「はあ……」
エーミールはホッと胸を撫で下ろしながら、思っていた。
(なんでそこまでムキになるのかなあ……目が本気だからシャレにならないよ……)
エーミールはため息をこぼしていた。
「あーあ。ちっちゃい女の子の心だった頃は、あんなに可愛かっ……――」
ヒュンッと未だに熱を持った火バサミがエーミールの頬の真横をすり抜けたので、エーミールは言葉を止めていた。
「それ以上蒸し返すなら、一緒に死にましょうか? ねえ、心中しましょう?」
火バサミを突き出したまま、にこにこと怖いぐらいの笑顔を向けられ、エーミールは首を大きく横に振っていた。
「お断りです!!!!」
エーミールは全力で叫んでいた。
家に戻ってきた父親にさっきまでのフェリシアとのやり取りを話すと、父は爆笑していた。
「はっはっは。すっかりお姫様の黒歴史になってるんだな」
「他人事だと思って……いつか本気で刺されそうで怖いよ」
エーミールはため息を零しながら、クロスボウの手入れの続きを行っていた。
今、この場にフェリシアは居ない。さっき母がやって来て連れて行ったからだ。
代わりにエーミールの隣では、父が矢筒に納められている矢を磨くようになっている。
父は明日には旅に出るエーミールのために、家の隣の倉庫へ行ってあるものを引っ張り出してきたようだった。
それこそが今父が磨いているものである。
三十本一組になって、黒塗りの矢筒に収められたそれは、エーミールが普段使っているものと材質が違う。
普段使う矢は、近場で取ってきた樺の枝をまっすぐになるようナイフで削いだものに、鉄製の矢尻を嵌め込んでいる。
しかし父が持ってきたものは、先端から末尾まで全てが金属で出来ている。
また、矢全体が螺旋を描くような形状をしている。
「これは俺のお爺さんが残してくれた矢でな」と父は矢に被った埃や青さびを取りながら話す。
「普通の矢よりも深く刺さりやすく、威力が高いように出来ている。普通なら何十本と射貫かねば仕留められないマンムートも、これがあれば数発で仕留められる。それに折れたりしないから、再利用する事だってできる。だから大切に扱ってきた代物だ」
それを磨き上げた後、父はエーミールに矢のセットを差し出していた。
「これから多くの困難に立ち向かうであろう、キミへの選別だ。……エーミール。しっかりやってくるんだぞ」
父にポンと肩を叩かれ、エーミールは感極まっていた。
「……父さん」
そんなエーミールに、父が笑顔で話す。
「良いかエーミール。狩人っていうのはな――」
「『いつ如何なる時も冷静に、しかし心は強く燃やせ! 目を逸らさず、真っ直ぐに相手を射抜く為に』」
そう言うなり父は、何も持っていない両手でクロスボウを構えてトリガーを引く真似をした。
「うん、そうだね」と言ってエーミールは微笑んでいた。
「冷静に、心は強く」
受け取った矢筒を胸に抱きしめるエーミールに、父は笑って「そうだとも!」と頷いた。
「いわば相手は手負いの獣。一見凶暴化しているように見えたって、あと一撃で倒せる状況だ。まあ、死ぬか殺るかって瀬戸際でもあるんだが。立ち回りさえしくじらなければ、仕損じる相手ではないさ」
「え?」
きょとんとして聞き返したエーミールに、父はケロッとして答えていた。
「お姫様のことだろ?」
「いや、マンムートを仕留められるって話じゃなかったっけ?」
「それはさっきまで。今のは狩人の心得」
「いやそれ、マンムートを仕留める時の……」
「うーん……エーミール、お前、成長したと思ったが、やっぱりエーミールはエーミールだな」
「それ、どういう意味さ……」
なんとなく馬鹿にされているような気がして、エーミールはムッとしていた。
その頃フェリシアは、母に呼ばれて母の部屋に行っていた。
そこでは母が桶に入った湯や櫛やタオルを用意して待っていた。
「お姫様、そこに座って」
母に言われるがまま、フェリシアは部屋の真ん中に設置されていた椅子に腰掛けた。
「これ、大切にしているみたいだけど、いったん外すわね」
母はそう前置きしてから、フェリシアの髪留めを取るなり髪を梳かし始めるようになる。
「さっきエーミールから薬剤を預かったのよ。お姫様に戻るつもりなら、髪の色を戻さないといけないでしょう?」
梳かしながら母に話しかけられ、「……そうですね」とフェリシアは目を細めていた。
そうしながら改めて、この生活がこれで終わることをフェリシアは痛感していた。
その気持ちは母も同じであるのだろう。
「どれだけエーミールがお世話をしていたって、こうして髪を漉く事だけは私の仕事だったんだけどね。……寂しくなるわね」
母の言葉に、フェリシアは無言のまま小さく頷いていた。
そんなフェリシアに母は、過去を懐かしむようにして話すのだ。
「一緒に台所に立ったことや、あなたに包丁の使い方を教えたこと、スープの淹れ方を教えたこと……何もかもが懐かしいわね。ぶきっちょで、危なっかしさはあったけど、何に対しても一生懸命で。本当に娘が出来たみたいで、嬉しかったわ」
「…………」
フェリシアは沈黙したまま、静かに微笑んでいた。
自身が幼児退行していた時の話をエーミールに聞かされると、殺意が沸くほどに羞恥心が出てくるのだが。
何故か母が話すことは、心地良く感じるのだ。
母との思い出はフェリシアにとっても、掛け替えの無いものとなっていた。
やがて母がこれまでの話を続けるうちに、髪の色を落とし終えたようで、最後にタオルで一通り水気を拭い取ってくれた。
「はい、これでお仕舞い。できたわよ、お姫様」
そう言った母の方へ振り返ったフェリシアの髪は、すっかり元通りの透き通った銀色に戻っていた。
フェリシアは肩の下まである髪を揺らしながら小さく首を傾げると、にっこりと笑う。
「お母さん」と、フェリシアが話し掛けた。
それに懐かしさを覚えて、母はつい「なに?」と子供に聞き返すように返事を返す。
「……最後に少しだけ。甘えても良い?」
フェリシアに尋ねられたのはそれだったから、母は一瞬だけ目を丸くさせたものの、すぐに微笑むようになった。
「良いわよ」と言って母が両手を広げると、フェリシアが母の胸に抱きついてくるようになる。
「お母さん……」
フェリシアは目を閉じると、まるで子供のような仕草で頭を摺り寄せるのだった。




