6:夜の逃走劇
エーミールが駆けつけた時、フェリシアは首にナイフを宛がわれた状態で大神官に捕まえられていた。
二人が借りている隣りあわせに並んでいる客間のドアの前で、大神官はフェリシアの両手を後ろ手に回させて片手で掴み、もう片手で首にナイフを宛がっている。
「動くなよ! 動けば、あなたのこの白ーい首を、真っ二つにしなければなりませぬからなあ……!!」
フェリシアに対してそう叫ぶ大神官は、怒りと興奮によってか、息が荒くなっている。
そして駆け付けたエーミールを見ると、ニヤニヤとした笑みを向けるようになったのだ。
「エーミール=ステンダールぅ!!」と、大神官は叫んだ。
「やっと出てきてくれましたなあ……! 私の踏んだ通りです! あなたはこの姫君を見捨ててはおけんでしょう……!」
「大神官様……!」と、咄嗟にエーミールは叫んでしまった後、すぐに唇を噛んでいた。
「いや、大神官……! あなたは神官として、やってはいけない事をやっている!!」
そう言い直した後、エーミールは大神官をギッと睨み付けていた。
「ふふふ……何のことですかな?」と、大神官は嗤った。
「私はただ女神様の思し召しに従っているだけ! 私は正しい事をしているのです! 女神様の神託を欺いた女にこうして刃を向けることも、女神様の神託を独自解釈しようとするあなたを説得しようと試みていることも! 全ては神の思し召し。思し召しではありませんかあぁぁッ!!」
それから、ヒヒヒヒヒヒと廊下中を反響するほどに大きな笑い声を上げる大神官の姿は、異様そのものだった。
目は未だに血走ってギョロギョロとしており、もはや理性を持っているようには思えない。
(自分の信仰に裏切られ、追い詰められてしまった人間は、こうもなってしまうのか……)
エーミールは落胆にも似た感情を覚えていた。
といっても――大神官を裏切り追い詰めたのは彼の持つ信仰ではない。
「こんなもの……信仰とは言わない。ただのご都合主義じゃないか……!」
「まだあなたは信仰の真髄を理解していらっしゃらないようですなああぁぁぁ!!」
大神官は笑みを消すと、割れんばかりの声で叫んでいた。
「いい加減にしろックソガキがああぁぁッ!! ガキはガキらしく年長者に従いさえすれば良いのだあぁぁ!! 早くッ、早く早くはやくハヤク!! 寄越しやがれえぇッその、貴様には過ぎた力をなあぁぁぁッッ!!」
キンキンと耳に響く反響を繰り返すその音に眉を潜めていると、激昂している大神官の横で、フェリシアはエーミールにちらちらと何か物言いたげな視線を向けてきている。
エーミールがフェリシアの視線に気付くと、フェリシアはぱくぱくと口パクで何かを伝えてきた。
(そうか……!)
エーミールはすぐに気付くと、大神官の声を掻き消すような大声で叫んでいた。
「ヴィズっっ!!」
次の瞬間、バリンと廊下の窓が砕け散る音がする。
「バウッ!」と鳴き声を上げながら、窓を割って飛び込んできたのは、白くて大きな犬。北領犬のヴィズだった。
フェリシアが悲鳴を上げていたし、大神官もずっと大声でがなり散らしていたから、ヴィズはその敏感な耳によって、とうの昔に屋外から異変を察知して、スタンバイしていたのだろう。
ヴィズはすぐにその大きな体を跳躍させると、一直線に大神官へと飛び掛っていた。
「なっ――この犬ッ……!!」
顔色を変えながら、慌てて大神官はヴィズの方へとナイフを向ける。
その隙にフェリシアが大神官の手を振りほどくなり、さっさとエーミールの方へ駆け寄るようになる。
「貴様ぁ……!!」
大神官が逃げ出したフェリシアに気付いた時には既に遅く、ヴィズが大神官にタックルを叩き込んでいた。
「うわあっ!?」
百五十キロもある巨体に突き飛ばされる事によって、大神官はゴロゴロと床を転がっていく。
そんな大神官の上に、ヴィズは圧し掛かっていた。
「今だ、フェリシア!」と、エーミールがフェリシアの手を取ると自室に駆け込む。
そこでエーミールは大急ぎでクロスボウと矢筒を背負い、荷物を抱えると、再びフェリシアの手を引いて部屋を飛び出していた。
幸いにも、さっきまで地下へ行っていたお陰で二人ともコートを羽織っている。
廊下を走りながらエーミールは、「ヴィズ!」と犬の名前を呼んでいた。
ヴィズはすぐに「バウ!」と鳴いて返事をすると、大神官の上から飛び退いてエーミールの隣を併走するようになる。
その後をすぐに大神官が追い掛けてくるようになった。
「待てええぇぇッ、もう許さぬぞおぉぉぉッ!!」
そんな怒声が響いてくるが、こちらは若者で相手は年寄りである。その差はぐんぐんと広がるばかりだった。
エーミールたちは神殿の玄関扉を押し開くと、雪の広がる山の中へ飛び出していた。
傍らに置いたままになっているそりを、急いでエーミールはヴィズに取り付け始める。
その間にも大神官がこちらへと走り寄ってくるのだ。
大神官はナイフを振り回しながら、「殺す……絶対に殺す!!」と喚くようになっている。
「早く……早く、早く……!」
慌ててエーミールはヴィズのハーネスにそりを取り付けようとするが、気が急いているせいで何度も失敗してしまう。
その傍らでフェリシアが作業を見ていると思ったら、フェリシアはエーミールに無断でパチンパチンと彼の背中のベルトからクロスボウを外した後、スッと矢筒から一本の矢を抜き取っていた。
「っ……――フェリシア?!」
ギョッとして振り返るエーミールに視線を向けないまま、フェリシアは淡々と言う。
「良いから、あなたは自分の作業に集中しなさい」
フェリシアは、扱った事も無い筈のクロスボウに矢を番えると、キリキリとハンドルを巻き始めた。それと共に弦がゆっくりと引き絞られて行く。
普段からエーミールの作業を見ていたせいで、すっかり手順を覚えているのだ。
エーミールは元通り作業を再開し、無事にそりをつけた後は荷を積み始めたが、気が気でなかった。
「まさか、撃つつもり……?」
フェリシアは雪の上に片膝を立ててしゃがみ込むと、ストックをしっかりと肩に当てて安全ロックを外していた。
「場合によっては」と静かな声で答えたフェリシアの目が見据えるのは、玄関扉から外へと歩み出てきた大神官の姿である。
「貴様ら……背教者の分際で……!」
憎憎しげにフェリシアを睨む大神官に対して、フェリシアは叫んでいた。
「止まりなさい!」
その声はどこまでも凛として、透き通っていた。まるで女神イスティリアのように。
「そこで止まらなければ撃ちます。これは脅しではありません。大人しく私たちを見逃しなさい」
その声には迷いが無く、怯えや躊躇いも感じさせず、実に威風堂々としたものだった。まるで権威ある王の如く。
だからエーミールは確信していた。
ああ――やっと、帰ってきたのだ。
グランシェスの第一王女たるフェリシア=コーネイル=グランシェスが。
この世界へと、帰ってきた。
フェリシアのその声に、その眼差しに――本気で彼女は射抜くだろうと確信した大神官は、やがてがくりと膝をつくようになる。
(結局、私のこの手は……彼らには、届かない)
大神官の目に映ったのは、雪の上に突いている自らの細く皺だらけの手の甲だった。
「うっ、うっうう~~……!」
大神官はうな垂れたまま、ボロボロと涙を零し始めるようになった。
「私こそが尤もイスティリア様の傍に居て、一身に信仰を向けていたのに! だというのに、女神様の力を受け取ったのはあいつだった! 何だったのだ。私のこれまでとは一体なんだったのだ……!」
そう叫んだ後、わんわんと泣くばかりとなった大神官の姿を見て、フェリシアはスッとクロスボウを降ろしていた。
と同時にエーミールは荷積みを終えたようで、「フェリシア」と声を掛けていた。
フェリシアは頷くと、立ち上がって安全ロックを降ろした後、エーミールにクロスボウを預けていた。
フェリシアが犬ぞりに足を掛けて乗る傍らで、エーミールはクロスボウを元通り背中に背負っていた。
それからエーミールもまた犬ぞりの後部に乗ると、ちらりと大神官の方に目を向ける。
大神官は未だに跪いて泣き続けていた。
老いさらばえた小さな体を丸め、震えながら泣いていたのだ。
エーミールはすぐに目を背けると、「ヴィズ、ゴー!」と号令を掛けていた。
それに従って、ヴィズは夜の山の中を走り出すようになる。
月明かりの下、雪景色が滑るように流れていく。
エーミールはしばらくの間、さっき見た大神官の姿が忘れられる気がしなかった。
(これが……かつてドーヴァが生み出した仕来りの行き着いた場所なのか)
エーミールは唇を噛んでいた。
エーミールの視線の先には、フェリシアの背中があった。
(人って何なんだ? 先人が後人の事を考えた末に打ち立てた事であっても、継承と共に形を変えていってしまう。人とは、身を正しく保ち続ける事が難しい生き物なのだろうか?)
そんな風に考え込むエーミールと、その一方でフェリシアは、エーミールに背を向けたまま、ずっと沈黙を保っていた。




