7:長い旅路
それから幾日もの日が過ぎた。
その間にもイド村の人々は準備を進めて行く。
村には既に高齢となっている村長の他には、老夫婦が一組と、後はエーミール家族しか住んではおらず、他の家屋は全て空き家となっている。
そのため巡礼団の寝床は空き家を清掃して使ってもらう事となった。
家の清掃や布団の縫い直しなどは高齢者の仕事、保存食の作成はエーミール母の仕事、狩猟はエーミールとエーミール父の仕事。
巡礼団が訪れるという報告を受けてから一ヵ月もの間が準備期間となっているが、それでもこの少人数での用意であるため一杯一杯である。
期日が刻一刻と迫る中、エーミールは日々を狩場へ行くか倉庫に籠るかのどちらかで過ごしていた。
今日もエーミールは朝から倉庫の中に居て、やがて「……よし」と頷くと、地べたに座っていた所をゆっくりと立ち上がる。
「――行ってくるよ、父さん」
一人呟き倉庫を後にするエーミールの手には荷を乗せた一台のそりが引かれるのみ。彼のクロスボウは倉庫に置かれたままだった。
誰も居なくなった倉庫の中、積み重ねられた出荷用の毛皮の山の中からザバッと音を立てて這い出たのは父である。
「エーミール……あいつ、クロスボウを置いて行ったのか」
父は肩に掛かっていた毛皮を床に落とすと、表情を険しくさせていた。
(クロスボウは決定打にはならないと踏んだか。それは賢明だ。あいつの腕は……まあ、母さん譲りの『奇跡の射手』だからな)
――しかしだとすると、一体何を使って主ほども巨大な北領鹿を射止める気か。
「ナイフ? 投擲? 或いは、まさか……」
父が最後に呟いた言葉は、誰の耳にも届かないうちに冷たい空気の中へと消え入るのだった。
その頃巡礼団の一行は、リュミネス山の麓にあるウインテルの町での補給を終え、いよいよリュミネス山へ足を踏み込んでいた。
「これは……」
「アゴナス地方は雪深いと思っていたが、いよいよもっていっそう雪深くなったな」
リュミネス山の山道を埋め尽くしている銀景色に、騎士たちは息を飲む。
目の前にそびえ立つ神山は見るからに険しいが、同時に見惚れるほどに幻想的な光景でもあった。何しろ、どこを見ても銀色に輝いている。
太陽光を反射してキラキラと宝飾品のように輝く白銀の景色が、どこまでも広がっているのだ。
(雪を漉き込んだかの如し。まったくもって、その通りだ。……まるで姫殿下の髪のようではないか)
そう考えたのはパトリックだった。
特にリュミネス山の空気は極めて冷たいせいか、雪がサラサラとまるで粉のようである。だからいっそうこれほどまでに冷たいのに、美しく見えるのだ。
とはいえここまでの旅路、濃い疲労を隠す事はできない。
「あと一息だ。頑張ろう!」
気分を盛り立てるために、巡礼団の面々にそうやって声を掛けると、パトリックを先頭に一行は雪の山を登り始める。
二頭の長毛馬がやや前傾の姿勢を取って、そりを引きながら坂道を登り始めるようになる。それに伴い、屋形がゆっくりと雪の斜面を登り始めるようになる。
後ろへ滑り込むのを抑えるために、屋形の後ろを三人ほどの騎士が押し始めるようになった。
「カリーナ嬢はこちらへ」
騎士に促され、ずっと屋形の後ろをついて歩いていた姫付きのメイドであるカリーナは、屋形から少し離れた場所へ移動していた。
騎士たちが屋形を押す邪魔にならないためにだ。
(姫様にこの美しい景色を見せてあげられないのが残念だわ)
カリーナはそう考えて肩に掛けてあるケープのずれを直すと、リュミネス山を見上げていた。
とは言え、姫殿下が乗る屋形は防寒を優先した結果の造りとなっている。
明り取りの天窓を除く一切の窓を持たないそこは、景色を楽しめない代わりに、外よりも幾らも暖かい筈だ。
その屋形の温かさが、代々巡礼の険しい旅路から王族を守ってきたのだ。
(あと一息)と考えて、カリーナもまたこの険しい道のりの中歩を進める。
あと一息。
これまで長く続いた道のりの中、それだけが彼らを励ます希望である。
なんとしても、姫殿下を大神殿へ送り届けねば。グランシェス王国の今後の栄光と繁栄のために。そんな一心が、彼らの足を動かすのだ。
なにしろ、大神殿へ行ってそこで加護を受ける事こそが、グランシェス王国が一千年もの間続いてきた秘訣であり、また女神イスティリアがこの国に雪と氷の加護を与えてくれる条件であると云われているのだから。
そうやって息を切らしつつ、励まし合いながら山を登って行く巡礼団の中、フェリシア姫殿下はというと。
(うう……退屈すぎて死んでしまいそうだわ……)と考えながら、屋形の中でこっそりとソファに突っ伏していた。
ソファの前にある固定されたテーブルの上には、専門書が何冊も積まれている。
最初こそは、誰の目にも入らないこの環境というものにワクワクしたのだが……
本当に、やることが無いということがここまで恐ろしく苦痛であるとは思ってもみなかった。
城内では何やかんや、勉学や作法などでやる事があったし……退屈しないようにと文官に専門書の数々を持たされたものの、それらも一通り読み終えてしまい、今やこの体たらくである。
狭い屋形の中、体を動かすにも限度があるし……天井が低いから、体を思う存分に伸ばすことだって難しい。
何しろ両手をピンと上へ伸ばしたら、すぐに天井に手の平を貼り付けることができるのだ。
足をバタバタさせるにしても、ドレスが乱れてはと考えると動くに動けない。
華美な装飾の施されたドレスを美しく着続けようと思えば、あまり動かないに越した事は無いのだ。
そのせいで体のあちこちが凝って凝って仕方が無いのだが、文句をつけるに付けられない。
何しろ、休憩の時間の際、外に出る度に気付かされる。
周りのお供は皆疲れ切った顔色をしている。
(そんな中で、退屈よー! なんて、言うわけにもいかないしね……)
フェリシアは溜息をこぼしていた。
今の自分に許される言葉は、労いに限定されている。
家臣に愚痴るわけにもいかないため、なんとかこの退屈を自力で紛らわせようと考え、フェリシアはこれまでの道中、本当に色々な事をやった。
例えば一人腕相撲。不毛な争いであることにすぐ気付いた。
次にやったのは一人影絵である。天窓から差し込む明かりに手をかざし、色々な形を作る。虚しかった。
一人じゃんけんもやった。左右で別々の手を出せた時の感激といったらなかったが、楽しかったのはその一度きりである。虚しさが増した。
ついには指の一本一本に名前を付けて、一人でブツブツと対話を始めてみて、ふと気づいた。
(……これではただの怪しい人間ではないの! こんな姿、万が一にでも見つかってしまえば『姫様が錯乱した!』とでも騒がれて、どこか離れの塔に幽閉されてしまいかねないわ!)
結局フェリシアは何かをする事を諦め、後はボーっとソファーに座るばかりとなった。
たまに、既に読み終えた専門書を手持無沙汰に開いては閉じるを繰り返すだけ。
よく王族は奔放だとか勝手し放題だとか言う民衆が居るが、これでも気を遣う立場ではあるのだ。
何しろ民衆は不満があったらすぐに暴動に走る。
長く平定を保とうと思えば、王族こそが一番気を遣ってやらなければならない。
(……と、お父様は仰っているわ)と、フェリシアは考える。
それは十五歳のフェリシアにとって難しい内容ではあるのだが、幼少期からの習慣であるためもはや身に染み付いて離れない習慣でもある。
だからか、時々フェリシアは自分の本当の気持ちがわからなくなる時がある。
(まあ、だからといって何? というかんじなのだけれど……)
フェリシアはソファに深く腰掛けなおすと、頬杖をついていた。
現状、中継地であるイド村に向かっているとは聞いているが。
田舎であろうがみすぼらしかろうが何でも良いとフェリシアは思っていた。
そんな環境でも、この屋形の中に篭っているよりかは、何十倍もマシだろう。
「はぁ……早く到着しないかな……」
ポツリと思わず呟いた口元を、誰かに聞かれたら大変だと思ってフェリシアは手の平で抑えていた。