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女神と竜の神話~最北の亡国復興譚~  作者: 柔花海月
第四章 宿命の運河
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3:ブレスの袂

 イスティリア大神殿は、白きブレスの源である場所の真上に建てられている。


 今はリュミネス山と呼ばれるこの万年雪の山であるが、かつて古の時代には、ここにも一匹の竜が住んでいた。

 の者の名は、リディニークと言った。


 純白の毛に覆われた、二十メートルはあるであろうその巨竜こそが、この地一体に常に止まない絶対零度の吹雪を吹き荒れさせていた張本人だった。

 かつて、この地には獣の姿も無く、木々の一本すら生えず、文字通り、白銀一色の世界だった。


「竜は自在に闊歩していたが、その竜を一箇所に縛り付けたもの――それが、マルゴル人の秘術による魔円陣だった」


 エーミールはそう言うなり、目の前に聳える両開きの巨大な石扉を、押し開いていた。


 ゴゴゴゴと音を立てながら開いた扉の先にあったのは――縦横三十メートルは在ろうかと言うほどに巨大な、正四角形の大きな空間。床は一面真っ白な踏み固められた雪で占められていて、その真ん中には、案の定。


「……やっぱり、ここにあったね」


 エーミールはそう呟いていた。

 エーミールの視線の先にあったのは、雪の床にまるで彫刻のように掘り込まれている巨大な魔円陣だった。


 氷ほどにも固められている雪の床に彫られた溝は、天井から幾筋も差し込んでくる明かりによって青い光を反射させている。

 透き通っており、かつどこまでも深いそのブルーの色は、まさに女神イスティリアの瞳と――そしてフェリシアが持つ瞳と同じ色だった。


 どういう原理なのか、この部屋は夜の――しかも地下にある筈なのに明るかった。

 天井を見ると反射鏡のようなものが幾つも張り合わせられているのが見える。どうやら鏡に光を反射させることによって、地上の外の月明かりをこの部屋に運び入れているようだ。


 ここに来るまでの間、この部屋よりも暗い階段が続く道を、ずっとずっと降りてきた。

 儀式の間の裏手にあった、ともすれば装飾とも見紛うような床扉の存在をエーミールは知っていて、何の迷いも無くそこを押し開いて入ってきた。


 それを見たときフェリシアは、(エーミールは変わっちゃったんだ)と思った。

 しかし、目が合うと相変わらず彼は優しい笑顔を見せてくれるので、フェリシアは不安な気持ちになる事がなかった。

 確かにエーミールはなんだか変わったと思ったけれど、それでもエーミールはエーミールのままだと感じたからだ。


「さて……」


 エーミールは魔円陣の前へ歩み寄ると、そこで立ち止まるなり、フェリシアの方を振り返った。


「ここに渦巻いているブレスの力を使う事によって、キミの記憶は恐らく取り戻されると思う」


 エーミールが切り出したのはそれだった。

 エーミールは真剣な眼差しをフェリシアの方へ向けていた。


「ここにあるのは万象の力。原始的かつダイナミックなエネルギーそのもので、全ての現象の源となる物。多少荒療治になると思うけれど、このエネルギーをキミに注ぎ込む事ができるなら、きっと」


「注ぎ込む?」


 問い掛けたフェリシアに、「うん」と頷いたエーミールは、また苦しげな面持ちを浮かべるようになっていた。


「普通ならこんな粗雑なエネルギー、人間が受け入れる事なんて出来ないんだよ。……でもキミは、イスティリアの子。半神半人で……つまりそれは、“概念”を許容する事が出来る器を持っているということだ」


「概念……」


 フェリシアは首を傾げていた。

 エーミールは難しい事を話すから、どれだけ一生懸命に頭を動かしても理解し切る事ができない。

 でも本来の自分なら、理解が出来る筈なのだ。本当の自分はもっと賢くて大人の筈なんだから。

 その事がフェリシアはすごくもどかしかった。


 そんなフェリシアに、エーミールは言ったのだ。


「今はマルゴル人はここに僕一人。一人きりの力では一から新しく概念を組み立てるには膨大な時間が掛かってしまう。けれど、元からある概念なら――そう、例えば、見るからにキミにそっくりな容姿を持っている女神イスティリアの概念なら、そのままキミの中へ落とし込む事ができるだろうね。女神が内包している、ブレスの力と共に」


 エーミールはフェリシアに悲しそうな目を向けていた。


「そしてキミをそんな風に作り変えてしまう事が、女神が僕に対して望んでいる事なんだよ」


 そう、エーミールは話していた。


「そうしなければならないほど、今、女神の力は衰えてしまっているんだ。今や女神の命その物が風前の灯で、奇跡を引き起こす力すら持っていない。唯一、女神が出来る事と言えば、ブレスの袂であるリュミネス山だけに限った『力の使役』だったんだ。女神は唯一残されたその力を使って、なんとしてでも僕とキミの運命を結びつける必要があった。何故なら女神が死ねば、やっと調律されていた寒気の概念が、暴力的で荒々しい竜の形に戻ってしまうからだ」


「だから女神は、キミと僕を引き合わせ、そして今、キミを“社”にすることで、延命する事を望んでいる。その利害が一致するように、選択肢を狭めるかの如く、キミの知性を奪ってまでも」と、そう、エーミールは締め括ったのだ。


「女神様が望んでいる事……」


 フェリシアは口の中に含むようにして呟いていた。

 エーミールの話す言葉は、そのどれもが難解に思えてやっぱり理解し切れなかった。


 ――しかし。


「大丈夫だよ、エーミール」


 フェリシアはそう言うと、一歩歩み出ていた。


「私、なんでもする。なんでも出来るよ。記憶を取り戻すためなら。どうなっても良いよ。最初からそのつもりだったんだよ。だから、何の心配も要らないんだよ、エーミール」


 フェリシアは何もわからなかったが、一つだけ解っている事があった。

 それはエーミールがフェリシアの身を案じていると言う事だ。


「でも」と、エーミールが躊躇いの色を見せる。


「大丈夫」と、フェリシアは改めて言った後、にっこりと笑っていた。


「だってエーミールは、私のこと守ってくれるんでしょ? 頼って良いって言ったよね? だったら、頼りにしても良いんだよね?」


「っ――それは……」


 エーミールは戸惑った後、沈黙した。

 そして、(そうだよね)と思っていた。


(僕がフェリシアを助けてあげれば良いんだ。万が一何かあったとしても。だって僕はマルゴル人で。今更何を躊躇っていたんだろう。文明の起こったその時から、マルゴル人はそうやって生きてきただろ?)


 やがてエーミールは意を決すると、頷いていた。


「うん、わかった。何があっても、どうなったとしても……この先の責任は僕が取る」


 それからエーミールはフェリシアを手招きしていた。


「おいで、フェリシア」


 エーミールにそう呼びかけられたから、フェリシアは頷いた後エーミールの方へ歩み寄っていた。


 エーミールに向けられるフェリシアのその視線は、信頼し切ったものであり、無邪気な子供らしいものでもあった。

 そんなフェリシアの肩を引き寄せた後、エーミールは魔円陣の中央へ向けてそっと彼女を押し出していた。


 フェリシアは押し出されるがまま、魔円陣の真ん中へと歩いて行く。


 フェリシアのコートに包まれた華奢な背中や、珊瑚色の髪の上で揺れる髪飾りを見ながら、エーミールは話していた。


「概念を受諾させる儀式を行う前に、キミに話しておきたいことがある。それは女神の事だ」


 エーミールはそう前置きすると、話し出した。


「女神イスティリアは今、大半の力を失っている。それこそ、雪と氷の奇跡を引き起こす事ができないぐらいに。神々というのは、民の信仰の力によってその存在を強め、不信によってその存在を弱めるんだ。とはいえ、イスティリアは元より信仰を得辛い司を持った神だったから、神の創造主たるマルゴル人頼りの面が大きかった。マルゴル人は秘術や概念や思念の力を使って、神という概念を固定化する力を持っていたからね」


「でもそうやって維持できる期間は、もう長くないんだ」と、振り返ってきたフェリシアの目を見ながらエーミールは言葉を繋いだ。


「何しろ、今はもうイスティリアに向けられている信仰の力は微々たる物である上に、世界に残されたマルゴル人は大神官様も入れて、後七人。そのうちの半数以上が既に高齢だし、高齢じゃない人は僕の両親だけ。文字通り、最後のマルゴル人は――この僕なんだよ。だから僕が居なくなれば、マルゴル人の持つ力に頼っていた女神イスティリアは消滅してしまうだろう。その時こそ、この魔円陣を介してイスティリアに注がれていた白きブレスは、原初の袂へと帰って行く。それとはつまり――」


「白竜リディニークの復活を示している」

 エーミールはそう断言していた。


「……白竜って、あの、大神殿の壁や、イド村の石碑に書かれていた竜のこと?」


 フェリシアは不安げな表情を伺い見せると、胸の前でぎゅっと拳を握っていた。


 エーミールは「そうだよ」と言って頷いた。


「そうなってしまえば、このボルデ領域(最北の地)に人は住む事はできなくなる。元々グランシェス王国の土地だった場所全域が、止まない吹雪に包まれ死の土地となってしまう。それだけじゃなく、世界から涼は損なわれ、世界中の気温が上がり、生態系は変わってしまうだろうね。女神はなんとしてもその事態を防ぎたかったんだ。その為には四の五の言える状況ではなかった。彼女は自分に許された出来る限りの力を用いて、神として持たされている制約の範囲の中、こうして僕とフェリシアを引き合わせ、また、僕たちがこの場所へ足を向ける事になるようにと仕向けた。例えそれが切欠で、異国と戦争になろうとも。……――彼女は成し遂げなければならなかったんだ」


「全てはこの土地を守るため、代々繋がれてきた人類の歴史を繋ぐために、女神が引き起こした事だったんだよ」

 エーミールはそう言って締め括っていた。


「…………」

 フェリシアは沈黙して俯いていた。

 そうするより他無かったのだ。だって。


「じゃあ、今の状況は……女神様が生み出したということなんだ……」


 落胆の気持ちと、どうにもできないぐちゃぐちゃとした感情がない交ぜになる。


 ずっと自分が悪いのだとばかり思っていたのに、それを仕向けたのは女神だなんて。

 でも女神は決して自分達が憎かったわけではなく、例え国が危機に晒されようと、この土地を、人々の暮らしを守ろうとしての精一杯の足掻きだというのだ。


 そんなフェリシアの気持ちを汲み取ってか、エーミールは小さく微笑んでいた。


「……フェリシア。彼女だって国の事がどうでも良かったわけじゃない。もしも奇跡が使えたなら、間違いなく女神は吹雪の力で国を守ろうとしていたと思うよ。ただ、その力すら失くしてしまっていたというだけなんだ。女神イスティリアは、確かにグランシェス王国を愛していたよ。その想いを僕は切々と感じ取った。神託を通じて、痛いほどに知ったよ。女神様の愛は本物だ」


「……うん、そうだよね……」


 フェリシアは頷いた後、真っ直ぐにエーミールの目を見るようになった。

 今度は、微笑を浮かべながら。


「準備は良いよ。エーミール、儀式を始めてちょうだい」


「ああ、わかった」と、エーミールは頷いていた。


「じゃあ、今から始めるよ。今からマルゴルの秘術の一つ、概念を移し変える術によって、フェリシアを女神イスティリアの概念と結びつける。それによってキミは女神イスティリアの社となり、ブレスを受諾する事ができるようになるだろう。大きなエネルギーはキミの全身を流れ、それによって閉ざされた記憶の扉をこじ開ける事ができる筈だ」


 その前置きの後、エーミールは両手の平をフェリシアの方へ向けていた。


「これより受諾の儀を始める」


 まるで神官が仰々しく語るかのように告げたエーミールに対して、フェリシアは頷いていた。


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