1:女神が愛した国
そこは北端にある雪の国。
名はグランシェス。
かつて女神が愛した者の名前を冠する国。
その国を立ち上げたのは女神の息子で、それからその国は、女神の子孫によって代々営まれるようになる。
女神の傍には、かつてマルゴル人と名乗っていた古の民が付き添っている。
だから女神は寂しくなかった。
彼らは女神にとって、創造主でもあり、共に厳しい時代を生き抜いた戦友のような存在だった。
その彼女の意思が伝わるには、何百年もの歳月を要した。
女神は灰色の髪の民が大好きだった。
寂しい雪の世界の中だからこそ、彼らの温かな営みを見守り行くのが好きだった。
しかし、灰色の髪の民は女神の中に人間性を見出していなかったから、誰も彼女の中に情緒があると考えた事も無かった。
そのため女神が彼らを自らの袂に受け入れた時も、『信仰が無い神はマルゴル人の力を要している』と言った。
彼らは女神が人の賑わいや喧騒を求めているなんて、夢にも思っていない様子だった。
孤独な神であるとは理解していた。それを和らげる事もした。
しかしそれは上辺だけで、決して心と心が触れ合うような接し方ではなかった。
それを変えたのが、外界から訪れた色彩の民だった。
彼は女神に情緒を見出すと、情緒を向け、情愛を向けた。
女神は彼と愛し合い、子を儲けたが、その性質故に自ら育てる事はできない。
そのためマルゴル人に我が子を託した。
そしてその子供もまた、女神に情愛を向けてくれた。
それによって、ようやく灰色の髪の民の心が解けた。
色彩の民の行いが、灰色の髪の民の神への考え方を変えたのだ。
やっと女神は長らくの盟友と、本当の友好を築き上げる事ができたのだ。
それだけじゃない。
今や寂しかった雪の土地には、女神を愛する人々で溢れている。
女神の子供たちもまた、新しい仕来りを作ると、女神の元へ足を向けてくれるようになった。
何千年にも渡った女神の孤独は、こうしてようやく癒された。
女神イスティリアは、この国を誰よりも愛していた。
雪の国グランシェスを心から愛していた。
雪が折り重なる、世界で最も冷たい最北にあるこの国は、暖かな心によって出来ている。
長い長い夢を見ていたかのようだった。
幾千年にも渡って、人が産まれ生きそして死んでいく。
そんな人生の流転を何度も繰り返した後であるかのように錯覚した。
気付けばエーミールは、イスティリア大神殿の儀式の間に立っていた。
一千年もの時を経て劣化したその古めかしい広間の風貌を目に映した時、一瞬、何があったのかと動揺した。
しかし――なんて事は無い。
ここは初めからこれほどに古めかしい場所だった。
ただ、ついさっきまで建って間もない新しい大神殿の広間に居たかのような。そんな気がしていたのだ。
(そうか、僕は……)
視線を落とし、足元に目を向けるエーミールの容姿は、間違いなく過去から現代まで代々続いてきた血脈の末にある物である。
アジンの、ドーヴァの、そしてフェンの子孫である事を匂わせる面影をエーミールは持っている。
衣服や時代や環境は違えど、確かにエーミールは彼らの子孫であり、マルゴル人の末裔なのだ。
(……――僕は女神様の記憶を見せられていたんだ)
エーミールはその事に気付くと、視線を上げていた。
するとすぐ目の前に、髪の色こそは違えど、女神イスティリアに見紛うような容姿を持つ少女が――フェリシアが、心配そうな表情を浮かべながら、エーミールの顔を覗き込んできているのが見えた。
「どうしたの? エーミール、ずっと黙り込んじゃって……」
フェリシアは不安げな様子でエーミールを案じるかのような言葉を呟いた。
それでやっとエーミールは、大神官が唱え続けていた筈の呪文がいつの間にか止んでいる事に気付いていた。
「……フェリシアは見なかったの?」
エーミールの疑問に、フェリシアはキョトンとした面持ちを浮かべるようになる。
「えっ?」
「大神官様は――」
次いでエーミールが視線を向けたのは、長い樺の杖を持ち、大神官用の服を身に着けている、小柄な老翁。
「残念ながら、何も与えられなかったようです」
そう言って大神官は落胆した面持ちで首を横に振っていた。
「女神様は普段から、何か定められた儀式があるか、或いは雪が激しく振る日しか神託を下してくださることはできない。しかし、今回ばかりはと思ったのですが……――残念ながら、何も起こらなかったようですな」
「……――いや」と、エーミールは答えていた。
呆然とした面持ちのまま、未だに信じられない気持ちと共にエーミールは言葉を吐き出していた。
「僕が……受け取りました。女神様の神託を」
エーミールの言葉に、大神官とフェリシアは共にギョッとした表情を浮かべるようになっていた。
「えっ……?!」
「どういう事ですかな、それは! 本来神託を承れるのは、大神官だけの筈……!」
語気を強める大神官に対して、エーミールは首を横に振っていた。
「それは違いますよ。マルゴル人なら誰だって、イスティリアの声を聞くことができる。特にこれほどブレスの強い場所に居るなら、尚更です」
「何の話をしているのですかな?」
怪訝な表情をしてくる大神官と、その一方でフェリシアもまた呆気に取られたような表情を浮かべるようになっていた。
「エーミール。何か聞いたの? なんだかエーミール、急に何でも知っているような顔をするようになってるね……」
戸惑いの中に不安げな面持ちを覗かせるフェリシアの様子を見て、エーミールは気付いていたのだ。
自分自身が、これまで知りえなかった筈の多くの知識を持っていることに。
(これら全てを女神様は……イスティリアは、僕に与えてくれたということ?)
実際今のエーミールは、何度も生まれ変わりを繰り返して、やっとまた新しい生を始めたばかりであるかのような錯覚に陥っていた。
今身に着けているこの毛皮の衣服やブーツだって、馴染みの無い肌触りに感じてしまう。
『エーミール=ステンダール。これが私の総てです。後のことはあなたに任せましたよ。あなたこそが、最後の希望。最後のマルゴル人なのですから』
一瞬、どこからともなく女神の声が聞こえた気がした。
そのためエーミールはハッとして振り返ったが、すぐに首を横に振ると二人に向き直っていた。
彼らはエーミールが話し出すのを待っていたから、やがてエーミールは言葉を捜しながら二人に打ち明けていたのだ。
「僕はきっと――さっきまで、夢を見ていたんだ。女神イスティリアに見せられた夢を。そこで僕は数え切れないぐらい何度も生まれ変わって、困難を乗り越え、国を築き、王となり、滅びを経験し、また産まれ、また死んで。そうやって繰り返し繰り返し、マルゴル人が辿ってきた道と、それからこのボルデ領域で起きた出来事を女神様に教わったんだ」
「そんな、まさか……」
今のエーミールの言葉に尤も衝撃を受けた様子を見せたのは、大神官だった。
「あなたのような若者が……?」
その一方でフェリシアはというと、目をキラキラと輝かせるようになった。
「うわあ――すごいね! すごい経験をしたんだねえ、エーミール!」
無邪気にはしゃぐフェリシアを見て、エーミールは笑みを零していた。
彼女の姿を見て、素直に帰ってきたんだ。と思えたからだ。
(そうだよね。僕が居る時代は、ここなんだ。フェリシアが生きている時代なんだ)
エーミールはホッとしたが、それと同時に疲れを感じていた。
「それで、フェリシア公の記憶を取り戻す鍵は見つかりましたかな?」
気を取り直した様子で大神官が尋ねてきたので、エーミールは頷いていた。
「それは……多分、見つかりました。けれど今は少しの間休みたい。少し、考えをまとめたいんです。たくさんのことを知りすぎてしまったから、どうしても気が動転してしまう……」
重たげに頭を抱えるエーミールの姿に、「わかりました」と大神官は頷いていた。
「では、今日はこの神殿に泊まって行かれると良いでしょう。ここには巡礼者用の部屋がたくさんありますから。神託を受けた後は、私も疲れます。慣れていないあなたなら尚更でしょう。今夜はゆっくり休めば良い」
大神官はそう言うと、皺を刻みながらにこりと微笑むのだった。




