12:孤独同士
雪山の集落で暮らすイドの人々は、十代のうちに結婚して所帯を持つようになる。
片やオプタール王朝では、二十歳になると共に結婚する人が大半だが、グランシェスは研究に没頭する余りにその時期を逃している。
今やグランシェスは三十路目前となっていた。
今日、友の婚礼の儀を見た。
同じ灰色の髪の人々に祝われながら、十程も年が離れている若き親友は、新たに妻となった少女と共に微笑んでいる。
イドの婚礼は元オプタール人であるグランシェスの目から見ると少々変わっていて、儀式用の様々なベリーの葉で編まれた冠を被ると、スノーベアの真っ白い毛皮を羽織って、香を焚いた集会場にみんなで集まって、女神への感謝の言葉を唱える。
女神はこうすると孤独が癒されるのだと長が話していた。
それを聞いた時、グランシェスは三年ぶりに、女神を具現化する秘術を教わっていた事を思い出していた。
(女神……か)
グランシェスは雪の上を歩きながら、ぼんやりと考え事をしていた。
祝いのある日は、イドの人々は全員仕事を休む仕来りとなっている。
そのため、今日ばかりはグランシェスもペンに触るのをやめて、のんびりと散歩をしていた。
こうして集落の中を歩くだけで、あちこちから声を掛けられ、色々な人が手を振ってくる。
それほどまでにグランシェスはイドの人々の信頼を勝ち得ていたのだ。
(しかし私には結局、一つも浮いた話は舞い込んで来ないな)
そんなもの、冷静になってみれば当たり前である。
男同士で部屋に篭って、設計図と勉学ばかりしているのだから。
結局、オプタール王朝に居た頃とほとんど変わらない暮らしをしている自分に気付いて、グランシェスは苦笑していた。
たまには、寂しさを感じる日もあるのだ。
グランシェスは挨拶をしてくる人々に返事を返しながら、やがて集落の外れまでやってきた。
ここには人の気配が無いからだ。
寂しいくせに、一人で熟考したくなるのがグランシェスの女性との縁を遠のかせる悪癖でもあった。
(オプタール王朝に居た時は、女神イスティリアの名前をこれほどまでに聞く機会は無かった)
グランシェスは白銀の世界の中、空を仰ぎながら、女神イスティリアのことを考えていた。
確かに、八大神の中の一柱に、病と停滞をもたらす神がいるというのは聞いていた。
しかしそれはオプタール王朝においては、触れてはいけない神だった。考えてはいけない神だったのだ。
だからこそ、思いを馳せるようなことは誰もしなかった。
(しかしここの人々は違う。神殿や神像すら無いにも拘らず、女神をまるで仲間であるかのように信頼し、共に生きているようにすら見える……)
気付けば、グランシェスは気になって気になって仕方なくなってしまっていた。
確かめてみたいと思った。
八大神とは何なのか?
姿も声も無い筈の神は、実在しているのか?
(神を具現化する秘術。本当にそんな事ができるのか? 半信半疑だが……)
グランシェスはやがて白い息と共に、言葉を発し始めるようになる。
それは古めかしい言葉の羅列。
長から口伝された、具現化の呪文。
キャンバスのように真っ白な景色の中、声が織り成す旋律が重なり合うようになり、一つのものを作り上げてゆく――
そんな感覚に陥ったのは生まれて初めてで、グランシェスは内心驚愕していた。
それでも旋律を続けるうち、やがて目の前で、雪の混ざった風が渦を巻くようにして吹き上がり始めるようになる。
(これは……――!)
驚愕交じりに、グランシェスは呪文を続けた。
そうやって秘術を唱え終わる頃には、グランシェスの目の前に一人の女性が立つようになっていたのだ。
折り重ねた布のような丈の長い白いローブを身に纏った、透き通った白銀色の髪と氷のように青い瞳を持つ女性が。
「まさか、そんな……――あなたが、本当に……」
呆気に取られながらも、グランシェスは目の前に現れた彼女から目を離すことができなくなってしまっていた。
何故なら、この世のものとは思えないほどに美しい容姿をしていたからだ。
不純物の混ざらない氷のような透明感のある美貌を携えたその女性は、やがてゆっくりと口を開くようになる。
『グランシェス=ガシュパル。あなたのことは見ていましたよ。ずっと、ずっと』
その声はまるで直接頭の中に溶け込んでくるかのように聞こえた。
しかし不快ではなく、むしろ透き通ったその声に、グランシェスはすっかり魅入ってしまっていた。
『あなたは色彩の民。殺さねばならないと思っていました。しかし、マルゴル人が受け容れた以上、私にはもはやそうする理由がありません』
「じゃ、じゃあ――」
グランシェスはごくりと息を飲むと、堰を切ったようにして話していた。
「イドの人々が話していたことは本当だったのか?! あの、まるで御伽噺のような話が……私は信じていなかった。これまで、信じたようなフリをして心の中で嘲っていたのかもしれない……! 未開の人々の話す言葉に意味が無いとでも、そのように思っていたのか……」
まるで懺悔でもするかのように跪いたグランシェスの傍に、イスティリアが歩み寄ってくるようになった。
『グランシェス。それでもあなたがマルゴル人に与えた恩恵は多大な物。誰もあなたのことを責めはしない筈ですよ』
「しかし私は……そうか、そういう事だったのか……」
グランシェスは跪いたまま、溜息をついていた。
「彼らは私を信頼してはくれていたが、どこか距離を感じていたんだ。ただ一人ドーヴァを除いては心底から信用できていなかった。しかし、その距離を作っていたのは私だったのかもしれない……」
『…………』
イスティリアは沈黙すると、グランシェスに黙って視線を向けていた。
その眼差しは穏やかで、他者に対する慈しみと優しさを湛えていた。
(氷と雪の神だというのに、彼女はなんて暖かい目をするのだろう)
グランシェスはやがて起き上がると、イスティリアに礼を言っていた。
「ありがとう。私の話を聞いてくれて……少しは気が晴れたよ。良ければこれからも、こうして会って話を聞いてはくれないか?」
『えっ? で……ですが』
動揺した様子を見せるイスティリアは、思った以上に人間らしくてグランシェスは微笑していた。
「たまにで良いんだ。今のように私が秘術を唱えれば、いつでも会う事ができるのだろう?」
『それは……そうですが』
未だにイスティリアは困惑している様子だった。
だからグランシェスは身を乗り出すと、「いけないのか?」と尋ねていた。
『そ、それは』
たじろぐイスティリアから、キンとした冷気が伝わってくる。
どうやらイスティリアに近付くと、寒さが増すようだ。しかしグランシェスは気にしなかった。
「キミと話がしたいんだ」
グランシェスはイスティリアの手を取ると、ハッキリそう言っていた。
「キミの事をもっと知りたい。キミの姿が見たい……こんな事を思ったのは、生まれて始めてなんだ」
イスティリアは咄嗟にグランシェスの手を振り払っていた。
そんなイスティリアに対して、「頼む!」とグランシェスは頭を下げてきた。
まるで女を知らないそのアプローチに、イスティリアはただ呆気に取られた様子で沈黙を保っていたが……――
やがて小さく頷くと、つむじ風と共に雪の粒になって消えたのだ。
「やった……!」
グランシェスは歓喜の声を上げていた。
さっきイスティリアの手を直に握り締めた両手は火傷したように真っ赤になっていたが、気にならなかった。




