12:神託の儀式
竜の壁画が彫り込まれた石造り廊下を真っ直ぐに進んだ突き当りに、両開きの石の扉はそびえている。
その先に広がるそここそが、儀式の間。
広い石造りの部屋の奥には祭壇があり、更にその奥に女神イスティリアの石像が建っている。
大神官は女神像の前まで行くと、祭壇に立て掛けてあった長い樺の杖を手に取っていた。
そして像の前で杖を掲げると、像に向かって長い祈りの言葉を唱え始めるようになった。
長々とした祈りの言葉を唱え続ける大神官の後ろには、エーミールが立っていた。
そのすぐ横では、フェリシアがそわそわとした態度で落ち着き無さそうに辺りをきょろきょろと見回している。
「ねえねえ、エーミール。これ、いつまで続くの?」
「しっ。静かにしないといけないよ、フェリシア」
そんなやり取りを幾度か続けるうちに、やっとフェリシアは静かになった。
その間にも大神官は祈りの言葉を黙々と唱え続けている。
祈りの言葉を聞きながら、エーミールはぼんやりと女神像を見上げていた。
(……キレイだな)と、こんな時であるに関わらず、エーミールは考えていた。
雪熊に乗り、杖と鏡を手にしている腰まで届くほどに長い髪をした女性。
透き通るような印象を与える、温和に微笑まれたその表情は、まるで――
(……まるで、フェリシアみたいだな)なんてエーミールは考えていた。
今は隣にいる彼女は、髪をすっかり染め上げてしまい、長さも短くなってしまったけれど。
紛れもなくイスティリアの子なのだろうと実感させるような何かがあるのだ。
そう。だからやっぱり、今のままでは良くないのだ。
一時はこのままイド村の住人として暮らしても良いんじゃないかと考えたりもした。
しかし――そうやって覆い隠す事ができないものが存在しているのだと気付いてしまったから。
(もしかしたら記憶を取り戻した時、フェリシアはいよいよ僕の手の届かない場所へ行ってしまうかもしれない)
けれど、それでも――と、エーミールは考えながら、ふと、隣に立っているフェリシアへ視線を向けていた。
隣に立ち同じように女神像を眺めていた“その女性”が――ゆっくりと、エーミールの方へ振り返る。
「――……え?」
エーミールは思わず疑問の声を漏らしていた。
何故なら、そこに立っていたのは――
腰まで届く銀色の髪を持ち、氷のように透き通った青い瞳をしている。
その肌は雪のように白く、衣を何重にも重ねたような白いローブを身にまとっている。
触れれば凍て付いてしまいそうな、ひやりとした冷たい空気がエーミールの方まで伝わってくる。
「女神、イスティリア様……?」
呆気にとられたまま呟いたエーミールに、その女性はゆっくりと頷いてみせた。
「っ――フェリシアは?!」
エーミールは慌てて首を左右に振って辺りを確認していた。
しかしそこにはフェリシアどころか、大神官の姿すら無かったのだ。
石造りの神殿の儀式の間に二人きり、エーミールと女神イスティリアだけが居る。
(ど、どうなってるんだ……?)
動揺したまま、エーミールは自分の頬にぺたりと両手を宛がっていた。
手の冷たさが頬の温度によってゆっくりと温められていくのがわかる。
(夢……? いや、夢じゃない……?)
未だに困惑から抜け出せないエーミールの方へ、女神がゆっくりと歩み寄ってきた。
不思議と恐ろしいとは感じなかった。
ただ、その全ての感覚を奪い去りそうな程の冷たさに空気越しに触れて、このまま死ぬんじゃないかな。とは、ぼんやりと思ったが。
そんなエーミールのすぐ目の前まで女神が歩み寄ってきた。
そして、長くたおやかな手を伸ばし、その細い指先をゆっくりとエーミールの額へ宛がったのだ。
『最後のマルゴル人よ』
それは女神の声だった。
繊細な女性の声が、頭の中に直接流し込まれるかのように聞こえてきたのだ。
「……マルゴル人?」と聞き返すエーミールの言葉には答えないまま、再び女神の声が聞こえてくる。
『よくいらしてくださいましたね。あなたに差し上げた私の娘はお気に召しましたか? 我が主よ』
「……えっ?!」
エーミールは思わず動揺の声を上げていた。
そりゃそうだ。今彼女が話した言葉は、一から十まで何もかもが理解できなかった。
(どういうこと? 僕に差し上げた、だって? 我が主、だって? 何を言ってるの? 何を話してるの?)
呆気に取られたままでいるエーミールの心の声をまるで読み取ったかの如く、女神は尚もエーミールの頭の中へ声を流し込んでくるのだ。
『あなた方は長らくの時の中で、捨て去る事を選びましたね。ですがこのまま消えてもらっては困るのです。我が血潮こそあなた方によって生かされ、我が身こそあなた方によって生み出された。そう――薄々感付かれているのですね。その通りですよ。この私が――』
女神の青い瞳が、涼しげな色を宿したままエーミールの瞳をジッと覗き込んでいる。
『我が娘フェリシアを、あなたの元へ遣わせました。全てはマルゴル人と結び付けるため。あなた方が定めた制約に従い、あなた方が生み出した概念に沿うにはそうするしかなかった。私はどんな手を使ってでも、例え我が子を死の淵へ追いやってでも、あなたとの制定を果たす必要があったから』
(な、なにを……――)
エーミールはごくりとつばを飲み込むと、やっとの思いで言葉を吐き出していた。
「……なにを言っているの? あなたはまるで、僕が何もかもを決めたように言うけれどさ……」
エーミールは勇気を振り絞ると、叫んでいた。
「僕はただの村人だよ?! 辺境の地リュミネス山のイド村に住む、ただの村人なんだ……なのに、どうして?」
『そうでしょうね』と言って女神は微笑んだ。
『確かにあなたは、ただの村人かもしれません。そうなることを選んだのは、あなた方マルゴル人なのですから。かつてあなた方は――あらゆる民を統べたマルゴルと呼ばれし者でした。神々を使役し王として君臨していました。そう聞いて信じられますか?』
「そ、そんな馬鹿な」と、エーミールは呆気に取られていた。
「これはきっと僕の夢なんだよね? 僕が僕自身に見せている白昼夢なんだ」
『そうですね』と、女神は答えた。
『あなたが言うとおり、これは白昼夢です。ただし、私が見せている――白昼夢。この大神殿の中においてだけは、然るべき儀式を通じて、私は我が主たる民との間でだけ、声を取り交わし幻を見せることができる。これが私自身に最後に残される、あなた方から与えられている力なのです』
「僕達が与えた力……?」
ポカンとしたままのエーミールに、『はい』と女神は答えていた。
『私の力も随分と弱まり、残すはリュミネス山内部の雪を操る力と、あとは今のように神託を託す力のみとなってしまいました。この、最後の力さえもが途切れた時、私は消滅し、あなた方は真の大過に見舞われるでしょう。それを防ぐためにも、ドーヴァの名の元に続けてきた沈黙を、今こそ破らねばなりません。そして、今こそかつて取り交わされた契約を――遂行する時が訪れたのです』
「…………」
エーミールはもはや何も喋れなくなっていた。
余りにも色々な事を聞きすぎて。
余りにも予想だにしていなかった事を知りすぎて、黙り込むしかできなくなってしまったのだ。
そんなエーミールに、女神は微笑を湛えたまま。
フェリシアの面影を感じさせる表情を見せたまま、告げた。
『さあ――その目でしっかりと見届けてもらいますよ。あなた方が築き上げてきた刻を。私が見届け知りうる総てを』
次の瞬間、目の前に広がったのは広大な空の色だった。
真っ青なスカイブルーに赤い絵の具を差し込んだような色の空の下、丸い屋根をした石造りの家屋が所狭しと軒先を連ねている。
正午から夕刻へと差し掛かりつつある時の中、折り合わせた布を羽織っているような古めかしい格好をした大勢の人々が、道路の上でひしめき合って両手を振っている。
「アジン!」
「アジン様!」
「マルゴル=アジン様!」
それは民衆達の声。
色とりどりの髪を持つ多くの民は、灰色の髪を持つ民を頭上に見上げている。
八柱の神々の祝福を担う、創造主たる血族。
それこそが、マルゴル人だった。
マルゴルの王アジンは、誇らしげに微笑みながら眼下に臣民を見つめていたのだ。
その時代こそが全ての始まりで、人類の歴史の幕開けだった。
―― 第二部・第二章 望まれぬ者 ―― 終




