10:大神殿へ
エーミールとフェリシアから、また数日の間出掛けると聞いた時、母は驚きを隠せなかった。
「何? どうしたのよ、急に。でも、シンバリですらお姫様の記憶は呼び戻せなかったのよ? 今度はどこへ行くつもりなの?」
食卓の席で向けられた母の疑問に、エーミールは答えていた。
「今度はリュミネス山の山頂を目指す。イスティリア大神殿へ行くんだよ。……どうしても、やらなくちゃならない事があるんだ。僕達には」
そう語るエーミールの表情は決意に満ちていたから、母は思わず言葉を呑んでいた。
何故なら、変わって見えたのだ。――エーミールは旅に出る前と比べて、明らかに変わった。
もうエーミールは母の知るような子供っぽい息子ではなく、いつの間にか、独り立ちする若者になっているのだろう。
半月足らずの旅によって、母親の知らないうちに、すっかりエーミールは成長してしまったのだ。
(――もう、エーミールは私の“子供”ではないのね)
母はそんな風に感じたから、やがて頷いていた。
「――そう、なら仕方ないわね」
微笑んで頷いた母の方を、「母さん?!」とギョッとした目を向けたのは、母の隣に座っていた父だった。
「せっかく狩猟の手が増えたと思ったのに……」
憮然とした表情を浮かべる父に、母は笑い掛ける。
「良いじゃない。だって、エーミールが決めた事なのよ? この子が、自分で考えて決めた事なの。それはきっとこの子にとって、大切なものなのよ」
「…………」
父は沈黙するようになった。
しかし父だって気付いていたのだ。エーミールの変化に。
「――そうか、そうだよな」
やがて父はエーミールのそのキャラメル色の瞳を真っ直ぐ見ると、頷いていた。
「それが大事な事であると思うなら――行ってこい、エーミール」
「父さん」と目を見開くエーミールに、「ただし!」と父は続ける。
「お前だって男なんだ! しっかりと、そこの頼りないお姫様をお守りしてやってくれ」
そんな父の言葉に、エーミールは大きく頷くと、「もちろんだよ!」と答えていた。
そして、翌朝になり――
その日、はらはらと相変わらず雪が降り続ける中、ヴィズに荷を積み終えた二人は、犬ぞりに乗ると村を発っていた。
そりを走らせて間もなく、イド村のあるリュミネス山中腹を越えると、その雪深さや険しさは、これまでと天地ほどにも違いが生まれる。
そこは村人たちであっても立ち寄らない、巡礼者と、月に一度だけ物資を積んだ大型の犬ぞりが行き来するだけの場所となる。
人が踏み込めば膝上までも沈み込むであろう雪の地を、そりを引いた真っ白い北領犬は駆け続ける。
登り坂である上に、この雪深さは流石の北領犬であっても走りにくいようで、速度は一気に落ちていた。
その上、今も雪は降り続けている。
どこまでも広がる銀世界を眺めながら、フェリシアがふと後ろのエーミールに話し掛けてくる。
「ゆっくりになっちゃったねえ」
「うん、そうだね」とエーミールは頷いていた。
「歩くのとヴィズと、どっちが早いの?」
フェリシアの疑問に、「そりゃあ」とエーミールは答える。
「間違いなくヴィズの方が早いよ。徒歩の1.5倍くらいはね」
「そうなんだ」とフェリシアは頷いた。
それから少しして、またフェリシアから質問が向けられる。
「どれぐらい掛かるの?」
「恐らく、このペースだと丸二日くらいかなあ」とエーミールは答えていた。
「ふうん」と頷いて少ししてから、心配そうにフェリシアが呟く。
「……雪、大丈夫かな……?」
「……そうだね」と返事をするエーミールの声は、若干沈んだものに変わっていた。
「この調子だと、今夜辺りから覚悟した方が良いかもしれない」
エーミールの声に、「……そっか」とフェリシアは頷いていた。
時が経つと共に雪の降り方は激しさを増すようになって行く。
夜を待たないうちにエーミールはそりを止めると、木がポツポツとでも生えている場所を選ぶと、そこに雪の地面に穴を掘り、簡易の小さなかまくらを作っていた。
かまくらの中に、ヴィズと荷物とフェリシアと自分自身が入り込むと、今度は入り口に雪を積んで、なるべく開口部を狭くしていた。
それが終わる頃、本格的に外は吹雪きだした様子で、ビュービューと激しい音を立てるようになる。
かまくらの中はほとんど頼りになる明かりが無く、真っ暗で、狭い中、コート越しにたまにぶつかる感覚と息遣いによってしか、互いの存在を確認する事ができなかった。
壁沿いに横たわったヴィズを背もたれにしながら、フェリシアが小さく息をついた。
「……怖いね」と呟くフェリシアの声はすぐ近くにある。
かまくらが狭いが故に、触れるか触れないかというほどの近くに居るせいだ。
「大丈夫だよ」とエーミールは答える。
「ここにはヴィズも居るし、かまくらだってちゃんと作ったからね。身を寄せ合えば凍える心配も無い」
「うん……」
どことなく居心地悪そうに頷くフェリシアを、エーミールは抱き寄せていた。
「ほら、くっ付いて。離れていたら寒いよ」
「えっ? あ……えっと」
フェリシアはエーミールに引き寄せられるがまま体をくっ付けたが、すぐに離れてしまう。
「フェリシア?」
怪訝に思うエーミールに、フェリシアは慌てた様子で首を横に振る。
「あ、えっと、その」
「どうしたのさ? いつもみたいに、ぎゅーってすれば良いんだよ。フェリシア、ぎゅってしてヨシヨシされるのが好きだろ?」
「それは」と言ってフェリシアは口を閉ざす。
そんなフェリシアに対して首をかしげながら、エーミールは手探りで荷物袋の口を開けると中から毛布を取り出していた。
「ほら、くっ付いて毛布を被ったら暖かいよ」
エーミールはそう言ったが、フェリシアは何故か動いてくれない。
そんな彼女の態度で、エーミールはふと思い出していたのだ。
(……そういえばイド村に帰ってきてからというもの、フェリシアって僕に抱きついて来なくなってたなあ)
それを思い出した後、遠慮してるのかな? とエーミールは推測していた。
「ほら」とエーミールは、両手を広げていた。
「せっかく雪山では貴重な熱源が、自分の他に二つもあるんだよ。遠慮してないで、おいでよ。雪の病になっちゃうよ」
「え? ゆ、雪の病は嫌だなあ……」
困り果てるフェリシアに、「だろ?」とエーミールは答える。
「早く来なって。ちゃんとぎゅーって出来たら、ご褒美にナデナデしてあげるよ」
「うー……エーミールって、私のこと子供扱いしてるよね……」
いきなり不満そうな声が聞こえて、「えっ?!」とエーミールは吃驚していた。
「だ……ダメなの?」
余りにも寝耳に水だと思った。
むしろフェリシアは甘えん坊だから、子供扱いするぐらいがちょうど良いとすら思っていたのに。
「…………ダメじゃないけど」
結局フェリシアはめいっぱいの沈黙の後そう答え、エーミールの体にぎゅっと抱きついてきたのだ。
すぐに毛布を掛けるエーミールにくっ付きながら、フェリシアが尋ねてくる。
「……ご褒美は?」
「えっ?!」
またエーミールは驚いた声を上げたから、フェリシアはぶすっとなってふて腐れていた。
「嘘吐き……ご褒美くれるって言ったじゃない……」
「いや、それはそうだけど……まあ、うん」
エーミールは困惑しながらも約束した手前、フェリシアの頭をナデナデしていた。
どうやらその事は満更じゃない様子で、フェリシアはエーミールの肩に頭を預けると、気持ち良さそうに目を閉じていた。
(……子供扱いは不満そうにしてたくせに……)
エーミールは内心そう思って不条理を覚えたものの、まあ良いか。と考えていた。
翌朝、吹雪はすっかり収まって、昨日と一転するかの如く外は晴れやかな天気となっていた。
エーミールは雪を掘ると、かまくらから外に出て、「んー……!」と思い切り体を伸ばしていた。
そんなエーミールに続くようにして、フェリシア、ヴィズという順番で外に出てくるようになる。
「久しぶりに晴れたんだね」
ニコニコと笑うフェリシアに、「そうだね」とエーミールは笑顔を向けていた。
「この天気だと、後の旅は大丈夫そうだね。朝食を取ったらすぐに出発しようか」
「うん!」とフェリシアは頷いた。
こうして朝食の後、再びヴィズの犬ぞりに乗り込むと、昨日同様に走らせるようになる。
これまでフェリシアは、二度リュミネス山に登ろうとして、二度とも雪によって倒れた。
その事が怖くなかったわけがない。
女神イスティリアに呪詛を掛けられているのかもしれないとすら、フェリシアは薄々思っていた。
――でも、エーミールが傍に居てくれる。
彼が居れば大丈夫だとフェリシアは思えるのだ。
そして現に、無事に一夜を明かす事ができたではないか。
今回だけでない。
エーミールは前回もその前も、雪の中から必ず助け出してくれた。
その“事実”がフェリシアに、勇気を与えてくれるのだ。
「エーミール」と、後ろに乗っているエーミールにフェリシアは声を掛けていた。
「ん?」と尋ねるエーミールに、フェリシアは言っていた。
「エーミールって、私の救世主様みたいだね。いつもエーミールは私のことを助けてくれるよね」
「救世主……?」
何を大袈裟な。と思って、エーミールは笑っていた。
「偶然だよ」
「ホントにこれって偶然なのかな?」
フェリシアがそんな疑問を、ポツリと口に出していた。
「もしもこれが、女神イスティリア様が仕組んでいる事だったとしたら? 必然だったとしたら?」
「……――」
まさか。と思ってエーミールは息を呑む。
けれど、確かに――上手く出来ているとはエーミールですら思っていたのだ。
でも、まさか、三度までは偶然として片付ける事も可能だろう。と、半信半疑な心情を覚える。
「私たち、もしかしたら、イスティリア様の手のひらで踊らされているのかもしれないね。……その真意を聞くためにも、大神殿へ向かわなくちゃ」
フェリシアは大真面目な声でそう言った。
(まさかなあ。だとしたら、全く意図が見えないじゃないか)
エーミールはそんな風に考えて沈黙していた。
そのエーミールの沈黙をどう受け取ったのか、「――あ、でも、もしそうだったとしても、私は全然構わないんだよ」とフェリシアが慌てた様子で言い足した。
「だってエーミールって、私の運命の相手なんだよね? 私、エーミールと結婚できるのって嬉しいもん! ホントだよ」
そう言ってフェリシアは、「えへへー」とはにかんだようにして笑った。
無邪気な表情を見せるフェリシアに、エーミールは微笑を零していた。




