8:再び日常へ
リュミネス山中腹――そこは雪解けを知らない万年雪の地。
雪に半ば埋もれる形で立ち並ぶ、小さな集落の村の入り口には、ちょうど片手で数えられるだけの村人が立ち並ぶ。
およそ半月振りに帰ってきたエーミールとフェリシアを、イド村の人々は諸手を上げて出迎えてくれた。
「おお、やっと戻ってきたか、エーミール!」
そう言ったのはよぼよぼとした老翁の村長だった。
「無事だったようで良かったよ。戦があったんだってね? みんな心配していたんだよ」
そう言ったのは、エーミール家のお隣のエドラお婆さんだった。
「やはり、若者が居ないとみんな寂しがってのう」
そう言ってホホホと笑うのは、杖を突いているスノーフお爺さんである。
「大変だったろう? 今日はゆっくりと休むと良い」
そう言って笑ったのは、エーミールの父だった。
そんな彼らの傍らを駆け抜け、「お姫様っ!」と真っ直ぐにフェリシアに抱き着いたのは、エーミールの母だった。
「良かった……きちんと帰ってきたのね。良かったわ」
しばらくの間母はギュッとフェリシアを抱き締めた後、腕の力を緩めると、フェリシアに笑い掛けるようになる。
「お帰りなさい、二人とも」
「「ただいま!」」とフェリシアとエーミールは、声を重ねて言っていた。
その日、二人を無事に送り届けたヴィズにはご褒美に、上等な北領鹿の燻製肉が与えられた。
その一方で人々は、村の中でも一番広い村長宅に村人が集合して、広いテーブルを囲んで祝杯が挙げられる事となった。
といっても、エーミールは準成人であるためお酒は禁止。フェリシアの扱いは困ったが、「私もエーミールと一緒が良い!」と言ったため、フェリシアもエーミールと同じジュースで乾杯する事となった。
しばらくの間村人たちは、無事を口々に喜んだり、すっかり変わってしまったフェリシアの髪についての話題を口にしていた。
「思い切って切ったのね。色は染めたの? でも、お姫様らしくて良いんじゃないかしら。よく似合っているわ」
エーミールの母がそう言ったため、フェリシアは「えへへー」と言って嬉しそうに笑った。
「しかし、結局記憶は戻らなかったのか……」
父の言葉を皮切りに、村人達の間に少しの間沈鬱な空気が流れるようになる。
しかしそれも間もなくで、「まあ、良いじゃない」という母の言葉によって、村人達は一気に表情を緩ませるようになる。
「そうだとも、アガータの言う通りだ」と真っ先に同意したのは村長だった。
尚、今更ながらアガータとはエーミール母の名前である。
「そうそう。二人が無事なのが一番の良い知らせだよ」
そう同意したのは、エドラお婆さんである。
「確かに、そりゃそうだ!」と彼らは言って、再び楽しげなムードへと戻って行くのだった。
フェリシアの記憶に関する話はこれきりで、後は飲めや食えやの大騒ぎだった。
エーミール達から一通り旅の感想を聞き終えた後は、リュミネス山で獲れる獲物の話や雪の話など、日常の話題へと戻って行く。
エーミールは懐かしいそれらの会話に安堵感を覚えながら、隣の席に座っているフェリシアの方へと目を向けていた。
フェリシアは大人達の話を聞きながら、手元のパンを小さく千切っていた。
そうやって黙り込みながら、その表情はどこか遠くを見るような――そんな雰囲気を持っていた。
そして数時間後――祝杯を理由に浴びるようにして酒を飲んだ大人たちは、ある者はテーブルに突っ伏し、またある者は床の絨毯の上に直に寝転がる形で、揃って高いびきと共に夢の世界を満喫中だった。
そんな彼らに一人ずつ毛布を掻けたのは、エーミールである。
「どうする? 父さんも母さんも、ほっといても明日の朝には帰ってくるだろうし。僕達は先に家に帰ろうか」
エーミールに声を掛けられて、暖炉の加減を見た後、「うん」とフェリシアは頷いていた。
二人してコートを羽織ってから外に出ると、凍て付いた空気が頬を撫でるようになる。
日はすっかり落ちており、空には半月が昇っている。
しんと静まり返る夜の雪の村を、エーミールとフェリシアは二人で並んで歩いた。
ギシギシという硬い雪を踏む音を聞きながら、ふと口を開いたのはエーミールである。
「やっと帰ってきたね」
「……うん」とフェリシアは頷いた。
「なんだか、ようやく日常に戻った気分だよ」
「……うん」とフェリシアはまた頷いた。
しかしすぐにエーミールは、彼女の様子に違和感を覚えるようになる。
「……フェリシア? なんだか元気が無いみたいだけど……」
キョトンとしてフェリシアの方を見るエーミールに対して、フェリシアはぽつりぽつりと話していた。
「私ね、多分、この村の一員じゃないみたい」
「えっ?」とエーミールは吃驚して尋ねていた。
そんなエーミールに、フェリシアは相変わらずどこか遠くを見るかのような面持ちで話すのだ。
「だってね、こんなに久しぶりなのに……久しぶりに帰ってきたのに、ちっとも懐かしいと感じないの。リュミネス山の話、雪深さの話、どれを聞いても、これっぽっちもピンと来ないの」
「それは、もうしばらくここで過ごせば懐かしさを覚えるようになる筈だよ」
エーミールはそう言って慌てて微笑みかけたが、すぐさまフェリシアは「ううん」と首を横に振るのだ。
「でも――」と、尚も言いかけるエーミールの言葉をまるで遮るかのように、フェリシアは振り向くようになる。
そしてエーミールに真っ直ぐと悲しげな目を向けながら、「それだけじゃないの」と続けるのだ。
「それだけじゃないんだよ。――気付いちゃったの、私」
フェリシアは、どこか落ち込んだような寂しげな声で、言ったのだ。
「誰も名前で呼んでくれないんだね。私のこと、イド村の人は……エーミール以外、誰も名前で呼んでくれない」
それを聞いた時、エーミールは絶句するしかなかった。
「……――」
何か言葉を放とうと思った。何か喋らなければと思った。
――でも、何も言えなかった……。
沈黙するようになったエーミールの姿に何か思うことがあったのか、フェリシアは小さく微笑んだ。
しかしそれは子供らしからぬ笑顔で、どこか寂しげな、何かを諦めたようなそれだった。
「私、もう少し、大人にならなくちゃいけないね。甘えてばかりじゃ、いけないよね……」
フェリシアのその言葉は、寂しげな色を宿しながら、白い吐息と共に夜の闇へと儚く消え入る。
そんな彼女の横顔は、まるで手のひらに乗せるとスッと消え入る粉雪の如く、弱弱しくも頼りないのだ。
「……――フェリシア」
気付けばエーミールはフェリシアの手をギュッと握り締めていた。
見ていられなかったから。こんな彼女の姿を見たくなかったから。
「っ――」
驚いた様子で顔を上げたフェリシアに、何か意を決した面持ちでエーミールは囁きかけていた。
「大丈夫。僕がついてるよ」
「……――うん」と、フェリシアは安堵したような表情を浮かべると小さく頷くのだった。




