4:エルクの王
(こい、来い、来い……!)
それは忍耐と集中力との勝負だった。
エーミールは降り始める雪の中、リュミネス山にある樺の森林にて、地上の雪に身を埋めるかのようにして、低く伏せていた。
その手には縄が握られている。
エーミールが鋭い視線を向ける先に居るのは一匹の北領兎。密に生えた真っ白い体毛が特徴の大型の兎は、辺りをきょろきょろと見回しながらスンスンと鼻を動かしている。
エーミールが手に握る縄の先は雪の上に突き立てられた木の棒に伸びていて、棒が大きめの藁編み籠を突っ張っている。
籠の下には、草付きのラズベリー。
今エーミールの目の前で、一歩また一歩と北領兎がラズベリーの元へ近付いて行く。
次の瞬間。
スパンッと兎の頭部を矢が貫き、「わ――ッッ!!」とエーミールは叫んでいた。
「なにすんだよっ!」とガバリと立ち上がりながら、思わずエーミールが振り返るその先には、クロスボウを構えた父の姿。
「いや……じれったくてな……」
照れ笑いを浮かべる父は現在、頭からすっぽりと擬態用の真っ白い毛皮を纏っている。それは北領兎の毛皮で作られたものだが、大きさが大きさだけに、まるで雪熊のような姿になっている。
「……なんでここに父さん居るの? 今日は一人で狩りに行くって言ったよね?」
エーミールが口にした疑問に対し、父はハッとした表情を浮かべるとすぐさま雪の中にザバッと沈み込んだ。
「……もう遅いよ」
呟いたエーミールの言葉を聞いて、改めて父はザバッと雪の中からはい出した後、「いやあ」と言って頭を掻く。
「心配だったんだよ」
「なんでさ……もう心配されるような年でもないんだけど」
「しかし、母さんがだな……」
「……確かに母さんは心配性だけど」と言ってエーミールはため息をこぼす。
「僕だってもう十三歳なんだ。二年後には準成人になるんだ! そうなったら一人前の狩人だろ? いつまでも子供扱いなんてまっぴらなんだよ」
そう言って真剣なまなざしを向けるエーミールの姿に、父はグッとくるものを感じていた。
「そうか。お前も、そんな風に思う歳になったんだな……ならば父は何も言うまい」
父はエーミールの肩を、ポンと叩いていた。
「――しかしだな。これだけ聞かせてほしいんだが、お前、一人でどうやって狩るつもりだ?」
父の素朴な疑問に、「……う」とエーミールは言葉を詰まらせていた。
「確かに罠で獲物の動きを封じることはできる。しかし、止めを刺さない以上はどうにもならないぞ。お前のクロスボウは百発一中じゃないか。それでどうやって止めを刺す気だ? まさか、手荷物の中の折り畳みスコップでも使うつもりか? しかし罠から逃げ出そうとする獣はよく暴れるぞ。近接攻撃で仕留めるには余りにも危険すぎる」
容赦の無いセリフを浴びせる父に、エーミールは打ちのめされた気分だった。
「――でも、やらなくちゃ」
エーミールはやがて父の目を真っ直ぐに見据えると、言い返していた。
「自分の力でやらなくちゃ! いつまでも父さん任せじゃ上達しないだろ? 僕だって立派な狩人になりたいんだ! 父さんみたく、北領鹿や牙毛象だって狩ってこれるようなさ!」
エーミールの眼差しはどこまでもまっすぐで、決意に溢れていた。
「……そうか」
やがて息子の眼差しに胸打たれた父は、静かに頷いていた。
「ならばやってみなさい」
父は爽やかな笑顔をエーミールに向ける。
「そうだな。確かに、自分の力でやってこその一人前……――お前ももう十三歳。そろそろ、いつまでも子供で居られるような歳じゃないんだ」
「――父さん」
やっとわかってもらえた一心で、エーミールは胸を撫で下ろす。
そんなエーミールに対し、父は笑顔でこう伝えていた。
「頑張ってみなさい! しかし、どうしても無理だと思えばいつでも助けを呼んでくれて構わない。父さんは陰ながら見守っているからな」
それから、父はグッと親指を立てた後、「女神様の加護を祈っている!」と一言。
ザボッと音を立てて雪の中に潜り込むようになった。
「……あの、父さん?」
エーミールは雪からわずかに覗く擬態用の毛皮に声を掛けたが、返事は無い。
仕方ないので、腰のカバンから折り畳みスコップを取り出してパチンと伸ばした後、そんな父の上に丁寧に雪を被せてパンパンと叩き固めていた。
(これで父さんもついて来れないだろ……)
一仕事を終えて額の汗を拭うと、エーミールはスコップを片付け、雪山の奥へ進む事にした。
この日エーミールは、更なる樺の森の奥地で一日中クロスボウを番える事にした。
リュミネス山は豊富な生態系を持っており、北領兎や北領鹿はもちろんのこと、銀狼、牙毛象、雪熊など、様々な生き物が生息している。
この中では唯一、雪熊のみ狩猟が禁じられている。何故なら雪熊は、この国の主神である女神イスティリアの象徴たる獣だからだ。
イスティリアをかたどった女神像はいつも、長い髪の女性が樺の杖と丸い鏡を持ち、雪熊の背に乗った姿をしている。
そのため女神様の象徴として、雪熊は国家から保護されているのだ。
とは言え、様々な生き物が居ると言っても、森の中を歩けば簡単に遭遇できるわけではない。北領兎はどこにでも居るが、北領鹿は基本的に群れで固まって警戒し合っているし、牙毛象はなかなか仕留められる生き物ではない上に知能が高く、狩人の気配を察知するとすぐに姿を消してしまう。
(やっぱり、北領兎なんて小物を狙わないで、きちんとした獲物を狙った方が良いよね)
そう思ってエーミールは、雪に作られている小さな穴を少し探れば出てくる北領兎はそっとしておくことに決め、ズンズンと進む事に決めた。
やがて森が開けた先に見つけた獲物――それは、北領鹿の群れだった。
「あれは……――」
エーミールは木の陰に隠れると、目を見張っていた。
北領鹿の群れの中に、一際大きな個体が居たからだ。
二周りも三周りも大きいそれは、牙毛象に遜色しないほどに大きかったため、思わずエーミールはしばらくの間見入っていた。
「――主だな」
おもむろにそんな声が聞こえると共に、背後からザバッという雪の崩れる音がしたため、エーミールはビクッとなっていた。
「この辺りの北領鹿の群れのリーダーだ。俺も何度か見たことがある」
真剣な面持ちでそう言ったのは父だった。
「と、父さん……結局ついて来たの……?!」
父の方を振り返りながら呆気に取られるエーミールをよそに、父は尚も真剣な眼差しで言う。
「あれはやめておけ」と。
「えっ――で、でも、すごい獲物だよ?」
目を丸くするエーミールに対し、父は首を横に振っていた。
「……止めた方が良い。あいつを相手するのは危険すぎる」
「そうかなあ……」
エーミールは改めて北領鹿の方へ目を向けていた。
(危険と言われても、所詮鹿じゃないか)と内心で考える。
何十発も射貫かなければ仕留められない牙毛象を相手するよりも、よほど簡単に狩れそうだが……。
そんなエーミールに対し、「それよりも」と父は話し掛けていた。
「見ていたらさっきからずっと歩きっぱなしじゃないか。他にも北領鹿が集う良い狩場があるから、そっちへ行かないか?」
「他にもあるんだね」と頷いて、エーミールは父に従う事に決めた。
主という北領鹿の事が気になって、後ろ髪は引かれるものの……。
(確かに、普通の鹿よりはずっと難敵そうだよな。僕が例えば射止めるとしたら、あそこに縄を張って、そこに落とし穴を掘って……)
入念な準備が要るだろうとエーミールは考えていた。
結局、父が連れて行ってくれた別の狩場でも、主の事を考え続けるのだった。