17:王女の涙
そして夜は明ける。
冷えて乾いたカルディアの地を、沈んだ帳の色から鮮やかな朱へと、暁がゆっくりと染め上げてゆく。
風を切りながら馬車を引く黒毛の毛長馬が、ほのかな硝煙の臭いを嗅ぎ取った。
「ッ――」
ターコイズグリーンの髪をした傭兵のルドルフは、咄嗟に手綱を引いて馬の足を止めていた。
――次の瞬間。
ズドンッ!! ドーンッ、ズドーン!!
重たく震えるような音と、地響きによって馬車がカタカタと揺れる。
「う……」
馬車の上で身じろぎをしたのは、フェリシアと一緒に毛布を被って眠っていたエーミールだった。
エーミールが起き上がると共に、ヴィズも耳をピンと立てながらむくりと立ち上がった。
「――おい、大変だ……」
青ざめた顔でルドルフが言った。
彼の視線の先には、小高い草原の向こう、遥か前方に広がっている、眼下に見渡せるシンバリの町並みがあった。
城壁に取り囲まれたその町から、煙がもうもうと上がるのが見えた。
「……!!」
ギョッとするエーミールの傍らで、「なあに……?」と、フェリシアもまた異変に気付いて目を覚ますようになる。
「……始まったぞ。予想していたよりも早くに……――そうか、やつら大砲を持っているから」
「急いで!」
エーミールが語気を強めて言った。
「交戦が終わる前に、シンバリへ行かなくちゃ……」
「無茶言うな!」と、ルドルフは叫んだ。
「戦場のど真ん中に、お前たちのようなド素人が突っ込む気か?! 死にに行くようなものだぞ!」
「でも!!」と、叫ぶエーミールは必死だった。
「僕はやらなくちゃ。フェリシアの望みを叶えてあげたいんだ! せめてフレドリカ様を助けてあげなくちゃ!!」
「フレドリカ様だって?!」
驚いて聞き返すルドルフに、「そうだよ!」とエーミールは答えていた。
「その為に僕たちは急いでここまで来たんだ。フェリシアだって、自分の髪を売ったんだ! フェリシアは記憶が無いのに、『押し付けたままじゃいけない』って言うんだぞ! 子供みたいなのに。子供みたいなクセして、ワガママよりも責務を通そうとするなんて! なんでだよ! 王族ってなんなんだよ、共感できないよ! でも……だったら、だったら僕は……願いを叶えてあげたいって思うだろ?!」
エーミールは必死な余り、ルドルフにぶちまけるようにして叫んでいたのだ。
「ッ――」
振り返って目を見開くルドルフを、エーミールは鋭く睨み付ける。
「――行ってくれないと言うなら、僕が行く」
エーミールはヴィズの背中に手を掛けると、スッと立ち上がっていた。
「この先は僕一人で行くよ! ルドルフ、フェリシアを頼むよ」
そう言って小さく微笑んだエーミールに、フェリシアが青ざめた表情を向けるようになった。
「エーミール、だめだよう……」
エーミールのズボンをくいと引っ張って、小声でぼそぼそと訴える少女は――ああ、如何に弱く儚く見えるのだろうか。
「…………」
やがてルドルフは沈黙の後、ギリッと奥歯を噛み締めると、「……やめておけ」と唸った。
「いいや、やめない」とエーミールは答えながら、小さな荷車の上から荷物を外し始める。
こうやって出来るだけ荷重を軽くすることによって、ヴィズを機敏に動かせるようにするためだ。
そんなエーミールに、ルドルフが告げる。
「俺が行く」と。
「……?!」
ハッと目を見開くエーミールをよそに、ルドルフは馬車と長毛馬を繋いでいる二つの止め金を、パチン、パチン、と外していた。
「戦地へ向かうのはな、傭兵こそが適役だろう? それに、馬車を引かせないなら、犬ぞりなんぞより、長毛馬で行ったほうがずっと早い」
「ルドルフ。でも、あなたに僕たちはそこまでの労働を求めていないし、それじゃあ代金だって釣り合いが――」
慌てて引きとめようとするエーミールに、「阿呆」と言ってルドルフは笑った。
「マスター。お前、昨夜俺の何を聞いていた?」
ルドルフは馬の手綱を握り締めると、ニッと笑っていた。
「俺は傭兵である以前に、一人の兵士だ。大義を持たない主君は捨てたがな、“誇り”そのものは捨てちゃあいない!!」
それからルドルフは手綱を打つと、馬を走らせてあっという間に消えていった。
「ルドルフ……」
エーミールは彼を見送った後、ズボンを掴んだまま震えているフェリシアに気付いていた。
そこでエーミールはしゃがみ込むと、未だに青ざめて震えているフェリシアを抱き締める。
「フェリシア……大丈夫だよ」
「うん、エーミール……」
フェリシアはエーミールの胸にぎゅっと頭を押し付けてきた。
「私、なんでこんなに弱いんだろう? なんで何にもできないんだろ……」
自責の念に駆られて震えているちっぽけな彼女の事を、エーミールは抱き締めているしかできなかった。
そうしながら、エーミールは遠くに望むことができるシンバリの町を、そしてその先に見える石の王宮を見つめていた。
(弱くて無力なのは……フェリシアだけじゃないよ)
エーミールもまた、ただの村人にしか過ぎない自分自身に打ちひしがれるような気持ちを覚えていた。
何しろ、ただ見ているしかできなかった。
遠くから、ただ――
それはまさに、ひとつの国が終焉を迎える光景だった。
やがて押し寄せる黒い蟻の群れのような軍勢が防壁に群がり、雪崩れ込んでゆく。
遠くから響いてくる、銃声と砲撃の音。
火の手が上がり、燃え広がる炎の光景を……――
透き通るように晴れた空の下、その様相は一片も遮られる事無く、まざまざと二人に目の前の出来事を突き付けていた。
(フェリシア……)
エーミールは腕の中に居るフェリシアを心配して、ふと視線を向けていた。
そこで彼女はエーミールと同じように、震えながらも、じっと国が終わり行く光景を眺めていたのだ。
今、ひとつの国が終わりを迎える。
それは雪と氷の女神に愛された筈の国、グランシェス。
「っ……――」
――ふと、伝い落ちる。
フェリシアの頬を涙が、一つ、二つと零れ落ちていき、気付けば彼女ははらはらと泣いていた。
声を出さずに、ただ泣いていたのだ。
「フェリシア、大丈夫? 怖くない?」
エーミールが心配して尋ねると、フェリシアは首を大きく横に振っていた。
「――違うの、そうじゃない」と、フェリシアは言った。
「怖いわけじゃない……ただ、どうしてかしら。虚しくて……すごくすごく、虚しくて」
フェリシアはそれから、黙り込むようになった。
その涙はしばらくの間止まりそうに無い。
エーミールは黙り込むと、フェリシアを抱き締める力をぎゅっと強めていた。
その時、――はらり。と、エーミールの頬に冷たいそれが触れた。
はらり、はらり、と。
空からゆっくりと雪が舞い降りてくる。
それは珍しいほどに晴天続きだった日々の中の、久しぶりの雪だった。
「……遅いよ」と、エーミールは呟いていた。
「今更、降ってもさ……グランシェス王国はもう護れない。女神様の愛した国が、終わってしまうんだよ……ねえ、女神イスティリア様」
誰に言うでもなく、呟かれたその言葉は冷えた空気の中へスッと溶け込んでゆく。
彼の言葉は、居るとも居ないともわからない女神の袂へ届くのか……――それは誰にもわからない。
―― 第二部・第一章 無垢な旅人 ―― 終




