13:雪の無い地
カルディア地方に入った頃には、出発から数えて六日の歳月が過ぎていた。
北のアゴナス地方からカルディア地方に入って間もなく、雪の高さは落ちて行き、最後にはとうとう地面が見えるようになった。
草地の間に伸びている土で出来た街道がハッキリとわかる事そのものは迷わなくて済むのだが、その一方で、困った事が起きた。
それは、これまでの道のりをずっと犬ぞりで来たからこその悩みである。
「車輪、いるねえ……」
ヴィズの足取りを見て、エーミールは呟いていた。
ヴィズは白い毛並みをした、六十リート(およそ120cm)もある立派な体格を持った北領犬である。
そんな北領犬ですら、今は荷物を乗せて歩くのが精一杯で、その上、地面にそりの底面がこすれてゾリゾリと嫌な音を立てている。
そんなヴィズの後ろを、エーミールとフェリシアは並んで歩いていた。
雪が無い分、人としても歩きやすいとは言えど。
「このままじゃそりが傷んじゃうね。早々に買い換えるか、或いは改造するしかないか。それに車輪に直したら、また乗れるし。でも最悪は荷物だけ持たせて、そりはどこかに預けるしかないかもね……」
とにかく、付近で足止めは確定だった。
間もなく到着した場所は、カルディア地方の中でも辺境に位置する小さな町フェンブルである。
フェンブルは、ウインテルよりも若干規模が小さい町だった。
とはいえさすがカルディア地方内といったところか、立ち並ぶ石造りの家の屋根は塗装されているし、道行く人の着ている衣服も染色された物である。
同じ田舎町であっても、随分と毛色が違う。
しかし一点だけ気になるところと言えば、町の規模にしては人の数が少なく見える。どことなく寂しい雰囲気のある場所だった。
「ごめんくださーい!」とエーミールが声を掛けたのは、町の正門横にある馬屋だった。ここなら荷車が売っているだろうと考えたのだ。
やがてエーミールが店内へ入るのを見送った後、フェリシアはフードを深く被り直してから、ヴィズと一緒に遊びながら彼が戻るのを待った。
ヴィズの前にしゃがみ込むと、お手とお代わりを代わる代わるやらせようとしたが、ポンと頭の上に足を乗せられて涙目になっていた。
「ヴィズ知らない……」とぼやきながら目を背けたところで、ふと、視界に一つの張り紙が飛び込んできた。
それはフェンブルの町の家屋の壁に張り付けられた物だった。
『買います 髪 二十リート 四百クルド~』と書かれている。
「……四百クルド……?」
フェリシアが首を傾げていたその時である。
ドアがガチャリと開いて、肩を落としたエーミールが出てきた。
「はあ……」
エーミールはため息をついていたので、「どうだった?」とフェリシアは問い掛ける。
「いや、ちょっとね。ひとまず宿を借りようか」
そう言ってエーミールは誤魔化すかのようにして笑い掛けてきたため、フェリシアはキョトンとしながらも頷いていた。
宿はすぐ近くにあった。石造りの平屋だが、どうやらここがフェンブルの町の中で唯一の宿であるようだ。
そこでエーミールはヴィズを納屋に預けて二人用の部屋を借りていた。
部屋へ行くなり、クロスボウ等を置き、コートを脱いで暖炉に火を入れた後、やっとエーミールは重たい口を開いて事情を話すようになった。
「実は……犬用の荷車が無いらしくてね。この辺りじゃ北領犬を運搬用に使ったりしないんだってさ。でも、そうするとオーダーメイドになっちゃうらしくて、お金がかなり必要なんだ。父さんから旅費は貰っているけど、さすがにそこまでの金額は……」
そう言いながらエーミールはカバンの中から貨幣袋を取り出すと、銅貨を数えている。
「……じゃあ、この先は徒歩になるってこと?」
フェリシアの疑問に、「いや」とエーミールは首を横に振る。
「スコップや毛布が入ってる二人分の荷を、荷車も無く長距離持ち歩くのは難しいよ。どうしたって荷車は必要だと思う」
それからエーミールは黙り込んだため、フェリシアも沈黙するようになる。
彼女が不安そうな表情をしている事に気付き、エーミールは慌てて言っていた。
「あっ、大丈夫だよ。お金の工面はどうにでもできるから。『獲物ある所に仕事あり』ってね。何しろ僕は狩人だからさ、パパッと獲物を狩って来れば良いんだよ」
「……でもエーミール、クロスボウじゃ北領兎しか狩れないんでしょ? お父さんに聞いた事あるよ」
ムスッとしたフェリシアに、エーミールは「大丈夫!」と笑顔を向ける。
「一匹が三クルドの北領兔でも、百匹狩れば三百クルドだろ?」
「…………」
フェリシアの沈黙とジト目を受け、エーミールは肩を落としていた。
「はあ……悪いけど、しばらくこの町で滞在するしかないかもな……」
(しばらくって……)と、フェリシアは口を閉ざしていた。
(それじゃあ、間に合わないよ……もしも間に合わなかったら、フレドリカ様はどうなっちゃうの……?)
そう感じて焦りを覚えるフェリシアの心情を、エーミールも重々わかっていた。
「なんとかするよ」とエーミールは伝える。
「お金を工面できる、何か良い方法があれば良いんだけど……その方法を考えてみる」
エーミールは暖炉の前に置かれていた椅子に腰掛けると、顎に手を当てるようになった。
そんなエーミールの姿を見ているうち、ふとフェリシアは思い出していたのだ。先ほど馬屋の前でエーミールを待っている間に見つけた、とある張り紙に書かれた文面を。
「……ねえ、エーミール」ふとフェリシアが口を開く。
「荷車って、どれぐらいするの?」
金額を聞かれている事に気付き、「ああ」とエーミールは答えていた。
「二百五十クルドあれば出来るって馬屋の人が言ってたよ。……それが?」
「ううん、なんでもないんだけど……」
フェリシアは首を横に振っていた。
エーミールに話せば良かったのかもしれないが、ただなんとなく気が憚られてしまったのだ。
フェリシアは再び脱いでいたコートを羽織るとケープを掛け、頭にフードを深々と被り直す。
「私、ちょっと散歩に行ってくる」
そう言ったフェリシアの方へエーミールは慌てて振り返った。
「だ、ダメだよ一人は……万が一フードが外れたらどうするのさ? またウインテルの時みたくなっちゃうよ。危険だよ!」
「でも、たまには一人になりたくて……だめ?」
じっとフェリシアに伺うような目を向けられてしまうと、エーミールは強く言えなくなってしまう。
(馴れない旅がずっと続いてるんだ。フェリシアだってストレスが溜まってるよな……)
そう思ったから、やがてエーミールは頷いていた。
「……わかった。でも、すぐに戻ってくるんだよ。くれぐれも、そのフードが絶対に取れないようにしなくちゃダメだ。近くまでしか行かないこと。何かあればすぐに大声を出してほしい。わかったね?」
エーミールの言葉に一つ一つ頷いた後、「行ってきます」と言ってフェリシアは部屋を後にする。
後ろめたい気持ちが無かったわけではない。
(髪に鋏を入れるなんて知ったら、きっとエーミールに怒られちゃう)
そう思った。でも、(どうにかしなければ……)という急き立てる気持ちの方がはるかに勝っていたのだ。
やがてフェリシアが足を向けた先――そこは、あの張り紙が出されていた家屋である。
正面に回ってみると、ハサミの絵が描かれた看板が掛かっており、『髪屋』と書かれている。
「ど、どうしよう……」
ここまで来てフェリシアは怖気づいていた。
これまでずっとエーミール越しにしか他人と会話した事がなかったせいだ。
しかしそれでもなんとか勇気を振り絞ろうとして深呼吸を繰り返し、「……よし」と覚悟を決めたその時である。
「……ウチの前で何やってるの?」
後ろからそんな風に声を掛けられ、「うひゃあぅ?!」とフェリシアは変な声を上げて飛び上がっていた。
「う、うう……」
振り返るが否やフードを両手で抑えつつ、プルプルと小さく震えながら涙目を向けてくるフェリシアはまるで小動物のようである。
そんな彼女の姿を見るなり、「あはは……」と困惑した様子で苦笑いを浮かべたのは、フェリシアと同い年ぐらいの一人の少女だった。
瑠璃色の長い髪を結い紐を使ってアップにしている、鮮やかな紅葉色の猫のような瞳を持った少女が、ゆっくりと話し掛けてくる。
「ごめん、怖がらせちゃったかな……? もしかしてウチのお客さん? そんな所に突っ立ってないで、早く入ればいいのに」
そう言って少女はドアを開けてくれたから、フェリシアは恐る恐るながら店内へ足を踏み入れていた。
どうやら少女は髪屋の娘であるらしい。
「入荷……ってわけでもないよね? もしかして、表の広告を見てきてくれたのかな?」
そう尋ねながら彼女は店内を真っ直ぐ歩いて行くと、テーブルの上に置かれていた『只今外出中です。御用の方はしばらくお待ちください』と書かれている厚紙をパタンと伏せていた。
傍らではパチパチと暖炉の火がゆっくり爆ぜていて、フェリシアは落ち着かない様子でそちらの方ばかりチラチラと見ていた。
(人見知りかな? でも、背格好や声から察するに、私と同い年くらいに見えるけど)と思いながら、少女は着ていたコートをカウンターの上へ置くと、店内に並べるように設置されている姿見の前の椅子の一つを指差した。
「とりあえず、あそこに座ってくれるかな? 髪を売ってくれる気があるなら、まずはチェックしないと」
「……チェック?」
質問しながらも、フェリシアは恐る恐ると椅子の方へ行って腰掛けると、目の前の姿見へ目を向ける。
「そう。髪質や髪色によっても値段が変わるからね」
そう答えながら少女がフェリシアの後ろへ歩み寄ってくるようになる。
「えっ、それじゃあ四百クルドくれないの?」
驚いた様子で目を丸くしたフェリシアに、「あはは」と鏡越しに少女は笑う。
「あれは最低金額だよ。もちろん商品にならない程傷んでいたら論外だけど……よくあるブラウン系の色だったら四百クルド。それ以外の色は、珍しさに従って値段が上がって行くかんじかな」
「そ、そうなんだ……」
頷いたフェリシアのフードを少女はグッと引っ張っていた。
何度かグッグッと引っ張った後、「……あのさ」と少女は苦笑いを浮かべていた。
「とりあえずそれ脱いでくれないと、髪を見られないんだけど……」
少女の言葉に、ハッと気付いたフェリシアは、いつの間にかフードの前を掴んでいた両手をパッと離していた。
「そ、そうだよね……」
フードの下から覗き見える青い瞳が、たじたじと漂う様を鏡越しに少女は見ていた。
「……もしかして、何か見せたくない事情でも?」
キョトンとする少女に対し、フェリシアは小さく頷いた。
「……うん。あ、あの、見ても驚いたり、怒ったりしないでね……?」
そうやって前置きの後、やがてゆっくりと降ろされたフードの下からサラサラと零れ落ちた髪を見て、少女は目を大きく見開いていた。




