7:戻らない記憶
家に戻りつく頃には日がすっかり暮れていた。
犬ぞりに乗り続けることはどうやら随分と体力を消費したようで、フェリシアは眠たげに目を擦っていたから、夕飯を簡潔に済ませた後は部屋へ連れて行って、暖炉の火を起こした後、エーミールが寝かしつけをする。
「エーミール」と、ようやく温まり始めた部屋の中、ベッドの中でフェリシアがエーミールの手をぎゅっと握る。
「ねんねするまで、トントンしててね」
「うん、いいよ」と言ってエーミールは布団の上からフェリシアの体をトントンと叩く。そうするうちにフェリシアはしょぼしょぼと目を閉じて、寝息を立てるようになっていた。
「…………」
エーミールはしばらくの間、黙り込んでフェリシアの寝顔を眺めていた。
そのベッドの上に広がる銀色の髪は美しく、何度見ても惹き付ける程に整った目鼻立ちをしている。そんな彼女を見ていると、やっぱり――(フェリシアはお姫様なんだな)と感じるのだ。
そんな彼女が幼児退行する姿を見て、最初はショックだった。
エーミールが元々知っていた彼女は、優しくて気高くてしっかりしていて、完璧な王女様に思えたから。
(……でも、なんでだろう?)とエーミールは手を伸ばすと、フェリシアの髪を撫でる。
(今のフェリシアの方が生き生きとしていて毎日が楽しそうで……“らしいな”って感じるんだよな)
もしかしたら、記憶を取り戻させてお姫様という立場に帰すことによって、その笑顔が見れなくなってしまうのかもしれない。大体、病死という扱いになっているぐらいである。
だったら、ずっとこのままの方が……何度も何度も考えた。
「……でも、良い筈が無い」
ボソボソとエーミールは呟いていた。
「本当ならこんな辺境の村の暮らしなんかよりも、王女様というのはずっと贅沢で豊かな筈で……誰からも必要とされていて、大切にされている筈なんだ……」
きっと病気で亡くなったと思っていたお姫様がお城に戻れば、みんな大喜びするだろう。
そりゃ、不安材料が無いかと言えばそうでもない。お供の一人も付けずに雪の山にたった一人で倒れていた事も含め、怪しい点は幾らもある。
しかし、だとしても、彼女の今の無知に付け込んで、いつまでもここに置いて良い道理にはならないだろう。
大体、フェリシアの存在を王国関係者に見られたらどうにも言い訳のしようがないではないか。なにしろ、王家だけが持つその銀色の髪はよく目立つのだから。
(だから、なんとかしなくちゃ)
やがてエーミールは立ち上がると、そっと部屋を後にする。
居間へ行くと母と、それから父も狩りから帰ってきていた様子で食卓に座っていた。
「エーミール、どうだった?」
母の質問に対し、「うん、寝たよ」とエーミールは答えてすぐに母が本当に聞きたかった事は何なのか気付いていた。
「……だめだった」と言って、首を横に振っていた。
「……記憶、戻らなかったみたいだ」
「そう……」
ため息をつく母をよそに、エーミールは食卓の席に腰掛ける。
「そうか……それにしても弱ったな」
そう言ったのは父だった。
「お姫様が来てから、もう二ヵ月以上も経つのか……もう犬ぞりにも乗れるんだろ? だったら、いい加減、結論を出さなければならない。もしかしたらお城の人も、お姫様の事を探しているかもしれない。失踪した件を公にすれば民衆がパニックになるから、病死と発表したのかもしれない。或いは他の事情が……色々と可能性はあるが……――いずれにせよ、このままでは良くない事だけは事実だ」
「うん……そうだね」
エーミールは頷いていた。
「……僕、フェリシアを連れて、彼女が住んでいた筈のグランシェス城があるシンバリの町まで行ってみるよ」
エーミールの提案を聞いて、父と母は驚いた。
「だ、大丈夫なの? エーミール、この村と隣町の往復しかやったことが無いじゃないの」
これは母の意見。
「随分と遠い道のりになるぞ。一週間そこらでは利かないはずだ」
これは父の意見だった。
「うん。でも、まずはフェリシアが記憶を取り戻してくれなくちゃ。そうしないと、どうにもならないだろ? それともずっとフェリシアの存在を国に隠しながら、村の中に居させるの?」
エーミールの質問に、両親は黙り込んだ。
「……或いは、国に引き渡しちゃう? でもそうしたら僕たち、お姫様浚いの犯人だって言われて処刑されちゃうかもしれない。或いは、考えたくないけど……国が、病死ってことにしておきたかったとしたら、フェリシアは……」
エーミールの言葉に、両親はやっと首を横に振っていた。
「……良いわけが無い」これは父の言葉だった。
「そうよ。お姫様は、……お姫様は……」
母は言葉を詰まらせた後、やっと唸るようにして呟いていた。
「……おこがましいかもしれないけれど、もう大切な家族なのよ」
「うん、そうだよ。僕だって同じ気持ちだよ!」
エーミールは両親に対して、自身の思いを吐露していた。
「このまま村の中で匿っていたって、いつまでも国の関係者に見つからないわけが無いんだ。だってフェリシアの外見はよく目立つからね。大体、フェリシアにとっても良い状態かどうかわからない。かといって、何もわからないうちにお城の人に引き渡すのは安易すぎる。それこそ、どうなるかわかったもんじゃないよね。だったらどうしたって、記憶を取り返してもらわないと。そのためには……――」
エーミールは伝えていた。
「彼女にとって馴染み深い筈の、グランシェス王国の首都シンバリへ行く。効果があるかどうかはわからないけど、何もしないよりはマシだろ?」
エーミールの言う事は尤もだと思って、父も母も頷いていた。
「……それにしても」と父が感傷深げに口を開いていた。
「あんなに子供だ子供だと思っていたキミがそこまで考えているとはな。子供の成長というものは早いものだな……」
「そうね」と母は頷いたため、父はからかうようにして笑った。
「おっと。エーミールはまだ子供だと言って憚らなかった母さんが、これは火でも降り始める前触れかな?」
「あのね、お父さん」と母はため息をついていた。
「私だっていつまでもそのままの意識でいないわよ。最近じゃエーミールにいつまでも髭が生えてこない事の方を心配しているぐらいなんだから」
母の言葉を聞いて、慌ててエーミールは自身の口元に手を宛がっていた。
「か、母さん。人が気にしてること言わないでくれない?」
「それに」と母は続けていた。
「お姫様が来てからというもの、エーミールってしっかりするようになったじゃない? 意外とお兄さん出来たのねって思ってホッとしてるのよ、これでも」
母は微笑んだ後、急に真顔になってエーミールに伝えていた。
「エーミール。お姫様のこと、きちんと守って差し上げるのよ。あの子に何かあったら……母さん、承知しないからね」
そんな母の言葉の後に続いて、「父さんもだからな!」と父が言う。
二人のその真剣な眼差しを見てエーミールは破顔していた。
「うん、わかった」と頷く。
(……フェリシア。僕たちはキミのこと、家族だって思ってるよ。キミはどうかな? 例え記憶を取り戻しても……僕たちのこと、好きで居続けてくれるかな?)
エーミールは内心でそんな風に考えるのだった。




