5:小さな石碑
雪に埋もれるようにして、十数件ほどしか無い石造りの家屋が軒先を連ねている。
といっても――その家屋のうち大半は無人であり、手入れがされていない状態で放置されている。
それが、リュミネス山中腹にあるイド村の風景である。
人の行き来がある道だけ、一メートルほどの幅で雪が踏み均されており、そこをフェリシアとエーミールは手を繋いで歩いた。
手を繋いであげなければ、歩き慣れていないフェリシアは簡単に転んでしまうからだ。
フェリシアは既にこの村にとって立派な一員となっているようで、その銀色の髪の少女を見かけた老翁が手を上げて、「おお、お姫様と、エーミールじゃないか」と手を振って話しかけてくる。
「おはようございます、スノーフさん!」とエーミールが応じる一方、フェリシアは不安そうな表情になって、エーミールの手を握る手の力をギュッと強めるようになった。
彼女はどうやら強い人見知りを持っているらしい。というのが、ここ一週間少々でエーミールが学んだことである。
エーミールは軽くスノーフお爺さんに会釈の後、フェリシアを引っ張って村の中を歩いて回った。
今日は簡単な散歩だけで留めておくつもりだったからだ。
しかしフェリシア当人は、それだけでは満足しなかったらしい。
「――ねえ、エーミール。この先には何があるの?」
そう言ってフェリシアが指差したのは、軒先が連なっている更に奥の、村よりもやや高い位置にある方向。
踏み均された雪の道は家が途切れる手前で止まっており、フェリシアが指差す方向はなだらかな坂が続いており、更にその先には針葉樹の林が広がっている。
「ああ、この先なら、大したものが無いから誰も行き来しないんだよ。だから雪も積まれたままになってるんだよ」
エーミールの回答に、フェリシアは気になる部分があったらしい。
「――大したものが無い? じゃあ、何かはあるの?」
「うん」と、特に気にすることなくエーミールは頷いていた。
「昔の人が建てた、小さな石碑があるぐらいかな。この村が出来た時に建てられた記念碑みたいなもんだって、父さんが言ってた気がする」
「見てみたいな」と、フェリシアが言ったからエーミールは驚いていた。
「え? でも、ホントに小さな石碑だよ?」
「うん、見てみたい!」
改めてフェリシアは満面の笑顔でそう言ったから、エーミールは吃驚していた。
(意外と好奇心旺盛なタイプなんだな……以前のお姫様にはそれらしさはあんまり見なかった気がするけど)
そうは思ったものの、特に断る理由が思いつかなかったから、まあ良いか。と思った。
「じゃあ、行ってみる? といっても……雪で埋もれてるからな。踏み均す道具が必要だよね。ちょっと待ってて、スコップと雪踏を取ってくるから」
そう言ってエーミールはすぐに家へと引き返し、そして持ってきたもの――それは、木製の柄の先端に鉄のさじ部が付いているスコップと、俵のような形をした靴の底に、紐が巻かれた分厚い板が取り付けられている道具だった。
エーミールはスコップである程度雪の上辺をさらった後、今度は雪踏を履くと、手際よく雪を踏み均して道を作っていく。
「なにそれ? いいなあ、私もやってみたいな」
フェリシアは目を輝かせてそう言ったが、エーミールは苦笑していた。
「フェリシアには重たいんじゃないかな? それにまだ体力も戻っていないんだし、見ているだけで良いよ」
「えー……」とフェリシアは不満そうに口を尖らせている。
しかしやがて機嫌を直した様子で、彼女は傍らでいつの間にか雪だるまを作って遊ぶようになっていた。
小さな雪だるまが完成した頃、エーミールの道を取り付ける作業も終わり、少しだけ伸びた道の先の突き当たりとなっている雪の壁の下側に、うっすらと灰色の何かが覗いている。
「……なにこれ?」
すぐに駆け寄ってきて目を丸くするフェリシアの目の前で、エーミールはその場にしゃがみ込むと、両手を使って雪を払い落としていた。
そこに姿を現したのは、エーミールが言っていた通り、三十センチくらいの高さしかない小さな石碑である。
そこにはイタチのようにしなやかで長い体をした、翼の無い四つ足の竜が横たわった姿が描かれていて、その上には女性が描かれている。
素彫りであるため色まではわからなかったものの、女性は腰まである長い髪をしており、片手に杖を掲げ、もう片手で丸い鏡を抱えていたから、「あっ」とフェリシアは声を上げていた。
「この人、知ってるよ。……――氷の女神イスティリア様だよね」
フェリシアが指差したのは竜の上に立つ女性の方だった。
「うん、そうだね」とエーミールは頷いていた。
「形式的な女神様の姿形は、樺の杖と鏡を持っている姿をしているからね。……でも僕は、子供向けの絵本に出てくるような人間臭い女神様の方が好きだなあ」
エーミールの素直な感想に、フェリシアは彼の方へ目を向けていた。
「エーミールは、女神様のお話を知っているの?」
「もちろん。グランシェスの国民は誰でも女神様の伝説を聞かされながら育つだろ?」
エーミールの答えに、「……ふうん」とフェリシアは頷いていた。
「――でも」と、ふとフェリシアは指していた指を下の方へ滑らせていく。
「こっちは知らない。こっちはなあに?」
フェリシアがそう訊ねてきたのは、竜の絵だった。
「多分、リディニーク」とエーミールは答えたから、「多分?」とフェリシアは聞き返していた。
「うん。石碑の裏にね、書いてあるんだよね。『リディニークとイスティリア』って」
そう言いながらエーミールは、石碑の裏面の方へ手を滑らせると、そちら側の雪も払い落としていた。
「ほら、ここ」とエーミールが指差した場所をフェリシアは覗き込む。
確かにそこには彼の言う通りの言葉が彫られていた。
「こっちの女神様の方がイスティリアなら、多分こっちの竜はリディニークっていう名前なんじゃないかな」
エーミールはそう話していた。
「多分って……本当はどうなのか、誰も知らないの?」
そう言うフェリシアは少し不満げだった。
好奇心が満たされないことが嫌なのだろう。
(僕も小さい頃はそうだったなあ)と思って、そんな彼女の気持ちを理解できる傍ら、エーミールは、これ以上どうにかしてあげる事ができなかった。
「そうだね。僕も幼い頃、村長に聞いた事はあるんだけどね。知らないって言ってたなあ。でも多分、昔の人が創造で描いた物だろうって話していたよ。女神信仰によって結託した臣民が、雪害という自然現象を克服した事を象徴的に描いた物が、きっとこの石碑なんだってさ」
「……曖昧ね」
フェリシアの呟きに思うところがあって、「うん……そうだね」とエーミールもまた頷いていた。
「でもさ、昔の人が本当のところ、何をやって何を考えていたかなんて、後世に生きる僕たちには知る由も無いことなんだ。だから空想をめぐらせて、曖昧に語り継いでいくしかできないんじゃないかなあ……?」
「……エーミールは信じる? この竜の存在」
ふとフェリシアに尋ねられ、エーミールは笑っていた。
「わからないよ。本当に居たのかもしれないし、或いは本当にただの象徴なのかもしれないね。でも……どちらかに断定する必要は無いんじゃないかなって僕は思ってるよ。どっちが本当であったとしても、自分の好きな方を信じていた方が夢があるような気がしない?」
エーミールの問い掛けに、フェリシアはぷっと吹き出していた。
「夢があるかどうかで決めるんだね、エーミールは」
「うん。フェリシアはどっちが良い?」
エーミールに問い掛けられ、フェリシアはうーんと首を捻っていた。
「じゃあ……――実在する、の方で! だってそっちの方が素敵だもん!」
「そっか」とエーミールは笑うと、傍らに置いていた雪踏を脇に抱えていた。
「じゃあ、そうしておこう。……それより、時間も経ったことだし、そろそろ帰ろうか。あんまり長い間外出していると、母さんも心配するしね」
エーミールの提案に、フェリシアは少しだけ名残惜しそうに石碑の方を見た。
しかし本当にこの場所にはそれしか無かったため、すぐにフェリシアは興味を無くしてエーミールの方を振り返る。
「手、繋いで行こう」
そう言ってフェリシアが手を差し出してきたので、エーミールはその彼女の華奢な手を掴んでいた。
まるで妹みたいだなあ。なんて思いながら。
「じゃあ、行こうか」
エーミールの言葉に、「うん!」とフェリシアは機嫌良く頷くのだった。




