3:唯一の記憶
フェリシアが目を覚ましてから、三日ほどの日が経った。
ようやくエーミールがフェリシアの世話に慣れ始めた頃、やっとフェリシアの喉の腫れは引いたようだ。
朝起きてすぐ、ベッドの上に居る彼女の口の奥を診ていたエーミールは、「よし」と言ってフェリシアの頬から手を離していた。
「今日からは普通のご飯が食べられそうだね。良く頑張ったね」
そう話しかけると、フェリシアの表情が綻ぶようになる。
「エーミールっ」
突然がばっと抱きつかれ、「わ?!」とエーミールは慌てながらもバランスを崩して床の上に尻餅をついていた。
当然フェリシアもベッドから落ちたのだが、それにもお構いなく、フェリシアはエーミールにギューッと抱きついてくる。
そうすると相変わらず、服越しに柔らかい感触がありありと伝わってくるのだ。
何度されてもそれだけは慣れなくて、エーミールは赤面するしかなかった。
しかしそんなエーミールの気などいざ知らず、フェリシアは上機嫌にエーミールに体を摺り寄せてくる。
「やっと声が出て嬉しいな。私ね、エーミールの名前をずーっと呼びたかったの」
「お、お姫様……」
困り果てながらも笑うエーミールに、フェリシアは急にむーっとした表情を見せてくるようになった。
「……それ」と、いきなり頬を両手でわしっと挟まれて、「ふぇ?」とエーミールは間の抜けた声をこぼす。
そんなエーミールの目を、むくれた様子でフェリシアの青い瞳がじっと覗き込んでくるようになる。
「私、お姫様じゃないよう。ちゃんと名前で呼んでよう。私にはれっきとした名前があるんだよ? それは、それはね、んー……」
しばらくフェリシアは考え込んだ後、首を傾げるようになった。
「……なんだっけ?」
「……――え?」と、エーミールは呆気に取られていた。
そんなエーミールの頬から手を離すと、フェリシアは急に戸惑った表情を見せるようになる。
「ど、どうしよう……エーミール。私、自分の名前が思い出せないよ!」
今にも泣き出しそうな表情でフェリシアが言ったのは、それだった。
フェリシアの部屋に呼ばれたエーミール母は、しばらくの間フェリシアに幾つか質問を繰り返した後、うーんと呻っていた。
「……これは……記憶喪失というやつね」
「ええっ!」と驚いた声を出したのは、ベッドの上に居るフェリシアの傍らの椅子に腰掛けていたエーミールである。
「長い昏睡状態が残した後遺症は、幼児退行だけじゃなかったのね……」
はあ……と母は溜息をこぼしている。
「ちょっと待って。でも、それじゃあなんでお姫様は僕のことを覚えてたんだろう?」
エーミールの疑問に、「私に聞かれても困るわよ」とサラッと答える母。
「とにかく、もうしばらくは慎重に様子を見て行くしかできないわね」
そう言って母がフェリシアに歩み寄ろうとすると、フェリシアはビクッとした様子になってエーミールの手を引っ張ったかと思うと、しがみ付くようになった。
どうやら彼女は、エーミール以外の人間に近付かれる事が未だに怖い様子だ。
母は足を止めると歩み寄ることを諦めることに決めて、エーミールに話しかけていた。
「とにかく……もうしばらく、お姫様のことは頼んだわね、エーミール。と言っても――本音を言えば、いつまでも働き手がお父さん一人なのも大変なのよね。だから、なるべく早くにリハビリを進めてもらえると助かるわ」
「うん、そうだね……」
エーミールは頷きながら部屋を出て行く母を見送っていた。
ドアが閉じた後、フェリシアに尋ねていた。
「お姫様。お姫様は、どうして僕の名前を覚えてるの?」
「……私、お姫様じゃないよ」
フェリシアはまた不快そうな表情になったから、「ごめん」とエーミールは謝っていた。
「じゃあ、なんて呼べば良いのかな。フェリシア様……でいいの?」
「ふぇりしあ?」
「うん。キミの名前だよ。キミの名前は、フェリシア=コーネイル=グランシェス。聞き覚えは無い?」
エーミールに尋ねられて、フェリシアは首を傾げていた。
「んー……よくわかんない」
「……そっか」
こりゃあ厄介だなあ。なんてエーミールは考えていた。
そんなエーミールに、「――でも」とフェリシアは微笑むようになる。
「フェリシアって呼んでくれるなら、教えてあげるよ? 私がエーミールの事を知っていた理由」
フェリシアにそう言われ、エーミールは気後れするものを感じたものの、「じゃあ……フェリシア」と、彼女の名前を呼んだ。
するとフェリシアは花が開くような笑顔になって、「うん」と頷いた後、やっとエーミールの疑問に答えてくれた。
「私ね」と、エーミールにしがみ付いたまま、フェリシアは話し始めた。
「目が覚めるまでの間、長い夢を見ていたの。長い長い夢……そこに居てくれたのがエーミールなの」
「……僕?」と、エーミールはビックリして聞き返していた。
するとフェリシアは「……うん」と頷いた。
「灰色の髪とキャラメル色の目をした、あなたよりも少しだけ幼いあなた。その人がずっと傍に居てくれたから……寂しくなかったの。ホントは、ずっとこのままでも良いかなって思ってたんだけど……――」
言葉を途中で止めて、すっとフェリシアが差し出したもの。それは右手の小指だった。
その小指をエーミールの小指に絡めながら、フェリシアは話した。
「約束。したよね? また会おう――って。だから、あなたの指が私の指に触れたとき、気付いたの。この手は大きいけれど、いつも夢の中で触れているエーミールと同じ手なんだってわかったから。……――その時やっと、目の前に居るあなたが夢の中の存在だと気付いたの。だって、ホンモノのエーミールはここに――現実の中に居るんだもの」
「――だから私は、目を覚ましたの」とフェリシアは最後にそう締め括っていた。
「うん……そっか」
その話を聞いた時、エーミールはホッとしていた。
(三年前に交わした僕との約束が、きっと彼女の命を繋いだんだ……)
その事に気付いたからだ。
「良かったよ……ホント、良かった」
やがてエーミールは笑い声を上げていた。
「こっちの世界に帰ってきてくれてありがとう、フェリシア」
エーミールがそう彼女に伝えると、彼女もまた微笑んだ。そして。
「こっちの世界に居てくれてありがとう、エーミール」
と、彼女もまたエーミールにそう伝えるのだった。




