1:目覚め
――それはグランシェス王国がまだ陥落していない頃。遡ることおよそ三十日前の出来事である。
その日もイド村は雪に閉ざされ、冷えた空気に包まれていた。
灰色の髪の少年エーミール=ステンダールは、いつの間にか、朝目を覚ますと、寝巻きのまま自室を出て、そして隣にある元空き部屋へ行くことが日課となっていた。
そう――そこは“元”空き部屋。
今は整えられたベッドの上で、眠り姫が昏々と眠り続けている、眠りの間となっている。
フェリシア=コーネイル=グランシェス。
それが彼女の名前である。
透き通った銀色の髪を持ったその美しい眠り姫は、眠り続けている間も少しもその美しさを損なっていない。
エーミールはその部屋の窓を開けて換気をしながら、暖炉の方へ行って薪を追加でくべる。
この部屋の火は既に二ヶ月以上もの間、絶やされた事が無い。
何故なら、ここの火が消えるということは、即ち、今もベッドの上で懇々と眠る彼女の死を指しているのだから。
エーミールは薪の世話を終えると、火バサミを暖炉の傍らに置いて立ち上がり、それからベッドの方へ歩み寄っていた。
昨日取り替えたばかりの白いシーツの上で、彼女はすうすうと穏やかな呼吸を繰り返して眠り続けている。
今の彼女の命を繋ぐのは、暖炉の火と、それから一日四度に分けて与えられる、様々なフルーツを煮詰めて作られるスープだった。
――といっても、彼女は自分自身で食事を取ることなんて出来ないので、スノーロータスという植物から取れる、ストロー状の蔓を利用した強制的な給仕が行われる。
それはスプーンで流し込むなんて生易しいものではなく、強引にでも喉の奥へと蔓を差し込んだ上で行われるものなので、日に何度も異物を抜き差しされた喉は腫れ上がるようになってしまっている。
見た目ではわからないが、彼女の体内は随分とダメージを受けている筈だ。
それでも。
(死んでほしくないんだ)
それはエーミールだけでなく、イド村の住人全員の思いだった。
三年前にあった巡礼の出来事は、この村の人々の胸に深く刻み込まれている。
ある種、巡礼に訪れるグランシェス王族という存在は、何も無いこの村にとって唯一の誇りのようなものなのだ。
それでも時々思う事がある。
(こうまでして生かされて、彼女は幸せなのかな?)
それでも、いつか目を覚ますかもしれないと思うと止められないで居る。
それが生者の勝手な思いの上で成り立っているとは知りながらも。
「――ねえ」と、やがてエーミールは目の前で眠る彼女に話し掛けていた。
「また会おうって約束したよね。僕は……こんな出会い方、望んでなかったよ。だってこんなの、会ううちに入らないじゃないか……」
エーミールはベッドの傍らに膝をつくと、そっと手を伸ばす。
そして彼女の胸元に置かれた細い小指に、自身の小指を絡めていた。
三年前は、これほど小さくて細いようには感じなかったけれど。
(……いや。僕が大きくなったんだよな)
不思議なもんだな。なんて、考えていたその時だった。
ぴく。と、絡めた小指が小さく動く。
「……――!!」
目を見開くエーミールの目の前で、フェリシアの指がゆっくりと動き――
きゅ。と、エーミールの小指を弱弱しいながらも握り返してきた。
そうして、呆気に取られているエーミールの目の前で、やがて。
「けほっ……ごほっ」
その眠り姫は苦しげに横を向き、咳き込み始めるようになる。
「かっ――」
エーミールは思わずガバッと立ち上がる。
「母さんっ、母さん――!! お姫様が!!」
エーミールはバタバタと慌しく部屋から飛び出していった。
エーミールに呼ばれて部屋に来た母は、未だ咳き込んでいるフェリシアを見て「――信じられない」と呟いていた。
「目を覚ますなんて思ってもみなかったわ! これは奇跡よ!」
そう言って駆け寄ってきた母の姿を目に映すなり、フェリシアは急に怯えきった表情になってベッドから逃れようとして、そのまま転がり落ちていた。
そうして床に這いつくばった姿勢のまま咳き込んだ後、「ふええ~」と泣きじゃくり始めたので、エーミールと母は驚いて目を合わせていた。
「これは――参ったわね」
深刻そうに呟いた母の目の前では、フェリシアが未だにしゃくり上げていた。エーミールにくっ付いた状態で。
彼女はその後、母がベッドの上に戻すために抱き起こそうとしたが、嫌がってそれどころではなかった。
ならばと代わりにエーミールが歩み寄ると、フェリシアはホッとした表情を浮かべて自ら手を伸ばしてきたのだ。
そのためエーミールはフェリシアを抱っこすると、ベッドの上に座らせた後、離れようとするが。
ぎゅ。と服の袖を掴んで、泣きそうな表情になりながら、フェリシアが首を横に振るではないか。
「……え?」と驚いてエーミールが尋ねると、余計にエーミールの袖を掴む力を強めて、口をパクパクと動かしながら首を横に振り続けている。
そればかりかグイグイとエーミールを引っ張って抱きついてきたものだから、思いのほか豊満なその胸がむにむにと腕に当たって、エーミールは赤面していた。
「ちょ! お姫様、困るよ! 母さんからも何か言って!」
エーミールは傍らで見ていた母に助けを求めるが、母はというと。
「うーん……この状況、諦めた方が良いんじゃない?」と、あっさりと匙を投げてしまった。
「ええぇっ?!」
エーミールは驚愕するものの、ふとフェリシアの方を見ると、まるで“嫌なの?”とでも言いたげに悲しげな表情を浮かべている。
そのためエーミールは折れるしかなかった。
仕方なくベッドの上に座ると、恥ずかしかったものの、大人しくぎゅーっと抱きついてくるフェリシアの抱き枕になっているしかなかった。
とはいえ到底その状況に納得できるわけもなく、困惑しながら、エーミールは母の方へ視線を向ける。
「これって……どういうことだろう?」
エーミールの疑問も無理は無かった。
見た目はどう見てもフェリシアなのに、三年前に見たフェリシアとはあまりにも掛け離れすぎている。
そもそも、彼女は既に十八歳ではないか。何故ここまで幼児のように振舞うのか。
まあ……確かに、元々が小柄な体格をしているから、ある程度幼い態度でも違和感が無いと言えば無いのだが……――
それにしてもこれは幼すぎである。
やがて母が出した結論はこれだった。
「これは、恐らく――幼児退行というやつね」
母の言葉に、「ええっ!」とエーミールは驚いていた。
そんなエーミールに母は冷静な態度で解説を始める。
「一度仮死状態になった後、長い間昏睡状態が続いていたから、脳にダメージが行っちゃったのかもしれないわ」
「そんな、それじゃあどうするのさ?」
「それは……――落ち着くまで、もうしばらくウチで面倒を見るしかないんじゃない?」
母の出した結論に、エーミールは困り果てていた。
とはいえ……――。
今のフェリシアを見る限り、そうするより他に手立ては無いだろう。
何しろ世間では病死したと思われているお姫様が、幼児退行した状態でイド村の住人から引き渡された。……なんて事態があったら、世間でどのようなあらぬ噂が飛び交って、どのように後ろ指を指されるかわからない。
その上、下手をすれば打ち首になりかねないではないか。
「仕方ない……」と、エーミールは溜息をついていた。
ショックが無かったわけではない。
何しろ、あれほどキレイで心のどこかで憧れていたお姉さんみたいだった人が、今やこんな風に、すっかり子供のようになってしまっているのだから。
(でも……)
生きててくれて良かった。助かってくれて良かった――そんな風に、心底から思えるのだ
。
ふと気付くと、フェリシアがしょんぼりとした目を向けてくるようになっていた。
まるで『迷惑?』と尋ねられているように見えて、エーミールは慌てて笑顔を作っていた。
「大丈夫だよ、お姫様」と言った後、エーミールはためらったものの、結局彼女の頭をなでていた。
「この村の人たちはみんな、キミの味方だから。遠慮せずに、いつまでもここに居て良いからね」
エーミールに頭を撫でられ、フェリシアは微笑む傍ら、どこか不安げな表情も覗かせるのだった。




