15:最後の日
ゴート地方が陥落してから三十日後、軍備を整えたモレク軍は再び侵攻を始めた。
次に彼らが向かった先は、グランシェス東部に位置するエルマー地方。
しかしあろう事か、ここの領主であるルードヴィック=セッツォーカ=エルマーは、あっさりと降参してモレク陣営に寝返ったのだ。
残るグランシェス王国に味方する土地は、アゴナス地方のみとなってしまった。
「……女神イスティリアの加護を失くしたグランシェス王国など、無用の長物とでも言いたいのか……」
グランシェス王のロジオンは、エルマー地方が寝返ったという報せを受けたとき、頭を抱えていた。
「未だ雪は来ぬ……やはり、女神は我が国を見限られているようだ……。こうなった以上、もう終わりだ。グランシェスなど……」
魂が抜けたかの様子で書斎の椅子の上に腰掛けている王に、「陛下」とラルフは声を掛ける。
「いつまでも女神に頼り切るわけにもいきますまい。既に触書は出したのです。今も続々とシンバリの地には、カルディアの各地及び北のアゴナス地方から、我こそはという民兵が集まってきております。我が軍勢は、本陣の二万に、アゴナスからの援軍が一万。民兵のみで、五万。これでいよいよ規模八万を超えました。人の手でもやれる所を、この機会に女神様にお披露目しようではありませぬか」
「規模八万……か」
ロジオンはようやく笑みを見せていた。
「思った以上には集まったようだな。フレドリカも捨てた物ではない。しかし……――」
すぐにロジオンは笑みを消していた。
「――次が最後の戦になるだろう。次に敗れてしまえば、我が国は……グランシェス王国は……――」
「……よくぞここまでの非道をやってのけてくれましたな、あのモレクの子息は」
「まったくだ」と言った後、ロジオンは溜息を零していた。
「――しかし」
間もなくロジオンは表情を引き締めていた。
「この先、どんな結末を迎えようとも――私はグランシェスの国王たる者……! 国と共に生き、国と共に死ぬ覚悟で迎えてみせる……!」
ロジオンの決意に満ちた眼差しを見て、ラルフは静かに頷くのだった。
「~~♪」
暖かな日差しが投げ掛けられるプリムラの花で満たされた中庭には、可憐な少女の歌声が響いていた。
植えられた草木の緑が、白い色に遮られることなく見ることができるのは、ここシンバリ近辺特有の景色だろう。
よく手入れの行き届いた花壇の傍らのベンチに腰掛けて、足をぶらぶらとさせながら穏やかな様子で歌っているのは、白いドレスを身につけた少女。
フレドリカ=ドーシュ=グランシェスだった。
彼女の傍らでは老紳士のような雰囲気を持った執事服の老人が、控えるかのようにして立っている。
まるで平和なお城の情景の一枚を切り抜いたかのような光景がそこにはあった。
しかしここグランシェス城は決して平和であるとは言えない。何故ならこの国は現状、モレク王国と交戦状態にあるからだ。
それを知りながらフレドリカは歌っていた。
戦況が芳しくない事も、知らぬ間に自身が触書の褒賞にされていた事も知りながら。
王は当人に何の相談も無く、あの触書を作り上げた。
(まるで私を人とも思っていないかのような、道具としてしか思っていないかのような……)
フレドリカはやっと思い知っていた。
ロジオンとは、どういう人物なのかということを。
そして王女とは、どういう存在なのかということを。
「~~♪」
少女は歌い続けていた。
前王女のフェリシアは、とんだ食わせ物だと思った。
何故なら、致命的な悪評を上手く作り上げて、のうのうとこの立場から逃げ延びたのだから。例えその先が死の世界であるとしても。
(でも、そのせいで私はお姫様の代わりに、こんな状況になったんだよ? お姫様があんな事さえしなければ、私は今でもドーシュ家の娘で……お姫様に憧れているだけで済んでいたのに)
そう。確かにここに来るまでフレドリカは王女という存在に憧れていたのだ。
しかし、いざその話が来た時は二の足を踏んだ。その背中を押してくれたのが祖父だった。
『ドーシュ家のためだ。 お前のお陰で、この家は再興できるんだ』
祖父が優しく微笑む姿を見たのは久しぶりだった。
それで、「――はい、お爺様」とフレドリカは頷いた。
不安なフレドリカの心を支えたのは、傍らに居てくれる執事のテオドル。そして王女という立場への憧れだった。
物語の中で見るお姫様という存在は、いつもキラキラしていて華やかで楽しげな存在だったからだ。
それが、現実の王女様というのは、政治の為に振り回され、好き放題に弄ばれる、ただの道具にしか過ぎなくて。
(こんな現実、知りたくなかった)
気付けばフレドリカは歌をぴたりと止めていた。
そうして、ぼんやりと庭の景色を眺めるだけになっていた。
フレドリカはいつの間にか、前王女だというフェリシアの事を考えていた。
自分よりも六つ年上の、仮初めの王女である自分なんかとは違う――本当のお姫様。
(モレクの王子様と勝手に輿入れすると言われた時、見ず知らずの相手と勝手に事を進められてしまったことを、私は嫌だと感じたけれど――)
思えばその王子は元々フェリシアの婚約者でもあったのだ。
(フェリシア様はよく、嫌にならなかったなあ……)
フレドリカは珍しく、嫉妬や嫌悪以外の感情を前の王女へと向けていた。
周りの評判を聞くからに、前の王女は感情をあまり見せず、執務に忠実で、文句らしい文句も言わなかったとか。
(……そりゃ、そうなるしかないよね)とフレドリカは思った。
(こんな環境……そうならないと、そうやっていないと、心が壊れちゃうよ……)
気付けば、フレドリカの頬を涙が伝い落ちてゆく。
勝手にあふれ出す涙をそのままにしながら、フレドリカは思っていた。
(無理だよ……私は、そんな風にはなれない……)
「……私は王女様じゃないから……耐えられそうもない」
ぼそぼそとフレドリカは呟いていた。
「…………」
テオドルは静かに泣いている主の姿を、黙って見ていた。
その時である。
突如けたたましい鐘の音が鳴り響いたのだ。
「敵襲――!! 敵襲――!!」
城内に居る騎士たちが、渡り廊下を幾人も慌しく駆け抜けて行くのが見える。
そのうちの数人がフレドリカの方へと駆け寄ってきた。
「姫様!!」と、彼らは血相を変えながら言う。
「こんな場所に居ては危険です! どうぞ、こちらへ!」
「あ……――」
フレドリカが口を開こうとするよりも先に、騎士はフレドリカの手を引っ張った。
結局フレドリカは何も言えずに騎士の後をついて行くしかなくなってしまう。
(私は、お姫様じゃないのよ。お姫様じゃないから――)
「捨て置いてください……私のことなどッ……」
フレドリカはやっとの思いで、掠れた声を吐き出していた。




