10:誉の代償
まるで夢のような日々だった。
朝、目覚めると、自分自身が立派な調度品に囲まれた広い石造りの部屋に居ることに気付く。
既に傍らの暖炉では火が焚かれていて、暖かい空気を部屋中に満たしてくれている。
目が覚めて幾許もしないうちに執事がやってきて、冷たいフルーツのスープを用意してくれる。
それを飲んでも体が冷えないぐらい、部屋の中は温かい空気で充満している。
そうしてスープを飲み終える頃になるとお付きのメイドがやってきて、「身支度を致しましょう、姫様」と声を掛けてくれる。
退室する執事を見送ると、フレドリカはメイドの手によってドレスを着せられるのだ。
それは豪華絢爛で美しい衣装である。
フレドリカは元々高位貴族の出であるが故に、決して、執事やドレスといったものが珍しいわけではない。
しかしそれでも、これほどまでの豪華絢爛な暮らしは生まれて始めてなのだ。
何故なら、フレドリカが元々居たドーシュ家というのは、名ばかりの高位貴族であるからだ。
『王家に血縁があるにも拘らず、諸侯の位も貰えなかった、負け犬の家柄』――と、祖父はよく話している。
まだ幼いフレドリカには事情がよくわからなかったが、ドーシュ家にはとにかくお金が無いらしい。
それでも見栄を張るために、最低限の人数の執事とメイドを雇い続ける。
また、屋敷を維持するためにもお金が必要になる。
なまじ広い屋敷と土地を所有している分、下位貴族の方が良い暮らしをしていてもおかしくない状態だった。
フレドリカの両親は既に他界していて居らず、広い屋敷には祖父と執事と二人のメイドという、自分も含めた五人だけの生活。
それでもフレドリカは寂しいと感じなかった。何故なら祖父はとても優しい人物で、フレドリカの事を本当に可愛がってくれていたからだ。
しかしいつからか、祖父が金銭の工面に本格的に走り回るようになって以来、これまで優しかったのが嘘のように、たまに顔をつき合わした時ですら、いつも不機嫌そうな表情を浮かべるようになってしまった。
そんな風に形ばかりを整えた中身の伴わない環境に身を置いていたから、今の暮らしというのは、本当に童話の向こうの話のように思えたのだ。
(それが今や、私は一国のお姫様で……。いつもカリカリとしていたお爺様が、あんなにも喜んで送り出してくださった。お爺様が笑った顔を見たのは、いつ振りだった?)
フレドリカは誇らしげな気持ちと共に、姿身に映し出された自分自身に目を向けていた。
自分にはきっと、幸せになる権利があるのだと思った。
しかし――その傍らで、ふと、気付くのだ。
後ろで髪をとかしてくれているメイドのカリーナが、寂しげな表情を浮かべていることに。
「……カリーナ?」
声を掛けると、カリーナはハッとした表情になった後、微笑を浮かべるようになる。
「どう致しましたか?姫様」
「ううん……なんでもありません」
フレドリカは喉元まで出掛かっていた言葉を飲み込んでいた。
本当にあなたたちは、私のことを受け容れてくれている?
それが聞きたくても聞くことができない。怖かったからだ。
フェリシアの亡霊が、フレドリカの立場を揺るがそうとして覆い被さってくるような気がしてならない。
でも――それでも。
(今は私がお姫様なの)
フレドリカはそう思っていた。
死んだ人なんかに揺らいでいてはいけない。と考えるのだった。
フレドリカが王女になって一ヶ月ほどが経ったその日、今日も朝からフレドリカはドレスを着せられた後、「そうそう。陛下がお呼びでしたよ」とカリーナに話し掛けられた。
「お父様がですか?」と、フレドリカは目を丸くする。
グランシェス国王という人は、寡黙な人物であるということをそろそろフレドリカは学んでいた。
いつも書斎に関白と一緒に引きこもっていて、用事がある時にしか呼び出さないのだ。
しかしフレドリカは微笑むと、「わかりました」と答えていた。
たまには娘と話がしたい日もあるのかもしれない。と考えたからだ。
フレドリカが部屋から出ると、部屋の前では執事のテオドルが待っていてくれていた。
「テオドル」とフレドリカは、そのよく見知った老人に話しかける。
「国王陛下……じゃなかった。お父様が、呼んでいるそうなのです。一緒に来てください」
フレドリカの言葉に、テオドルはにっこり笑うと「畏まりました」と応じていた。
テオドルは知っていた。
フレドリカはまだこの環境に気を許していないのだ。
フレドリカにとって、唯一心を許すことができる者は、未だにテオドルしか存在しない。
証拠にフレドリカは、一人でこの城内を歩き回ろうとしないのだ。いつもテオドルを呼び付けて同行させる。
「……ねえ、テオドル。私、ちゃんとお姫様のようになれていますか?」
前を歩きながら、潜めた声でフレドリカが訊ねてきた。
だからテオドルは恭しい態度でこう答える。
「それはもう。よく似合っておられますよ、フレドリカ様」
「うん……」
それを聞いてもフレドリカは表情を明るくさせなかった。
どこか緊張した面持ちで、石造りの廊下を歩いて行く。
フレドリカはよくわかっていたからだ。――この城の人たちは、どこか私に対してよそよそしい。
優しく傅くフリはしてくれるものの、まだ受け容れてもらえていないのだ。
(どうすれば、私は本当のお姫様になれるのかな?)
フレドリカはここ最近、他人行儀なこのお城の中で、そればかりを考えているのだった。
相変わらず、今日もグランシェス王のロジオンは、書斎の一室に篭っていた。
傍らには関白のラルフが居て、資料を用意してくれたり、助言を申し出てくれたり等して、ロジオンの仕事の補佐を努めてくれている。
ロジオンがデスクの椅子に腰掛けて、資料を捲っている時、ドアをコンコンとノックする音が聞こえた。
手を止めて、「……うむ?」と尋ねたのはロジオンである。
「私です、お父様。……フレドリカです」
ドア越しに聞こえた声で、ロジオンは表情を緩ませると、傍らのラルフを手で促す。
ラルフは頷くとドアの方へ行って、ドアを開いていた。
フレドリカはラルフの方へ目を向けると、「あ、ありがとう……」と恥ずかしそうにはにかんだ後、ロジオンの方へ歩み寄る。
その後ろにはいつものように、執事のテオドルが控えていた。
「よく来たね。待っていたよ」
ロジオンはフレドリカに優しく話し掛けたから、フレドリカは少しだけ緊張を解くと、「はい」と頷いていた。
「それで、どうされましたか?」
フレドリカの質問に、ロジオンは椅子に深く腰掛けなおすと、機嫌良さそうに口を開いた。
「いやなに、この城には慣れたかね?」
ロジオンの質問に、フレドリカは少しだけ躊躇った様子を見せたが、すぐに笑顔になると「はい」と答える。
「皆さん、よく私に尽くしてくださいます。ここは本当に良い所ですね」
どこかよそよそしいという言葉を飲み込んで、フレドリカが言ったのはそれだった。
しかしそれに気付かないままロジオンは、「それは良かった」と言って笑う。
「実は、今日お前をここに呼んだのは、そろそろ話しておいた方が良いだろう事があるからだ」
ロジオンがおもむろに切り出したのはそれだった。
「お前は、モレク王国の第二王子であるイェルド王子を知っているかね?」
ロジオンの質問に、フレドリカは目を丸くさせていた。
(モレク王国……? って……この国の南西側にあるという国だよね?)
しばらく考えた後、「いえ……存じておりません」と答えていた。
フレドリカは、フェリシアの婚礼があった日に呼ばれていない。フレドリカの祖父も同様である。
そのため、前にあった事件の事を知らないでいたのだ。
「そうか」と言ってロジオンは頷いた後、微笑を絶やさないままフレドリカに言った。
「お前にはイェルド王子と結婚してもらう」
さらりとロジオンが言ったのは、それだった。
それはフレドリカにとって、まさに寝耳に水。思い掛けない事だった。
「え……?」
状況が飲み込めずに困惑するフレドリカに、ロジオンは機嫌良く話し掛ける。
「イェルド王子は、今年で二十歳になられるお方。お前より八つ年上ではあるものの、家柄も身分も申し分が無い。本当はフェリシアの婚約者だったのだがね……あやつと来たら、とんでもないことを仕出かしおった。よりにもよって多くの来賓が集まる婚礼の日に、結婚破棄せねばならぬ状況を作り出しおったのだ。とはいえ、いつまでもそれを嘆いているわけにはいかぬ。モレク王国に対しては、どこかで儀礼を果たさねばならぬのだ」
ロジオンの言葉に未だにフレドリカはついていけず、沈黙を保っていた。
そんなフレドリカに、尚もロジオンは言葉を続ける。
「お前は美しい。その上、若々しい。お前ならばイェルド王子もきっと気に入ってくださる事だろう。フェリシアの代用品として、十分に勤めは果たせる筈だ」
……――代用品。
(所詮、私はそのような立場にしか過ぎないんだ……)
フレドリカは立ちくらみを覚えていた。
王女様になったと思って浮かれていたのに。
皆はどこかよそよそしく、ふとした瞬間に、馴染みきれていない自分を思い知る。
その挙句――『代用品』。
本物には取って代わることができない。
(私は、偽者のプリンセス)
フレドリカはその事をまざまざと思い知らされていた。




