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女神と竜の神話~最北の亡国復興譚~  作者: 柔花海月
第二章 仮初めの王女
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6:雪の抱擁

 雪はしんしんと降り積もる。

 まるで白い妖精が舞い降りるかのごとく、空から地へと降り注ぎ、それは地上をより一層に純潔の色へと染めて行く。


 雪の降り続ける中で、白銀の景色の山を、一人登ってゆく者の姿がここにあった。

 分厚いロングワンピースの上から毛皮のコートとケープを纏い、毛皮の長いブーツを履いている、腰まで届く銀色の髪をした、少女とも女性とも言える年頃の若い女。


 フェリシアは、かつてグランシェス王国の姫君だった。

 しかし今はその身分を剥奪され、今ここでたった一人、遅い足取りで山を登り続けていた。


 この山の道中で幾度か繰り返された夜の闇は、フェリシアの体力と気力を確実に奪い続けている。


(三年前――巡礼団は、屋形に乗る私を連れてここを登って行ったけれど……これほどに辛い行程だったのね)


 そんな中、私は彼らに一体何をしてあげられただろう。と、フェリシアは考えていた。

 ただぬくぬくと守られた中に居て、退屈だと不満を抱いて……(私はなんて愚か者だったのだろう)とフェリシアは思っていた。


 それだけではない。

 これまでも、グランシェス城で王女としての暮らしを謳歌している間、そこには多くの家臣たちの献身があったのだ。


(そんな事にも気付かないでいたなんて。こんな状況になるまで、今の今まで……常に品行方正に振舞い、家臣の献身を得るためにその心情を量らねばならない私こそが、尤も厳しい立場に居るのだと考えていた……)


 フェリシアは重たげに溜息をこぼしていた。


 その間にも体力は削られて行き、足取りがどんどん重たくなってゆく。

 それと比例するかの如く、降り頻る雪の量がだんだんと増えていくのが手を取るようにわかった。


「……寒い」とフェリシアは、呟いていた。


 ここは冷たくて寒い場所だった。

 ただただ白くて殺風景な、どこまでも凍て付いた場所。


 かつて――

 この国が始まるより昔、氷の女神イスティリアは雪と氷に閉ざされた最北の地で、ただ一人孤独の中に在った。


 誰も居ない、話し相手すら居ない、白いばかりのこの場所で、たった一人で長らくの時を生きていた。


(きっとそれとは、今のようなことを言うのね)


 女神イスティリアは、きっとこんな気持ちだったに違いない。とフェリシアは思っていた。


(自分の身がその場に置かれてみて、やっと初めて真の意味でのその者の立場を理解することができる)


 フェリシアは一歩足を踏み出す。

 手が痺れるようにかじかんでいた。


 いつの間にか強い風が吹き始めており、景色は更なる白へと塗り染められていく。

 吹き付ける風が否応無く衣服越しにフェリシアの体温を奪って行き、フェリシアは、徐々に自由を失っていく自身の体を自覚していた。


 やがてフェリシアは雪に足を取られ、前へと倒れ込んでいた。

 雪に触れる頬が、燃えるような冷たさを体へと伝えてゆく。


 もはや立ち上がることができなかった。


(私はここで死ぬ)とフェリシアは思い、目を閉じていた。


 体を震わせるような寒さが、徐々に遠退いてゆく。


 夢現にフェリシアは昔の出来事を思い出していた。



 フェリシアが準成人を迎える前の年まで、母は生きていた。

 母はいつも微笑んでいるような人で、フェリシアを一度も叱った事がなかった。


 城の中庭を彩るプリムラの花が、母は大好きで、よくフェリシアを連れて一緒に庭の散歩をしてくれた。


 一度フェリシアが間違えてプリムラの花を折ってしまった時、母はこう言った。

「それなら、メイドに話して頂戴。メイドがなんとかしてくれるから、大丈夫よ」


「ごめんなさい」とフェリシアが謝ると、母は相変わらずの優しそうな笑顔を見せた。


「どうして私に言うの。メイドに言いなさい」


 母は優しい人だったが、“メイドに言いなさい”が口癖のような人でもあった。

 結局フェリシアは彼女が病床に就いて死ぬ最後まで、微笑んでいる以外の母を知らないままだった。



 父は厳格な国王で、いつも傍に自分の父親ほども年を取っている関白のラルフを置いていた。

 どうすればグランシェス王国がより良い方向へ行くかばかりを考えており、フェリシアは彼と事務的な話以外をした事が無い。


 父はいつも書斎に篭っている事が多かったから、あまり接点が多いわけではなく、思い出らしい思い出を持っていなかった。



 フェリシアと一番よく話をしていたのは、お付きのメイドのカリーナである。

 彼女はフェリシアが五歳になる頃に遊び相手として中位貴族のヴィステルホルム家から城へやって来た、三歳年上の専属のメイドだった。


 フェリシアはこのメイドと遊んだ思い出が一番多いが、フェリシアが十歳になる頃には勉学の為に自由時間が削られ、いつの間にかカリーナもまた秘書や身の回りの世話係に近い存在となっていた。



 それ以外にもフェリシアに傅いていてくれた家臣は多く居た。

 いずれも父王が雇い入れた召使であり、グランシェスの国民である。


 つまり、フェリシアは――孤独だった。


 誰からも愛された覚えは無く、誰を愛した覚えも無い。


(好きって……なに?)


 フェリシアはそんな風に思うことがたまにはあった。

 でも、それを知らないことは、べつだん大した問題であるとも思えなかった。


(私には既に婚約者が居る。既に定められた未来がある。既に成すべき事は決まっている。だから――)


 それを求める必要など、どこにも無いと思っていた。


 ……誰かに愛されたいだなんて。


(思っていない。期待なんて最初からしていなかったわ。でも、それでも……――)


 この場所は冷たい。


 ――と、フェリシアは思う。


 凍えるようなこの場所が、フェリシアから体温を奪い取ってゆく。


 だからこうして、雪の上に身を横たえ、雪の中へと身を埋もれさせて行く今の姿は――


(私らしいわね)とフェリシアは思っていた。


 これこそがフェリシアの生き様だったのだろう。雪と氷の女神イスティリアの子として、相応しい最期。


 それでも生きたいと思うことはおこがましいのかしら? とフェリシアは思った。


 生きたいという罪深い心があったせいで、三年前だって。

 一人の少年に見つけられて、雪の中から掘り起こされて――


(エーミール=ステンダール……)


 フェリシアが最後に思ったのは、三年前に出会ったあの、灰色の髪をした少年の姿。

 そして、「また会おう、約束だよ」と言って繋がれた、小さな小指の温もりだった。


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