5:死に逝く者
御者が繰る長毛馬は、長らくの間雪原の中を駆け続けていた。
三日三晩走り続けて馬ぞりが向かった先は、北にあるアゴナス地方の中でも更に北。
そこは最北に位置するグランシェス王国の中で、尤も寒い気候を持った場所。
『雪の最果て』とも呼ばれる、世界で尤も冷たい雪に閉ざされたこの土地は、リュミネス山の麓でもある。
やがて御者が馬を止めたのは、うず高く雪が積もっている街道の半ばだった。
「ここまでで良いわ」と、フェリシアが言ったからだ。
「しかし……」
御者は不安げな表情を覗かせながら後ろを振り返る。
屋根のみが掛けられた一人用の小さな馬ぞりの椅子には、彼のかつての主であった者――フェリシアが腰掛けていた。
国王はフェリシアを着の身着のまま城から放り出すつもりだったようだが、有志が集まってフェリシアの身支度を整えた。
その結果、今の彼女は厚手のロングワンピースの上から毛皮のコートとケープを身につけ、毛皮のブーツも履いている。一応は外で活動しても凍えない程度にはしっかりと防寒する事ができていた。
「姫様。せめてウインテルまでお送りさせてください」
御者はそう言ったが、「良いのです」と言ってフェリシアは微笑んだ。
「あまり帰りが遅くなったら、あなたが陛下に叱られてしまいますよ」
「しかし、このような道中に放り出すと、あなた様の御身が――」
「それがどうしたの?」と、フェリシアは言った。
「私は元より死に逝く者。陛下は私を殺そうとしているのよ。これは償いなのです。女神様は私を手に掛け、やっと溜飲を下すことができる。私とは、女神イスティリア様へ捧げる生贄なのです。それならば私はそれらしく、リュミネス山へ向かおうと思っています」
「……!!」
目を見開く御者をよそに、やがてフェリシアは椅子から立ち上がると、自ら馬ぞりから降りていた。
「ここから行った方がリュミネス山へは近い。ありがとうございます、フロル」と、フェリシアは御者の名前を呼んでいた。
「私は死んだと……陛下にはお伝えください」
儚げに微笑むフェリシアの、透き通った銀色の髪が風でなびく。
その余りに美しくそして哀しげな彼女の姿に、御者は思わず息を飲んでいた。
「姫様……」
御者は自然と涙を込み上げさせていた。
「泣かないで」と言ってフェリシアは微笑していた。
「私なんかのために流すには、あなたの涙が勿体無いですよ」
「しかしっ……姫様、姫様……!」
御者はとうとう堪えられなくなって、ぼろぼろと涙を溢れさせていた。
「私は、私にはあなた様を捨て行く事など……!!」
「気にしないで。あなたは陛下に言われて私をここまで連れてきてくれただけなのだから。私が死ぬのも生きているのも、それは女神様の思し召し。……そうでしょう? グランシェスの民よ」
「しかし、しかし……! 私はッ……この日ほど女神様を疎ましく思った事はありません!!」
御者台の上で尚も泣き続ける御者に対して、フェリシアは尚も微笑み掛けていた。
「そんな風に言うものではないわ。さあ、行きなさい。気の変わらないうちに」
「…………」
「行きなさい!」
語気を強めて言われ、やがて御者は涙を拭うと、名残惜しそうにしていたものの、震えた手で手綱を掴んで馬を打つ。
ザッとそりが滑り出し、遠くなっていく馬ぞりの後ろ姿を見送った後、フェリシアはきびすを返して一歩一歩雪を踏みしめながら歩き出していた。
目指す先は――リュミネス山。
世界で尤も凍て付いた場所。
雪と氷の女神イスティリアが鎮座するという、万年雪で覆われた神の山。
既に間近に見える聳え立つ白い山に向けて歩を進めるフェリシアの表情は、小さく微笑んでいた。
しかしやがてそれも消え、フェリシアは唇をそっと噛む。
(大神官様は私に、もう一度大神殿へ来いと仰っていたわね……)
――良いでしょう。と、フェリシアは考えていた。
それが私に与えられた罰というなら――贖罪というのなら。
「……――私はそれを甘んじて受け容れましょう」
フェリシアのその呟きは、凍て付いた空気の中へと消えて行く。
「うっうっ、ううっ……」
嗚咽を漏らす声が続いている。
御者は視界をにじませながら、馬車を繰り続けていた。
手綱を打ち、早く、早く、もっと早く――長毛馬を急き立てる。
気が変わる前に。心が折れてしまうよりも先に。
御者は帰り着かなければならなかった。暖かい地熱で守られたカルディア地方にある、グランシェス城に。
フェリシア姫の喪失を悲しまない者などあの城には居ないだろう。と御者は考えていた。
それほどまでにあの姫は、幼少の頃から優しく気高い性格をしていたからだ。
視界が流れていく傍らで――はらり、はらり。と、雪が降り始めてきた。
まるで白い妖精が舞うかのごとく、その雪は静かにまた大地の上に舞い降りて行く。
「姫様……」
(雪が降る中で大丈夫だろうか?)と、御者は心配していた。
出来れば、あの美しく儚い白い姫が、できるだけ冷たく寒くない場所で最期を迎えられる事を、御者は祈るしかできなかった。
パチパチという薪の爆ぜる音が鳴っている。
「……とうとう行ってしまいましたな」
ふとそう呟いたのは、関白のラルフだった。
「……なにがだ?」
そうやって問い返したのは、ラルフに背中を見せて窓越しに外の雪景色を眺めている、銀髪をした壮年の男。
グランシェス国王のロジオンである。
「フェリシア姫様のことです」というラルフの返事を聞くと、ロジオンはゆっくりと頷いていた。
ここは暖炉の煌々と燃えている暖かい自室の中で、冷たい外気に満ちた外とは正反対である。
アゴナス地方とは、更に寒いと聞く。そんな場所に放り出されて無事に生きていられるはずが無い。
恐らくフェリシアの命は無いだろう。
しかし、ロジオンは後悔していなかった。
「確かに、私にはフェリシアを除いて跡継ぎはいない。しかし――」
ロジオンは振り返るとラルフに目を向け、小さく唇の端を持ち上げた。
「グランシェス王家の血脈を持つ者は、なにもコーネイル家に限られているわけではない。今やその銀髪の血筋は、上位貴族の中においても見られる特徴となっているのだから」
「それでは――」
目を見開くラルフに対して、ロジオンは頷いていた。
「うむ。近親者から養子を取れば済む話だ」と、ロジオンは話していた。
「養子は――そうだな、出来るだけ若く美しい姫が良いだろう。フェリシアの代役を十分に任せられるほどの美少女が良いだろう。そしてその者を改めて、モレク第二王子に輿入れさせる」
国王の話を聞いて、「……なるほど」とラルフは目を細めていた。
「これでイェルド様の面目も立つということですな?」
「その通りだ」とロジオンは頷いていた。
「我々には過去を嘆いている暇など無い。未来を見据え、成していかねばならぬ事が山積しているのだ」
「そうですな」とラルフは頷いていた。
「……しかし、家臣の中にはフェリシア姫の事で胸を痛めている者は多く居るようですぞ?」
ラルフの指摘にもロジオンは動揺した様子を見せない。
彼は本気で、フェリシアの事を憂いていないのだろう。
「仕方あるまい。しかしいずれは一人一人が乗り越えねばならぬ事だ。この国のためにもな」
さらりと答えるロジオンの姿に、(因果な親子だ)と思いながらもラルフは頷いていた。
「……左様で御座いますな」
ラルフの返事を聞いた後、ロジオンは再びラルフから背を向けると窓の方へ視線を戻していた。
「雪が降ってきたな。御者はいつごろ戻るかな?」
「さて……あれから四日が経ちますからな。あと更に四日後には戻るのではないでしょうか?」
「ふむ」と、ロジオンは頷いていた。
「御者が戻り次第、支度を整えねばならぬな。棺を作り、町中にロウソクを立てよう。そして四日の間、黒い衣服をまとうのだ。世間には病死と公表しておけば角も立たぬだろう」
「畏まりました。では、そのように申し付けておきましょう」
ラルフは深々とロジオンに礼をした後、ロジオンの部屋を後にする。
残されたロジオンはこの広い王の間の中で、一人、やがて毛皮のソファの方へ歩み寄っていくと、悠々と腰掛けていた。
「さあ――哀れなかつての姫のために、追悼を捧げよう」
そう呟いたロジオンの表情は、まるで一仕事を終えたとでも言いたげな安堵の様子に満ちていた。




