1:婚礼の日
グランシェス王国の春の風は、冬と変わらない凍て付いた空気をリュミネス山の方から運んでくる。
この年、フェリシア=コーネイル=グランシェスは、十八歳の成人を迎えていた。
準成人の頃から彼女は美しい銀色の髪の姫として評判だったが、成人を迎えた彼女というのは、背こそは伸びなかったものの、無垢で透き通るような印象の中に女性性が湛えられるようになり、益々の美しさを携えるようになっていた。
まさにそれは女神の生き写しとも呼べるほどで、その美しさは諸外国にも知れ渡るほどになっていた。
その顔立ちやきめ細かな白雪のような肌だけでなく、ドレスのシルエットから伺わせるスタイルも、女性らしい膨らみと細さが共存している、小柄ではあれど誰もが羨むような容姿として育っている。
それでも誰からもアプローチを受けないのは、それは彼女には生まれつき婚約者が居るからだ。
「今日はモレク王国の第二王子イェルド様との婚礼の儀式ですね」
そう話しながらフェリシアのコルセットを締め上げているのは、栗色の髪をお団子に結っている、お付きのメイドのカリーナである。
傍らでは暖炉でパチパチと薪が爆ぜ、昼の部屋の中に、灯りと温もりを提供し続けている。
窓の外は雪が降っているが、屋内では冷たさを少しも感じないのは、暖炉の火と、床一面に敷き詰められている絨毯のお陰である。
フェリシアは姿見に映し出される自身の姿を目に映しながら、やがて「そうね」と頷いていた。
(結局、この日まで女神様の加護の消失とやらは起きる気配も見せなかったし……――呪詛らしい呪詛を受けた気配も無い)
フェリシアはホッと胸を撫で下ろしながら、微笑んでいた。
(やはり女神イスティリアの存在は迷信だったのね。当然よ。昔の施政者が人望を得るために考案した存在ですものですもの。誰かがこうやって迷信を破っていかなければ、無駄な慣習は終わらないままになってしまうのよ)
フェリシアはこの日の訪れを欠片も後悔はしていなかった。
何しろ、イェルド王子との結婚は、フェリシアにとっても満更ではない話なのだ。
「そういえば、姫様がイェルド様とお顔合わせをなさるのは今日が初めてなのですね」
ふと、カリーナが言い、「そうね」とフェリシアは頷いていた。
「でも、少しも不安はありません。だって、これまでに幾度も便箋のやり取りをしているし、どんなお人柄かは十分に理解しているつもりですもの。イェルド様はきっと、知的で、品性があって、お優しい方に違いないわ。それに身分も立場も申し分無い。これほど私に相応しい方は他にいらっしゃるかしら?」
フェリシアのそんな言葉を聞いて、カリーナは「ふふ」と笑っていた。
「そうですね。楽しみですね、王子様とお会いできるのが」
「ええ」とフェリシアは頷いていた。
何の不安も無かった。
何の心配も無い筈だった。
フェリシアはカリーナに付き添われ、式場である儀礼の間へと足を運ぶ。
「姫様、足元にお気をつけくださいませ」
カリーナに言われ、「ありがとう」とフェリシアは微笑みかけ――そしてふと顔を廊下の先へ向けた時、気付いたのだ。
青と白の祭服を身につけた白髪の小柄な老人が、儀礼の間のドアを開けて入って行く。
三年前の出来事が、ふと――胸のうちを走った。
「…………」
思わず足を止めるフェリシアの方を、カリーナは不思議そうな表情をして振り返る。
「……姫様? 如何されましたか?」
カリーナに質問され、フェリシアは慌てて首を横に振っていた。
「い……いえ。なんでもありません」
答えてから気を取り直して、儀礼の間へと向かうことにした。
そうしながら、(……気のせいよね?)と考える。
(ここは首都シンバリだし、シンバリには女神イスティリア様とアトミス神を奉る大きな神殿があるし……神官様も、そちらの方からお呼びするとお父様が仰っていたはずだし……)
フェリシアは足を進めていた。
そうして儀礼の間へと続く扉の前に立つと、そっと手を伸ばす。
そう、気のせいに違いないのだ。
――この先で、リュミネス山の大神官が待っているなんてこと。
気のせいに決まっている。
幾つもの柱で支えられた、石造りの広いホールでは、大勢の来賓たちが主役の登場を待ちわびていた。
いずれも豪華絢爛なドレスや礼服に身を包み、フェリシアの登場を目の当たりにすると、拍手で迎え入れてくれる。
ここでフェリシアに目を向けている彼らは全員、諸外国から呼び寄せた王侯貴族である。
彼らは皆、今日この日、グランシェス王家とモレク王家の婚儀を一目見るために、各地から集まってくれた来賓たちなのだ。
フェリシアがゆっくりと歩を進めていった先には、礼服を身につけマントを羽織った青年の姿があった。
金色の髪と、爽やかなグリーンの瞳をした、整った外見をした長身の若者。――彼がモレク第二王子であるイェルド=ヴァルストン=モレクなのだろう。
「お待ちしておりましたよ、姫」
恭しく腰を折り、イェルドはフェリシアに一礼の後、彼女のそのたおやかな手をそっと取っていた。
「参りましょう」
イェルドに微笑みかけられ、フェリシアもまた笑顔を向ける。
ここに居る誰もが彼らのことをお似合いの夫婦になると感じ取っただろう。
フェリシアとイェルドは手を取り合って、儀礼の間の奥へと進んで行く。
その先には祭壇があって、右手の玉座にはモレク王が、左手の玉座にはグランシェス王が腰掛けていた。
そして祭壇の前には、青と白の祭服をまとった、小柄で白髪の――大神官が振り返り、二人ににこりと微笑みかけてきたのだ。
「……――」
フェリシアは声を詰まらせていた。
そんなフェリシアに気付いているのかいないのか、大神官は二人に祝辞を述べ始める。
「此度はグランシェスとモレクが結び付くめでたい日――それは氷の女神イスティリア様と、戦神ダンターラ様の輿入れさながらですな」
「これはこれは、大神官様」と笑いかけたのはイェルドだった。
「この度はわざわざリュミネス山から出向いて頂き、ありがとうございます」
「いえいえ、王家同士が結婚なさるのです。せっかくお呼び頂いた以上、祝いに出向かないわけにはいきますまいて」
和気藹々とイェルドと大神官が言葉を交わすのを見て、フェリシアは呆気に取られていた。
「……イェルド様。大神官様とお知り合いなのですか?」
「いいえ。ですが、私がグランシェス王家の一員として受け入れてもらう以上、女神イスティリア様にも受け入れてもらわねばなりません。その為にも最上級の礼を尽くしたいと思いまして、……それで今回は、私の勝手な独断で呼ばせていただいたのです」
イェルドはそう言ってにこりとフェリシアに笑いかける。
「…………」
フェリシアは無言になると、大神官の方をじっと見ていた。
すると大神官と目が合い、彼はフェリシアに微笑を向ける。
(……覚えていないわけがないわよね? 三年前、婚約を破棄しろと神託をした事を……)
無かったことにするつもりなのかしら? と、フェリシアは思った。
そしてその通り、大神官はやがて祭壇の方を向くと、格式張った祝辞の言葉を語り始めた。
「かつて――グランシェス王国が始まる頃、雪と氷の中、女神と始まりの王は永遠の愛を誓い合いました。その血脈が代々続き、親から子へとその愛と精神が託されて行き、そして今の繁栄が築き上げられて行ったのです」
大神官は振り返ると、王子と姫を見ていた。
「今あなた方は女神イスティリア様を目の前にして、誓わなければなりません。その代々告がれてきた純愛を以後も保って行くと、グランシェス王族として相応しくあり続けると――約束せねばなりません。ここに、この杖に――」
大神官は手に持っていた樺の杖を高らかと掲げていた。
そうしてイェルドの方へ杖を傾け、それからフェリシアの方へ杖を傾けようとして――
「……――誓うことができませんな」と、大神官は言った。
「…………」
沈黙するフェリシアに、大神官は話しかけるようになる。
「三年前、女神イスティリアは仰られた。契約によって、汝の運命は定められている」
「…………」
フェリシアは沈黙を保ったまま、唇を噛み締めていた。
そんなフェリシアの目をじっと見据えながら、大神官は改めて。
「契約によって、汝の運命は定められている」
その言葉を繰り返す。
――それはフェリシアが尤も恐れていた言葉だった。
ざわっと会場が徐々にざわめき始めている。
何か様子がおかしいということを感じ取り始めたのだ。
そしてそれは傍らの玉座に腰掛けているグランシェス王にも伝わっていた。
「なんだ……? 一体どうしたというのだね?」
立ち上がったグランシェス王に答えないまま、大神官は尚もフェリシアに向かって言った。
「契約によって、汝の運命は定められている。――お分かりですな、プリンセス・フェリシア=コーネイル=グランシェス様?」
大神官の声に、やがてフェリシアは観念した様子で項垂れると答えていた。
「……――はい」と。




