17:女神の神託
イスティリア大神殿――
そこはアゴナス地方の最北、万年雪に閉ざされたリュミネス山の山頂に聳え立つ。
その、石造りの大きな神殿の奥には、何百人もの人数が収容できるであろう広い大広間が存在する。
今、フェリシアを先頭にした巡礼団の一行は、大広間へ向かって真っ直ぐに伸びる広い廊下を、大神官の後に続く形で歩いていた。
フェリシアの前をゆっくりと歩いている、長い樺の杖を手にした青と白の祭服に身を包んだ白髪の小柄な老人こそが、大神官である。
イスティリア大神殿はいつの時代に造られたのか、わからないほどに古くから存在する建築物である。
所々欠けて年季の入っている廊下の壁には、すっかり薄くなってしまってはいるものの、大きな竜のレリーフが続いているのを見て、フェリシアは訝しく思っていた。
他のどの神殿でも竜のレリーフなど見た事が無い上に、女神イスティリアの神話においても、竜という存在は聞いた事が無かったせいだ。
「……――この、壁画は一体?」
フェリシアの疑問に、その小柄な背中をした大神官は、先頭を歩きながら振り返らずに答えた。
「古竜――と、先代からは聞き及んでおります」
「古竜……聞いた事がありません」
フェリシアの言葉に、「左様で御座いましょう」と大神官は頷く。
「私も、先代も、その先々代も――聞き及んだ事がないのです。といっても――そういえば、似たような物がイド村にはあったかもしれません」
「イド村に?」
その時、大神官が足を止めた。
目の前には両開きの大きな石の扉が聳え立っている。
「さて――余談はここまでです。これより先は女神イスティリア様がご光臨なさる、神聖な間……儀式へと参りましょう、プリンセス・フェリシア様」
そう言って大神官はその大きな扉を押し開いたから、フェリシアは口を噤んでいた。
大広間の突き当たりに立っている、雪熊に乗り、杖と鏡を手にしている長い髪の女性の石像――それこそが、氷と雪の化身である、女神イスティリアの御姿であると云われている。
その像の足元にある祭壇の前に立つと、大神官は女神イスティリアに向けての長々とした祈りの言葉を捧げるようになった。
彼のすぐ後ろに立つのは、毛皮で防寒されている白いドレスに身を包んだ銀髪の若い王女フェリシア=コーネイル=グランシェスである。
広間の後方には、ずらずらと巡礼団の面々が立ち並んで、ちょうど今、大神官が唱えている有り難い祈りの言葉に聞き入っていた。
やがて大神官が、祈りの言葉を終えたようで、フェリシアの方を振り返る。
「グランシェス第一王女、次期女王たるイスティリアの子、フェリシア=コーネイル=グランシェスよ。今、汝に女神より加護の祝福が降り立った」
仰々しい台詞を吐きながら、手に持った長い樺の杖を掲げる大神官の前に跪きながら、フェリシアは半ば冷めた気持ちを覚えていた。
(格式張った儀式。お父様も同じような言葉を承ったと聞いたわね……)
それでも仕事と割り切って、フェリシアは両手を組み頭を下げる。
そんなフェリシアの頭上に大神官は杖の先端をゆっくりと降ろして行く。
「今ここに、女神からの祝福が――そして、神託が下され給う。心して聞きなさい」
大神官は杖の先端でフェリシアの頭頂部に軽く触れた後、改めて掲げなおしたから、フェリシアは顔を上げていた。
そんな彼女の目の前で、大神官が高らかと神託を語り始める。
「女神イスティリア様は仰られている。ここにグランシェス王族として、三つの誓いを立てなさい。一つは、民を飢えさせないこと。一つは、王族として相応しい立ち振る舞いを保つこと。そしてもう一つは、女神イスティリアへの信仰を怠らないこと」
「もちろんです、我が大いなる母、イスティリア様」とフェリシアは答えていた。
これも予定調和の台詞である。
「宜しい」と、大神官は頷いていた。
「それでは、……――それでは――」
「……?」
フェリシアはキョトンとして大神官を見ていた。
このまま儀式は終わると思っていたのだが……――大神官はしばらくの間目を丸くしていたかと思うと、やがてまた話し始めた。
「……女神イスティリア様は仰られている」
まだあるの? と、フェリシアは思った。
そんなフェリシアに対して、大神官が話したのはこんな内容だった。
「モレク王国の第二王子たる、イェルド=ヴァルストン=モレクとの婚約を破棄しなさい」
途端――
ザワッと、広間中の巡礼団の面々がざわめき立つようになる。
どういうことだ?
婚約破棄って……どうなっているんだ?
ざわめき立つ臣下たちの声を背後に聞きながら、フェリシアは血の気が引いて行くのを感じていた。
まさか。
――まさか……。
フェリシアの目の前では、尚も大神官が語る。
「契約によって、汝の運命は定められている」
まさか。まさか、まさか――。
どくん、どくん。と、胸が脈打つフェリシアの前で、大神官は驚愕に目を見開いた表情を浮かべたまま――フェリシアに言った。
「エーミール=ステンダールこそが汝の伴侶たる者。契約によって、汝の運命は――定められている……」
大神官の赤茶色の瞳が、驚愕に見開かれたまま、ジッとフェリシアの青い目を見つめている。
フェリシアもまた目を見開いていた。
(嘘……――なによ、それ)
フェリシアの後ろで、一層巡礼団の面々がざわめき立った。
エーミールって誰だ……?
あれだ……イド村の子供だ!
次の瞬間。
「静まれッ!!」
怒声を張り上げたのは団長のパトリックだった。
今の声で、ざわめき立っていた彼らはぴたりと静かになる。
眉間に深い皺を刻み込みながら、そんな彼らにパトリックは言っていた。
「今は大切な儀式の途中であるぞ! 無駄話をするとは何事か!」
(……無効じゃないの?)
大神官に見つめられながら、フェリシアは呆気に取られていた。
(だって、アレは、事故だったのよ?! アレが無ければ、私は死んでいた。なら、どうすれば良かったというの?!)
黙りこむフェリシアの目の前で、やがて大神官はゴホゴホと咳き込んだ。
「……それでは、神託を終えます」
大神官が背を向けると、この場にはしばらくの間重苦しい沈黙が横たわるようになる。
「…………」
青ざめた表情のまま微動だにしないフェリシアの元に歩み寄ったのは、パトリックだった。
「姫様。これはどういうことですか?」
「…………」
「あの声も変わらないような子供が、姫様に対して何かをするような歳とは思えない。ならば――姫様、あなたは……――」
「ちっ――違うわよ!!」
それだけは誤解を解いておきたくて、慌ててフェリシアは立ち上がっていた。
「私は何もしていない! 子供を手篭めになんてするわけがないでしょう?! 一緒に滞在していたのだから、カリーナだって、知っていますよね?!」
フェリシアに話をふられたのは、列の後ろの方に控えていたメイドのカリーナである。
「そ、そうですね……」
カリーナは自信無さげに答えていた。
一緒に滞在していたと言ったって、カリーナは大半をエーミールの母の手伝いに費やしていたのだ。
フェリシアがあの少年と二人きりになる時間は、十分すぎるほどにあった筈で……。
「…………」
沈黙を始めるようになったカリーナの姿を見て、フェリシアは失望していた。
(まさか、誰も私の事を信用してくれていないの……?!)
「とにかく……姫様」と、深刻な表情で話し掛けてきたのはパトリックだった。
「あなたが何をされていようと、或いは本当に何も無かったのであろうと、関係はありません。これは……重大な事ですよ、プリンセス・フェリシア様。モレク王子との婚約破棄。そんな事を、国王が……ひいてはモレク王国が、許されるわけがない」
「わ……わかっているわ。……わかっております」
フェリシアは背中を向けている大神官を睨み付けていた。
そんなフェリシアをよそに、パトリックは改めて巡礼団の面々に視線を戻すと言っていた。
「あー……今聞いた話は、決して口外してはならぬ! もし口外する事があれば……わかっているな? 私が手を下さずとも、お前達一人ひとりに責任があるものとして、我々は皆処刑されてしまうだろうな……。こればかりは一蓮托生だ。大体、フェリシア様がそのような、ふしだらな御方では無い事は誰もがわかっている筈だ! これは何かの間違いに違いない! そう、女神イスティリア様の……何か、何か思惑があるのだろう」
「…………」
背を向けたまま沈黙を続けている大神官を、フェリシアはじっと見ていた。
「後の事は我々の話である。明日からは強行軍がまた始まるぞ。本日は部屋に戻り、ゆっくりと休息を取りたまえ! そしてあった事は忘れ去るように。わかったな?」
パトリックのその言葉で、巡礼団の面々は解散する事になった。
この場に残されたのは、パトリックとフェリシアとカリーナ、それに大神官のみとなる。
「大神官様」とフェリシアは話し掛けていた。
「何故、このような神託を告げたのです? 何故、このような神託が下ったのです?」
するとやがて大神官が口を開いた。
「わからぬ……わかりませぬ。私はただ、女神イスティリア様が下されるものを伝えるだけなのですから」
「何故、エーミールなのです? 何故……この私の相手が、あんな庶民の……田舎者の……!!」
取り乱し始めるフェリシアの姿に、慌てて駆け寄ったのはカリーナだった。
「フェリシア様、落ち着いてくださいませ!」
強い口調で言われ、フェリシアはやっと声を抑えていた。代わりに、はぁはぁと浅くなった呼吸を繰り返す。
「わ、私、何もしていません。何もしていない……本当に、本当なの」
「ええ、わかりました。わかりましたから……姫様」
カリーナは同情するような表情になって、フェリシアをギュッと抱き締めるようになる。
「…………」
パトリックは溜息を付いていた。
「姫様。今後の事は、客間の方で相談致しましょう」
パトリックに話しかけられ、フェリシアは青い顔のまま頷いていた。