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7:世間体

「ああ、ひどい目に遭った……」


 エーミールはため息をつくしかなかった。

 エーミールが目を覚ました時、医務室のベッドに横たわっていた。

 そんなエーミールに、一足先に目を覚ましていたエリオットは謝ってくれたが。せっかくの温泉が台無しである。


 エリオットは何故かわからないが、エーミールのことをえらく気に入り、気に掛けるようになっている様子だ。

 謝罪の後雑談が入り、その後、「あいつは恩知らずだ」「あいつは冷たい」等とフェリシアの悪口を一通り吐き捨てた後、「何かあったら、俺に言ってくれよ!」と肩を叩いて立ち去った。


「う、うん。ありがとう……」


 エーミールはお礼を言いながら見送ったが、内心思っていた。


(多分、これもフェリシアの作戦なんだよな……)と。


 どうにも彼女は、他人の前において、エーミールを冷たくあしらおうとしている様子に見える。

 とは言え、ほとんど話す機会が無いから、彼女の真意を聞く機会など無きも同然なのだが……。


(前のフェリシアは、あれほど素直でわかりやすい人は居なかったけど。今のフェリシアは、何を考えているのか……時々わからなくなる時がある。多分、本質は変わらないんだろうけど……)


 そうは考えたものの、今はそれを考えている時ではないだろう。

 暖炉の明かりによって明るいこの部屋ではわかり辛いものの、気付けば、知らない間に就寝時間が間近に迫っている様子だし。


「僕もそろそろ寝ないとな……。ああ、温泉入りたかったんだけど」


「――だったら」と声を掛けてきたのは、どうやら今の呟きを聞いていたらしい、医務官の女性だった。


「今からでも浴場へ行って来ても良いんですよ。浴場は二十四時間開放されていますから」


「えっ、そうなの? 良いの?」


 だったら話は早いと思って、エーミールは腰掛けていたベッドから立ち上がっていた。

 そんなエーミールに、「浴場の場所はわかりますか?」と医務官が質問してくる。


「うん、大丈夫です。パトリック騎士団長に教えてもらってあるから」


 そう断った後、エーミールは医務官に改めてお礼を伝えてから、医務室を後にしていた。





 王の浴場では、フェリシアがたった一人湯船に身を沈めていた。


「皆で入るお風呂も良いのだけれど」


(やっぱり、一人で入るお風呂も良いわね)


 そう思いながら、湯船の淵に両腕を乗せて、ボーっと目を閉じる。

 フェリシアには就寝の前に一人で入るという習慣が、昔から存在しているのだ。


(人と一緒だと、なんとなく落ち着かないというか……)


 カリーナが落ち着かない主原因であるとはフェリシアは気付いていなかった。

 とは言え、それだけが原因ではない。フェリシアには幼少期から他人の前では気を張る癖があるから、本当の意味で弛緩する事ができるのは今ぐらいなのだ。


(こうやって、だらける事が許されるのも今くらいのものよね)


 そう考えながら、温泉を堪能していると。


「うわ、すごいなあ!」


 そんな声が聞こえてきたから、フェリシアはビクッとしていた。


(え。こんな時間に人が?)


 そうは思いながらも、慌ててフェリシアはそっと湯船の奥まで移動すると、滝のように温水が注ぎ込まれている注ぎ口の柱の後ろ側に身を隠していた。

 誰かにこんなだらけている姿を見られてはいけないと、咄嗟に思ったせいだ。しかし間もなく肝心な事に思い当たった。


(いえ……ちょっと待ちなさい。ここ、王族専用よね。むしろ何者?)


 考え込んだ面持ちになってフェリシアが口元に手を当てているうち、また声が聞こえてくる。


「……あれ? ここって、こんなに豪勢だっけ……ま、いいか」


(まあいいかって……少しは考えなさいよ)


 そう思いながらも、どうやら物音的に何者かは身を清め始めた様子だったので、フェリシアはそっと伺っていた。

 その聞きなれた声によって薄々誰なのか、目星はついていたものの。


(ああ……やっぱり)


 洗い場に居る人物の背中を見て、フェリシアはため息をつきたい気分になっていた。

 そこではエーミールが、鼻歌を歌いながらごしごしとタオルで背中を洗っている途中だったからだ。


 フェリシアは改めて柱の後ろ側で膝を抱えると、口元まで湯の中に沈めながら考え込んでいた。


(悲鳴を上げる? ……いえ、待ちなさい。ここで万が一エーミールに悪評が立ってみなさい。人心を得るどころの騒ぎではなくなってしまう。むしろこの状況、処刑よ。火あぶりか打ち首にせねば民は納得しなくなってしまうわ。――としたら、ここは穏便に済まさなければならないわね……)


 フェリシアは、ここで感情のまま動けない自分が嫌になりながらも、尚も考え込んでいた。


(……とすれば、このまま隠れていて気付かせないまま出て行ってもらう? 待ちなさい、誤解を与えたまま野放しにするの? 自ら王族の浴場に入ったと白状しかねないわよ、エーミールの性格じゃ。それはそれで悪評が……)


 とすると、ここでなんとか穏便に説明するしか……そうやって考え込んでいるうちに、どうやらエーミールは身を清め終えたようで、湯船の中に入ってきた。


「ふああー……気持ち良いな。僕って、こんな場所に飛び込ませられて頭打ってさっきまで気絶してたんだよな……損した気分だ」


 独り言を呟きながらエーミールがざぶざぶと奥まで進んできたので、(何故こちらに来るの!!)とフェリシアは焦っていた。


「こんなに広い浴場が独り占めなんだもんな。ここはこうするしかない! 泳がないと損だ!」


 エーミールは意を決すると、悠々とあちこち移動を始めるようになった。

 泳ぐといっても、北領に泳げるような場所は無いため、エーミールはバタ足も犬かきすらも知らないから、手を突いて移動する程度であるが。


(何を子供じみたことを……)


 フェリシアは頭を抱えていた。

 そして、王の経験をしたと言っても、エーミールはエーミールね。としみじみ考えていた。


 しかしそうやって考え事をしている間にも、エーミールが近付いてくる。


「っ……――」


 フェリシアは慌てて両手で口を塞いでいた。


(れ、冷静になりなさい、私! 冷静に……!)


 心臓がバクバクと鳴りながらも、フェリシアはやっと声を発していた。


「ま――待ちなさい、エーミール」


 それでようやくエーミールの動きがピタッと止まったのだ。


 あれ? という表情をしているエーミールは、未だに状況がよくわかっていないのだろう。


 そんなエーミールの方へ、注ぎ口の柱の陰から真っ赤になった顔を覗かせながら、フェリシアはぼそぼそと言っていた。精一杯、声が震えるのを抑えながら。


「あ、あの。あなた、入る場所、間違えてる……」


「えっ?!」


 エーミールはフェリシアの存在にやっと気付き、目をこれでもかというほどに見開いていた。――そして。


「わ――」


「っ――エーミールが悲鳴を上げる方?!」


 フェリシアは咄嗟に飛び出していた。

 グッと手で口を塞がれ、途中でエーミールの声はくぐもりそして掻き消える。


「叫ばないで。口を閉じて、今すぐに!」


 潜めた声でフェリシアは言うが、その時にはエーミールに体を押し付けている状況になっていた。

 片手で口を塞ぎ、もう片方の手はエーミールの後頭部に掛けられている。そしてフェリシアの柔らかな双丘が、ギュッとエーミールの胸板に押し付けられていた。


 その状況でフェリシアがエーミールの耳元に囁きかけてくる。


「良いから……落ち着いて。声を出してはダメ。この状況を第三者に知られてはいけないわ。良いから……静かにしてください」


 そうは言うものの、声が震えている。それだけでなく、押し付けられている胸から早鐘のように打つ心音が伝わってくる。

 エーミールが頷くと、ゆっくりとフェリシアが手と上体を離すようになるが、目が合うと、泣きそうな表情をしているのがわかる。また、よほど恥ずかしいようで、耳まで真っ赤に染まっていた。


 すっかりカチコチになって言葉を失くしてしまったエーミールに、「そのまま、背を向けて。こちらを見ないで」とフェリシアが静かな声で言う。

 エーミールはその通りにした後、耳まで真っ赤になりながら慌てて口を開いていた。


「あ、あの。ごめん……」


「…………」


 沈黙するフェリシアに、「――でも」とエーミールは話を続ける。


「どうしてフェリシアがここに居るの? ここって、兵士用の浴場だよ?」


「……エーミール。あなた、この期に及んでまだ気付かないの? ここは王族用です」


「え――」


 ええっ?! と驚きの声を上げそうになったエーミールの口が、また塞がれていた。

 今度は背中に蕩けそうに柔らかい感触が伝わってきて、エーミールは赤面していた。


「どこまであなたは迂闊なの、エーミール……」


 口を塞いだまま、フェリシアはため息を吐き出していた。


「前々から思っていましたけれどね。あなたは素直と言いますか……無邪気と言いますか。とにかく、天真爛漫に動きすぎです。いえ。それが悪いとか、嫌いとかではないのよ? でも、こちらとしてはもう少し、周りの目を考えて行動してほしいの。あなたは自分の立場を考えたことがあるのかしら? 庶民から王族へ。これがどれだけ大変な事であるかわかっている? せっかくアレコレとこちらが配慮をしても、当の本人がこれでは……ああ、先が思いやられる……」


 それからフェリシアはやっと手と体を離したので、エーミールはため息をついていた。


「その……ごめん。そりゃ、フェリシアだって僕の事が嫌になるよね?」


「えっ?!」とフェリシアは動揺した声を上げていた。


「い、嫌だなんて、誰も言っては……」


 そう言いながらも、エーミールから背を向けて膝を抱えるフェリシアに対して、「でも」とエーミールは言っていた。


「あまり会話する機会が無いし。一人であれもこれも抱えてばかりで、それだけでも辛いだろうに、むしろ僕の事すらも抱えようとして。フェリシアはちっとも僕に甘えようとしない。……僕ってそんなに、頼りないかな?」


「……エーミール」と呟いて、フェリシアは困惑した表情を浮かべていた。


「あなたはそれほどに、子ども扱いする事が好きなの?」


 フェリシアの質問は予想外だったため、エーミールは苦笑いしていた。


「そんな事は無いつもりだけど。いい加減、僕だってキミが元通りじゃないって理解はしているよ。キミはもう子供じゃない。しっかりしていると思うし、誰よりも大人びている」


「そう思うなら、甘えられないとわかっているでしょう?」


「それは……そうだけれど。でも、心配なんだよ。いつかキミが潰れやしないかって……」


 エーミールの気持ちを知って、フェリシアは思わず笑みを浮かべていた。


「……大丈夫ですよ。私はもう“女王陛下”なのですから、上手くやってみせる。だから甘えなくても大丈夫。これ以上、あなたに対して、あんな恥ずかしい姿は見せられませんから」


「でも」


 エーミールは素直に頷く気持ちになれなかった。彼女が無理をしているという事がわかっていたせいだ。


「エーミール、くどいですよ。世間体も身分もある身ですから。甘えられないんです。わかっているでしょう?」


「……でも」


 エーミールはそれでも納得することができなかった。


(その抱えている荷物の一部を誰かに預けるぐらい、やったって構わないじゃないか)


 そう感じ、疎外感を覚えるエーミールに向かって、「さあ」とフェリシアが口を開く。


「もう話は終わりましたね。ならば出て行きなさい、誰にも見つからないうちに」


 フェリシアがそう言ったため、エーミールはやがて頷くと、改めて「ごめんね」と謝った後、この場を後にしていた。



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