8:貴族の権威
また貢租が上がった。
「はあー……どうしたもんかな……」
そう呟いて頭を抱えるのは、ヴィンセント商店の店主ヴィンセントである。
カウンター代わりの木箱の上にメモを置いて、羽ペンを走らせている。
「あいつに対してはこれ以上、値下げを頼むのも心苦しい……。しかし、今の値段じゃ、もう誰もうちの品を買えやしないぞ……」
その時、ドアを開く音が聞こえたから、ヴィンセントは顔を上げていた。
「ああ、待ってくれ。今はまだ準備中で――」
ヴィンセントは言葉を途中で止めていた。
そこに立っていたのはカイと、傍らには、見掛けた事の無い上等の服を着た老人が立っていたからだ。
……いや。どこかで見たような……。
(はて……)
ヴィンセントが首を傾げるうち、カイと老人が歩み寄ってきた。
「やあ、ヴィンセントさん。悪いな、こんな時間に。邪魔なら後でまた来た方が良いか?」
カイは普段通り話し掛けてきたため、慌ててヴィンセントは頷いていた。
「あっ、ああ。いや、あんたなら構わんよ。ところで、……そちらの方は?」
ヴィンセントの質問に、カイはにっこり微笑んでいた。
「なに、気にしないでくれ。今日は珍しく主君が僕の仕事ぶりを見たいと仰るからお連れしただけだ」
「主君?」と聞き返しながら、ヴィンセントは首をひねっていた。
(はて。だったら、カイの上役ということか? そうか。カイは、あれだけの量をコンスタントに仕入れるルートを持っているんだ。大型の商会に属していてもおかしくはない。しかし、変わった呼び方だな)
そう思い直すと、ヴィンセントは気を取り直して改めてカイと向き合った。
「せっかく、来てくれて悪いんだがな……カイ、貢租がまた上がった事は知っているか?」
「いや、僕は仕入れで奔走している事の方が多いからね……しかし、またなのか?」
「ああ、またもまたなんだよ」と言って、ヴィンセントは深刻な表情を浮かべるようになった。
「これまで、貧しくなってもこの町の人々が暮らせるようにと、俺は安売り主義を通してきた。それに共感して、雪なんかと引き換えに安くで卸してくれていたんだから、カイ、アンタはすごく良いヤツだよ。俺は心から感謝している。でも、そろそろ限界かもしれん」
頭を抱えるヴィンセントの姿を見て、カイは身を乗り出していた。
「大丈夫か? 何が限界なんだ? なんでも僕に言ってみてほしい」
「いや、幾らなんでも悪いよ」
ヴィンセントは力なく首を横に振っていた。
「自分でもわかっている。これ以上値段を下げてくれなんて、世の中にそれほど都合の良い話は無い」
ヴィンセントの言葉を聞いて、カイは目を見開いた後、腕組みをするようになった。
「…………うーむ……」
唸るカイに、ヴィンセントは申し訳なさそうに笑う。
「良いんだ、気にしないでくれ。さすがにカイの所でも無茶苦茶だと理解しているよ」
「……そうだな……」
カイはため息をこぼしていた。
「あの値段が僕たちとしても、一杯一杯の譲歩でね。実は気付いているか知らんが、ここ最近、ヴィンセントさんとのやり取りじゃ利益を出せないんだ」
「ああ、ああ。わかっている。本当に、申し訳が無いことをしている」
項垂れるヴィンセントの姿を前に、カイはチラッと傍らの老爺フリストフォンへと視線を向けていた。
フリストフォンはムッとした表情を浮かべたものの、それも束の間で、ため息の後、一歩前に歩み出ていた。
「カイ。この人に卸してやりなさい」
「はっ?! でも……」と、カイは驚いた様子でフリストフォンの方へ振り返った。
フリストフォンは首を横に振っていた。
「今は誰もが苦しい時期だ。今こそ助け合わなくてどうするのだ?」
「それは……。確かに、私は主君のそのような思想に憧れて、あなたの元に就きました。ですが、幾らなんでもそこまでの事をなさると、自分の首を絞める事になるのでは?」
「そのような事に構っていては、モレク人の思う壺ではないか。やつらは、我々をじわじわと殺そうとしているのだぞ。やつらの殺意を感じ取れぬか? ……まさかお前、これまで、これほど困窮した町を見て、金を取って卸していたとでも言うのではなかろうな?」
「えっ……?」
動揺した声を零すカイを、「馬鹿者!」と言ってフリストフォンは叱り飛ばしていた。
「この町をよく見ろ! 贅沢者のモレク人の姿は無いではないか! 豊かなモレク人街からは兎も角、私はな、困窮したグランシェス人から利益を上げても良いとは言っておらんぞ!」
「で、ですから、利益を上げてはいません」
ムッとするカイに対して、「そういう意味ではない!」と言った後、フリストフォンはヴィンセントの方へと目を向けていた。
ヴィンセントは呆気に取られたような面持ちで、二人のやり取りを見ていた様子だったから、フリストフォンは「悪かったな」と話し掛けていた。
「うちの者が勝手な間違いをして、しばらくの間、苦しい思いをさせてしまった」
フリストフォンはヴィンセントに対して頭を下げた後、優し気な笑みを浮かべていた。
「これからはキミの元へ、無料で卸させてもらおうではないか。代わりにキミは、町の者に対しても無料で配ってやってほしい。キミは信用の置ける男だとカイから聞いている。頼めはしないかね?」
フリストフォンから向けられた質問に対して、ヴィンセントは慌てた様子で大きく首を横に振った。
「ととと、とんでもない! あなたは、あなたの所の商人がどれだけの物を卸してくれているか、知らないから言えるのでは? カイは十分に良くやってくれていますよ……!」
「それはそうだろうとも、辺鄙な下位貴族といえど、カイは貴族の家名だって持っているような男だ。私にとっても信頼している。だからこそ、アスターの町を任せても良いと思っていたのだ」
「アスターの……? 失礼ですがあなた、どちらの貴族の方で?」
ヴィンセントの疑問に、フリストフォンは「これは失礼」と答えていた。
「紹介が遅れたな。私は、フリストフォン=ドーシュだ。そう、あなたも知っているだろう。そうだとも、この町で一番大きな館に住んでいた。といっても――私は日頃から仕事に奔走するのが趣味のような者でね。あまり町へは帰らなかったから、私の姿を見たことは無いのではないかな?」
フリストフォンの言葉を聞いて、ヴィンセントは目を大きく見開くようになっていた。
「なっ――ど、ドーシュですって……?! ならばあの、養子へ行ったフレドリカ公の……――」
「ああ。仕事で忙しく、家族は誰もあの子には手を割けなかったからね。だから養子へやったのだが――」
その辺りでフリストフォンは言葉を止めたから、カイは「……主君」と呟いた。
「あ、ああ」とフリストフォンは頭を横に振ってから、改めてヴィンセントの方へ目を向けた。
「とにかく、世間はこのような状況だ。モレクの施政者は宛てにできぬばかりか、我々から搾取する事ばかりを考えている。それはあなたも、みるみると上がって行く貢租によって、痛いほど実感しているのではないかね?」
フリストフォンから向けられた疑問に対して、ヴィンセントは項垂れるかのようにして頷いた。
「……その通りです。しかし公に不平不満を口にすれば、反乱分子と見なされてしまいかねない。生活が保障されるなら、お上が誰だろうが構わないと……俺たちはそう思っていた筈です。その筈なんです、ですが……――」
沈黙するヴィンセントの姿に、フリストフォンは聞いた。
「……――そうではないと感じるのだな?」
念押しするかのような疑問に、やがてヴィンセントはゆっくりと頷き、それから潜めた声で打ち明け始めた。
「……生活が違いすぎます。以前は贅沢こそできないと言えど、暮らしは回っていたんです。雪のせいで働ける日は少ないが、分相応に暮らしていれば、不自由無く生きていけたし、誰もがのんびりとしていた。新しい王様は、その暮らしの続きを保障してくれると言うから、俺たちだって何も言わないんだ。しかし……――」
「……その保障は遂行されていないな」
フリストフォンの指摘に、ヴィンセントは頷いていた。
それからすぐにヴィンセントは顔を上げると、フリストフォンのことをじっと見据えたのだ。
「お願いします、貴族様!」とヴィンセントは叫んだ。
「俺たちの暮らしを、なんとかしてください! お願いします……!」
「ああ、もちろんだとも。そのためにこれまでもカイを寄越していたのだろう?」
フリストフォンの答えに、ハッとしてヴィンセントはカイへと目を向けた。
「そうか……カイ、あんたがやたら安い値段で卸してくれていた理由が、これでやっとわかったよ。それに、秘してほしいとずっと話していた理由もな……」
「まあな。ドーシュ家の主が生きているとモレクに知れたら、僕たちの主君が殺されてしまいかねないからね」
「そうだよな。まさか、ドーシュ家のルートを使って仕入れをしていたとはな……」
ヴィンセントはしみじみと言った後、項垂れていた。
「……戦の後、俺たちは貴族は皆逃げてしまったと思っていたんだ。しかし、違ったのか。俺たちの暮らしを案じて、こうして秘密裏に奔走してくれるような方がおられたんだな……」
涙ぐむヴィンセントに、フリストフォンは優しく話し掛けていた。
「安心しなさい。信用ならないモレク人に変わって、私たちが暮らしの保証をしよう。しかし、この事は決してモレク人に知られてはならないぞ。そうなれば、私が隠し持っている私財が暴かれてしまい、私自身も殺されてしまうかもしれないからな……」
潜めた声で念押しをするフリストフォンに、「はいっ、もちろんです!」とヴィンセントは大きく頷いていた。
「俺は、誓いますとも! 命に掛けても!」
「ああ、信じているよ」とフリストフォンは頷いた。
そんな彼らのやり取りを目にして、カイは満足げにほくそ笑むのだった。




