美ヶ原の自問
アリスが改めて用意してくれた青いワンピースを身につけ、わたしは楼珠さんと一緒にダイニングに戻った。既に食器類は片づけられており、テーブルの上のみならず空間そのものが閑散としている。そこには早くも夕飯の仕込みをするアリスと、ひとり残ってお茶を飲んでいるメガネの人がいるだけだった。彼の姿を認めるなり、楼珠さんは
「太郎くん、後はお願いね」
こう言い残して自室へと戻っていった。太郎くんというのは、この人の洋館での呼び名だ。
「お願いって、何をだ」
彼は不機嫌そうに眉根をしかめると、わたしにテーブルに着くよう促した。わたしは食事のときと同じく、彼の向かいに座る。彼の射抜くような目つきに怯えつつ、話を聞くことにした。
「図書室で調べ物をしていたんだ。その、彼女について何かないかと思って」
彼は、ためらい気味に頭骨を彼女と呼んだ。彼の口角はひきつっているし、声はこもっているし、全面から無理をしている感が溢れている。わたしはその様子に少しおかしさを感じながら、敢えて何かを指摘することはやめにした。
「それでだ、簡単に言うと、あれについて触れている本が一冊見つかった。ここの家主の、古い日記だ」
「家主? めぐりちゃん?」
「人の話は最後まで聞け、女子高生。おそらく今の家主よりもずっと前の、男の日記だよ。あの子のものじゃない。それで、ここからが本題だが」
彼はそこで言葉を区切ると、大仰に一呼吸を挟んだ。
「あれは、随分昔からこの屋敷に存在しているらしい。そして、よく解らないんだが、あれと真に向き合うことで大切なことを教えてもらえるらしい。それが、家主の言う幻想の文字列とやらのことじゃないのか?」
彼はそこまでを一息で言い切ると、肩の荷が下りたのか、ふう、と声を漏らした。が、わたしは彼の言ったことをにわかに呑み込めなかったどころか、あまりのざっくり加減につい文句をつけてしまう。
「大切なことって、また随分曖昧だよね……」
「そんな顔するなよ。俺だって、よく解らないんだから。この後ももう少し、図書室を当たってみるけどさ」
そこで、会話は途切れた。ひとまずわたしは、比較的どうでもいい彼のことは放置して部屋に戻ることにした。虹色の頭骨、ひとりぼっちで気の毒な彼女を迎えに。
わたしは部屋から木箱を持ち出し、気分転換も兼ねて裏庭に出ることにした。天気は快晴、今日は風が心地良い。芝生の敷かれた広い庭園の真ん中には、一本の大きな木があった。名前は判らないが、わたしはこの木の下が好きだった。木箱を傍らに、わたしは木の下に腰を下ろす。目線の先には敷地の終わりを表す洒落たフェンスと、その向こうに生い茂る森。この森がどこまで広がっているのかを、わたしは知らない。
「大切なこと、か」
わたしにはそれが何のことやらさっぱり判らない。めぐりちゃんは特に期限を切るようなことはしなかったけれど、きっといつまでも待ってはくれないだろう。先を思うと胸が詰まる――ともかく、今のヒントはメガネの人の話だけなのだから、それをあてにするしかない。頭骨と向き合うという言葉から連想できることといえば、この木箱から出して物理的に向き合うことにほかならなかった。
扉を開く手が震えた。曲がりなりにも、それは人だから。唾を呑んで一息に扉を開けると、そこには先刻と同じように鎮座する色鮮やかで人骨な彼女の姿があった。おそるおそるわたしは彼女を手に取って、木漏れ日の下に色彩を晒す。赤、青、黄色、いろいろ。とても人とは思えない彩りの彼女はとても美しい。その存在を誰にでも見える形にしてしまう行為は、なぜかとても背徳的なものに思えた。
「あなたは、何なの?」
問いかけるも、彼女は応えてくれない。そんな骨にとって当たり前の反応が、わたしにはとても悲しく思える。次に、彼女の身体のすみずみを観察する。文字が刻み込まれているならきっと痕跡が見られるはずだ。しかし、それも無駄足。そもそも簡単に見つかるなら、あのめぐりちゃんがわたしたちに頼むはずないじゃないか。その後も、光にかざしたり木の根本に置いてみたり、それらしきことを一遍とおり試したけれど無駄だった。彼女がただの虹色をした頭骨だということ以上は、判らない。
「はあ……やっぱり無理だよ、めぐりちゃん……」
わたしは彼女を膝に抱えたまま、洋館の最上階――主の部屋がありそうなところを睨みつけた。が、そもそも部屋の場所を正確に把握できていないのだから、そんな行動はただ滑稽でしかない。わたしは頭の左後ろに住む冷静な自分に心折られた。まるで敗走するようにそそくさと頭骨を仕舞い、再び膝を抱えて頭を埋めた。そうしている間、何度も美ヶ原さんの声が頭上を飛び交っていったが、徹底的に無視を決め込ませてもらった。
日が落ち始めるまでそうしてから、わたしは彼女を部屋に戻していつも通りの夜を過ごした。
あくる日。メガネの人は目の下にクマをぶら下げて再度図書館に籠もり、わたしは彼女を連れて洋館の中を冒険し、アリスの仕事を観察したり、構ってほしそうな様子の美ヶ原さんとじゃんけんで遊んだりした。彼女と楼珠さんとお風呂に入ってみた。収穫はなかった。
またあくる日。メガネの人は昼まで起きなかった。のち図書館。そろそろ本もチェックし尽くしたらしい。わたしは楼珠さんと彼女とお茶。途中でちょっと元気のない美ヶ原さんが乱入してきたから、ふたりで裏庭に出てラジオ体操をした。夕刻、図書室に様子を見に行くも、メガネの人に話しかけることはできなかった。彼女は今日も赤で青で黄色だったが、収穫はなかった。
さらにあくる日。メガネの人は食事も摂らず朝から図書室。ちょっと心配。わたしはと言うと、昼食後に彼女を迎えにいこうとしていたところを美ヶ原さんに呼び止められた。
「花子ちゃん。この後、お茶でもどうかな。もちろん、骨の彼女も一緒に」
わたしは彼女を迎えに行ってから、美ヶ原さんと共にダイニングに戻った。
「美ヶ原さん、急にどうしたの?」
アリスが用意してくれたアールグレイの香りをかぎつつ、わたしは隣の椅子に陣取った美ヶ原さんを見遣る。彼は微かに笑うと、いつもよりずっと落ち着いた低い声で話し出した。
「花子ちゃん、彼女を見せてくれないか」
軽く組まれた長い脚、甘くやさしい声、柔らかい視線にどぎまぎしながら、わたしは彼女を箱から出してあげる。最初のように手が震えることはなくなったが、それでも緊張する瞬間であることには変わりない。わたしはおそるおそる彼女を美ヶ原さんの前に差し出し、じっと相手の反応を待つ。美ヶ原さんは彼女に触れようと手を伸ばしたが――触れることなく、すぐに指先を引っ込めてしまった。
「はは、やっぱり不気味だ。それに、彼女はとてもきれいだ」
「え?」
一瞬、彼の言葉の意味が解らなかった。真っ白になったわたしの頭を、美ヶ原さんの困ったような笑顔が埋めていった。
「彼女はここに在るだけで君と僕の心を動かせるんだよ。たとえそれが悪い意味であったとしてもね」
彼は愛おしそうに虹色の頭骨を見つめると、無理を言ってごめんと悲しく笑う。最近少し様子がおかしいとは思っていたけれど、いつも底抜けに明るいはずのこの人はいったいどうしてしまったんだろう?
「僕は美しい」
「は、はあ」
「でも、ただそれだけなんだよ花子ちゃん。奇矯なことで気を引かなければ、誰も僕の相手なんてしてくれないさ。今だって、もったいぶった話し方で君をつなぎ止めているに過ぎない」
美ヶ原さんは彼女を箱に戻すように促すと、また悲しそうに笑った。相変わらず言動はうっとうしいが、言葉の端々からシリアスな何かが伝わってくる。わたしはお茶のことも忘れて、彼の話に聞き入ることしかできなかった。
「僕には骨の彼女と出会ってからの君が、とても輝いて見えるよ。彼女を追いかけて、行動を共にして、彼女のことで頭がいっぱいになっている君のことが。僕は存在だけで君を惹きつける彼女がうらやましいね」
美ヶ原さんはわたしの頭をぽんぽんと撫でた。温かく、大きな手。わたしは彼の手に、生身の人間の血の巡りを感じた――それを意識すると不思議と照れくさくなって、目の前のお兄さんは何だかんだとかっこよくて、わたしはただ、耳を真っ赤にしてうつむくことしかできなくなった。
「あ、あの、美ヶ原――さん?」
「ごめんね、花子ちゃん。僕の屈折した自分語りに君を付き合わせて。骨の彼女を利用して。僕は彼女に嫉妬してるんだ。君を、みんなを、僕に向くはずの視線を盗られてしまった気がしてね」
美ヶ原さんは手を止め、わたしの顔を前に向かせた。彼の透き通った瞳が、わたしの意識を縛り付ける。息苦しいけれど心地良くて、ずっと見られていたくて――もう、おいしいお茶なんてどうでもよくなった。ごめんね、アリス。廊下の方から誰かの足音もするけど、別にいいや。ごめんね、廊下の誰かさん。
「あ、あの」
「おい、女子高生――」
誰かの声がした。この声、誰だっけ。ちょっとぼんやりする。こんなの初めてで、このままどこかに連れて行かれてしまいそう。わたしどうなるのかな。お兄さんの手が、わたしの頬に触れて――そのままわたしは、勢いよく左右に引っ張られた。
「いっ」
「ははは、花子ちゃんのほっぺた、よく伸びるんだね。スライムみたい」
痛みによって、意識が一気に現実へと引き戻される。霧が晴れた世界で見る美ヶ原さんは、やっぱりいつもの軽くてうっとうしい美ヶ原さんだった。彼はちゃらちゃらと笑い、少しだけ影を引きずりながら言った。
「ただ僕は、誰でもない僕になりたい。美ヶ原颯弖という、立派な名前に恥じない僕になりたいのさ」
その言葉が引っかかる。
「名前――」
わたしと誰かが、同時につぶやいた。
「えっ」
改めて誰かの存在に驚き振り返ると、ダイニングの入り口にはメガネの人が棒立ちで佇んでいた。もしかして、見られていただろうか。
「やあ、太郎くん。後は頼んだよ」
美ヶ原さんはすっと立ち上がり、軽い足取りで歩き出した。そのままメガネの人の肩をぽんと叩き、ただのひとことだけを残してどこかに去っていったのだった。
「花子ちゃんを、支えてやってね」
わたしはしばし呆然としてからメガネの人の方を見る。視線の先で彼は腕を組み顎を撫でながら、深刻そうな顔で考え込んでいた。
「やっぱりみんな、顔のいい男が好きなのか。そりゃそうだよな……」
完全に見られた。その後は何だかんだとごまかして、話があるという彼を裏庭に連れ出すことにした。先程のことを思うとあまりにも恥ずかしくて、わたしはもうダイニングにはいられなかったのだ。