今日も階下で朝食を
わたし…女子高生。花子。一号。あなた。
彼…メガネの人。太郎。零号。あなた。
楼珠(ろうず)…朝食係。風呂好き。
美ヶ原颯弖(うつくしがはら はやて)…うっとうしい美形。
アリス…メイド。
天ヶ瀬(あまがせ)めぐり…洋館の主人。
わたしには名前がありません。ねえ神様、そんなわたしは誰なんでしょうか?
今朝はいつもより少しだけ早く目が覚めた。わたしは最低限の身支度を整えると、空っぽのおなかを携えて階下のダイニングスペースへと降りていった。階段を下っていくにしたがって、段々と朝食のにおいが強くなっていく。同居人の楼珠さんの作る、今まで食べた中で最高においしいお味噌汁――わたしにとって、慣れない洋館の生活での楽しみのひとつだ。
わたしはしばらく前から、この古びた洋館での生活を余儀なくされている。本当に不思議な話であるし、信じてもらえないかもしれないが――わたしはある朝、この洋館のベッドの上で目を覚ました。いつの間にか用意されていた、決して狭くはない心地のいい部屋の、柔らかいベッドの上。寝ぼけ眼のわたしを、この洋館の主人が冷たい視線で見下ろしながら迎えてくれた。それ以来、ろくな説明もないまま、わたしはここの主人の『持ち物』になった。ここには、わたし以外にも同じような境遇の人が何人もいて、お互いに得意なことを活かして共同生活を送っている。
階段を降り切って、前方右手にある三つ目のドアを目指して歩く。そこは、この洋館のダイニングキッチンだ。見れば、重々しい木の扉は開かれており、足元をゴム製のストッパーで固定されている。こうなっているのは、朝食係の楼珠さんが食事の支度をしているしるしだ。一層はっきりと食欲に訴えかけてくるお味噌汁のにおいに心を躍らせながら、わたしはダイニングに飛び込んだ。続いて、奥の立派なキッチンを覗き込んでみる。すると、そこでは期待通り、ひとりの女性があくせくと働いていた。
「おはよう、花子ちゃん」
「おはよう、楼珠<ろうず>さん」
彼女、朝食係の楼珠さんは、わたしににこりと笑いかけた。彼女が口にした『花子ちゃん』というのは、わたしの本名ではない。それはあくまで、楼珠さんや一部の同居人たちが勝手に呼んでいる名前にすぎない。しかも、そのような扱いの住人はわたしひとりだけではなく――。
「花子ちゃん、今日は早いのねえ」
楼珠さんは笑いじわを作りながら、にこりと微笑む。彼女は、とても美しい人だった。ただ気がかりなのは――初めて会ったときは私の祖母と同じくらいのおばあさんだった彼女が、何故か日に日に若返っている、ということだ。今ではすっかり若くなって、どう見ても三十歳前後のお姉さんにしか見えなくなっている。かと思ったら少し年齢が上がっている日もあって、なんだかよく解らない。が、そんなことを考えても仕方がないし、仮にも女性の容姿や年齢に関することなのだから、いくら不思議とはいえ詮索するのは失礼にあたる気がする。ゆえにわたしは、いつのころからか、多少の引っかかりを残しつつもそのことを考えなくなっていた。
わたしはダイニングの定位置に身体を据えながら、楼珠さんとの会話を続ける。
「なんか、目が覚めちゃって」
そう、と楼珠さんは明るく笑った。
「すぐ用意するから、少しだけ待っててね」
ほどなくして、彼女が用意してくれた朝食が目の前に並べられる。白米、お漬物、そして洋館自慢のお味噌汁。シンプルで、どこか懐かしさを感じさせるメニューを、わたしは夢中になって口に放り込んでいく。
「おかわり!」
「はいはい」
それを、半ば呆れたように笑って見守る楼珠さん。わたしが二杯目の白米をきれいに平らげたころ、ドタバタとダイニングに駆け込んでくる人影があった。
「おはようございます、一号さん! 朝からアレですが、お嬢さまがお呼びですよ」
長いスカートを翻し、あわただしい様子で現れたのは、この洋館のメイドを務めているアリスだ。彼女はおそらくわたしと歳の近い、二十歳にも満たない若い使用人……だと思う。小柄な体格もあり、楼珠さんをはじめとする年長の同居人からはとても可愛がられている。そんなアリスは、少々ワーカホリック的なところがある変わり者(あるいは天性)のメイドさんだ。そういえば彼女、楼珠さんに朝食の仕事を取られたときは、しばらくの間むくれていたっけ。わたしなんかは何事も面倒に思うようなイマドキの若者なわけだから、仕事が減ったらうれしいだけなのだけれど。アリスの働きぶりを見るにつけ、きっと、わたしはメイドさんにはなれない人なのだろうと思う。
話を戻そう。
「めぐりちゃんが、わたしを呼んでる? こんな朝から?」
「はい!」
わたしはいつにない妙な展開に、思わず首をかしげた。その真正面で、アリスは肩で息をしながら屈託なく笑う。彼女の言う『お嬢さま』――それはすなわち、この洋館の主人、天ヶ瀬めぐりを指している。彼女、めぐりちゃんがわたしを呼びつけるのは珍しいことではないけれど、それにしてもこんなに朝早くというのは初めてだった。何か急ぎの用事だろうか。主の思惑ははっきりしないけれど、わたしには行かないという選択肢が用意されていないことだけはクリアだった。
「うーん、わかった。とりあえず、食べたら行くね」
「はい、ご案内しますわ」
わたしは残った付け合わせやお味噌汁を急いで空にする(急いで食べなきゃいけないなんて、実にもったいない)と、楼珠さんにおいしい朝食のお礼を言い、食器の片づけを手伝ってくれたアリスと共に食堂の外に出た。
めぐりちゃんの部屋は、日によって場所が変わる。そのため、彼女の部屋を訪れるに当たってアリスの案内は必須だった。あるひとりを除いたほかの同居人たちはそろって『主人の部屋の場所は、そのうち聞かなくても判るようになる』と言うけれど、それはどういうことなんだろう。わたしには、この洋館のことはよく判らない。
この洋館は、三階建ての至ってシンプルな構造を持っている。隠し階段もないし、屋根裏部屋もない。
普通に考えたら、この広くない建物をしらみ潰しに捜せば、いつかはめぐりちゃんの部屋に行き着くはずなんだけれど――どういうわけか、わたしと『彼』にはそれさえも不可能だった。
わたしは、小さな歩幅でちょこちょこと進むアリスの後ろをついていく。廊下を進み、曲がり、戻らず、階段を昇ったような、降りたような、そんな軌跡を描くうち、自分がいまどこを歩いているのか、ここは見知った洋館のどのあたりなのかが、いつの間にか判らなくなってしまった。どうしてだろう? アリスは、ただ廊下に沿って歩いているだけなのに。わたしはいつもどおり、どうしようもなく不安になって、前を歩くアリスの背中に呼びかける。
「ねえアリス、今日はどこなの?」
すると彼女は、わずかに首をひねって返事をくれる。しかし、こういうときの彼女は、決してこちらを振り返ってはくれないのだ。
「ふふ、一号さん、お嬢様の部屋の場所は、いつも変わりありませんのよ」
そう、アリスはわたしを一号と呼ぶ。
彼女の言葉に、わたしは混乱する。でも、だってといった言葉が、思わず口を突いて溢れ出してくる――それを遮るようにして、アリスは歩みを止めてこちらに向き直った。言い訳がましいわたしの唇の運動を、彼女の細い人差し指がぐい、と押さえ込んだ。
「ね、わたくしがいつも申しておりますでしょう?」
にこにこするアリスの視線に促されてみれば、そこはいつの間にか、あのオーク材の扉――めぐりちゃんの部屋の前だった。
「ああ、うん」
やっぱり、腑に落ちない。
「さあ、お嬢様がお待ちですよ。扉をお開けしますね」
立ち止まるわたしの背中を、アリスがやや乱暴に押す。彼女が開けてくれた扉をくぐると、そこにはソファに座るめぐりちゃんの姿と、アリス、そしてもうひとり――めぐりちゃんの向かいに腰掛ける、いわゆる彼の姿があった。