二
焼けつくような日も落ちて、幾分かの涼しさが格子の窓から入ってくる。
藤川の名代として訪れた部屋に居たのは、白八重を禿の頃から知っている馴染の御隠居であった。
談笑をし、三味線を弾きながら、ふと、この御隠居であれば深夜子のことをよく知っているかもしれないと思った。昔から吉原で遊んでいると豪語している人だ。
「深夜子?あァ知ってるよ。俺ァ昔ッから朝屋一筋って決めてるんだがな、ある日急に一人増えたんだよ。張見世に並ぶ顔がな。」
「それが深夜子?」
「あァ。昔は深夜って名前だったよ。」
酒をぐっと飲み干して、一つ息をはく。話を待ちきれずに、白八重は身を寄せた。
「えれェ人気だったよ。器量はよくなかったけどな、芸事に長けて文字も書くし、教養があるから話が面白ェつうんで切見世に収まる人気じゃなくなったのを朝屋が買い上げたってのが定説だったな。」
「切見世!?」
思いもよらぬ言葉に白八重は声を上げた。確かに深夜子の器量は良い方ではない。しかしそれは老けたからであって、きっと昔はそれなりに美人だったのだろうと思い込んでいた。おまけに三味線も琴も上手くて、長けた話術で相手を翻弄するなど朝飯前の深夜子が、切見世の出身であるとは考えたこともなかった。
白八重の驚きっぷりに気をよくしたのか、御隠居は酒をぐっと飲み干すと言葉を続ける。
「ま、あくまで噂だけどな。見世変えってのはよくある話だが、まァ深夜は器量もよくねェしそんな噂がたったんだろ。
なんだい、おめェさんは深夜のことが気になるのかい?」
にんまりと笑いながら茶化されて、白八重は恥ずかしさを誤魔化すように頬を膨らませた。別にそうじゃありんせん、と言いながら杯に並々酒を注いでやると、戸が開いて藤川が顔を覗かせた。
ほっとして身を引くと、にこにこと笑いながら藤川が御隠居の隣に座った。
「白八重、もうすぐ初見世なんですよ。」
「へえ、もうそんな歳か。いつやるんだい。」
「盆明けの八朔ですよ。是非見にいらして。」
白八重は目を伏せた。生娘でなくなることがおおっぴらに話されるのはいい気分ではなかった。日取りも、突出しの客も、全部知られる。それでも顔を上げて、毎日張見世に並ばなくてはならないのだ。
* * *
姉女郎も御隠居も部屋からいなくなって、がらんとした部屋で残った酒に手を付けた。おもむろに戸が開いて大きく肩が跳ねた。入ってきたのは深夜子で、白八重を見ると驚いたのか足を止めた。
「なんだい、いたのかい。」
「…うるせえな。」
ぐらぐらとした頭が重くて、白八重は窓辺に寄り掛かった。息を吐きながら、先ほど御隠居に聞いた話を思い出す。酒のせいで上手く機能しない頭は、思ったままのことをそのまま口に喋らせた。
「深夜子って切見世にいたのかよ。」
すると深夜子は目を丸くして、しかしすぐにいつもの落ち着き払った表情をした。
「…さァね。どうだっただろうね。」
またはぐらかされた。白八重は目を細める。どうせ聞いたところで何一つ喋ってはくれないのだ。
「…白い金魚を飼ってたんだ。」
白八重は頭をもたげた。おもむろに口を開いた深夜子の顔に、えも言えぬ違和感を感じた。
「真っ白な金魚だった。牡丹雪のような金魚がえらく気に入ってね、客をとってない時は飽きもせず眺めていたもんだ。」
その視線の先に、深夜子は白い金魚を見ていた。
「窓辺に置いてた丸い金魚鉢の中に居たはずなのに、あたしは金魚の最期を知らないんだ。」
くるりと首が動いて白八重を見る。黒い目には何も映っていなくて、ぞくりとした寒さが背筋を伝った。小首を傾げるのは老婆の筈なのに、いつの間にか皺は消え、張りと若さに満ち溢れた女郎の姿が重なる。
「ねえ、白八重。金魚はどこに行っちまったんだろうねえ。」