一
白い金魚がいた。
部屋の片隅。窓辺に置いた丸い金魚鉢の中で、呑気に白い金魚は泳いでいた。
透き通った白い鰭を揺らめかせるその姿は、まるでひらひらと舞う牡丹雪のようだった。
私はその白い金魚を、飽きもせず眺めていた筈なのに。
白い金魚の最期を知らない。
* * *
紫陽花もすっかり枯れてしまって、くっきりとした青い空がどこまでも広がる夏の時分。
白八重の初見世が決まった。
惣半籬の小見世朝屋の看板女郎藤川が手塩にかけて育てた引込新造白八重は、こういうと大層聞こえもいいかもしれないが、その実折檻の回数は吉原一と謳われるほどのお転婆だ。光るような白い肌に珍しい色の瞳を持つ白八重は、その美しい容貌からは想像がつかないほど下品な口ぶりで物を言い、腿までむき出しにして走り回り、あちらこちらで問題を起こしては折檻部屋へと放り込まれていた。朝屋では折檻部屋のことを白八重部屋というほどだ。
そんな白八重が初見世、しかも花魁道中をするという。湯屋で会った他の見世の遊女に嘲笑され初めてそのことを知った白八重は、驚きのあまり体を洗うのもそこそこに湯屋から出た。適当に結んだ帯が走るたびに緩み、見世につくころには肩も剥き出し、脚も剥き出しの酷い有様だった。
思い切り走ったせいで上がった息を落ち着かせようと、玄関先に寝転んで大きく息を吐く。火照った体に床の冷たさが気持ちよくて目を閉じていると、ふいに触れる手があった。
「そんな恰好をするんじゃない、白八重。」
深夜子だった。その浅黒い手が緩みきった帯を解いて、大きく開いた襟元を直す。白八重が跳ね起きると帯が崩れたのか、深夜子は嫌そうな顔をした。
「深夜子!なァ、おれ、道中すんの!?」
深夜子は朝屋の遣手婆で、女将よりも楼主よりも、吉原の誰よりも年上と言う大年増だ。本当の年齢は誰も知らないがかなりの高齢だというのにも関わらず、一向に曲がる気配のない腰をしゃんと伸ばし、朝屋の一切を切り盛りする深夜子の知らないことはない。
しかし深夜子は素知らぬ顔をしながら、よれた白八重の帯を直す。
「さァね。ただ、新しい内掛けを仕立てる金を払ったことは確かだねェ。」
「おれの!?おれの!?」
「金を出したのは藤川だからね、自分で着るってんじゃないならそうなのかもしれないねェ。」
深夜子の口ぶりから、白八重が道中をすることは明らかだった。
一瞬何とも言えない気持ちの高ぶりを感じたが、すぐに興奮は冷めてしまった。花魁道中をするということは初見世をむかえるということで、初見世を迎えると言うことは肌を許すということだ。見知らぬ男に、この肌を。
「深夜子の初見世ってどんなだった?」
そう思うと、堪らず目の前の婆の初見世が気になった。深夜子だって元は女郎。初見世を迎えて毎夜のように帯を解いていた時期だってあるのだろうけれど、どうしても想像することが出来なかった。だって深夜子ときたら、初めて会った日から何一つ変わってはいないのだ。どう手入れをしているのか、皺の少ない顔も、浅黒い肌も、曲がらない腰も減らない口も何一つ。
自分はこんなにも変わってしまったというのに。
「さァね。忘れたよ、そんな昔のことなんざ。」
「いで、いでででで!!」
きつく帯を締められてひいひい言っている間に、深夜子は膝を打つと立ち上がる。声をかける間もなく奥へ消えてしまって、白八重は口を尖らせた。深夜子はいつだって、誰にだって二枚も三枚も上手だ。
帯を緩めながら息を吐く。あまりぐずぐずしてると夜見世に遅れて藤川に怒られる。重い腰を持ち上げて、白八重は階段を上がっていった。