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生暖かい息を、頬に感じる。
べろりと舐め上げられる感触に、センは目を開けた。極近くに、獣の顔がある。星を散らしたような円い目が、センを映している。
「おはよう、カノ」
声をかけると、もう一度舐めようとした舌を止めて、カノが小さく鳴いた。
見上げると、一晩の宿として木陰を借りていた大木の梢越しの空が、白々と明け始めている。いつもの時刻に、起こしてくれたようだ。
その大きな体躯を枕代わりにしていたセンが身体を起こすと、カノはゆっくりと立ち上がり、静かに草を食み始めた。それを横目に、センも側の荷の中から自身の食事を取り出す。朝に食べるには向かないが、硬い干し肉は旅人の友だ。
顎の怠さと戦いながら黙々と咀嚼していると、不意にカノがその長い首をもたげた。耳をそば立て、鼻をたかくして空気の匂いを嗅いでいる。太く長い尾が揺れているのは、警戒している証だ。
何かが、いる。
少しばかり離れた茂みを見据えて、カノがしきりに首を上下させる。角を誇示する威嚇行動を見るに、何某かが潜んでいることは間違いなさそうだ。
獣か、人か。
獣なら、大抵のものはカノが追い払う。野営のために外れたが、街道に戻れば獣除けもある。だが、人ならばそれが効かない。
ゆっくりと荷を背負い、立ち上がる。眠るときも外さなかった剣帯が、小さな音を立てた。
茂みに、変化はない。蹄を打ち鳴らし始めたカノの牽制が、効いているのだろう。手早く鞍をつける。手綱を掴み、一気に身体を引き上げると、カノも心得たもので、驚くほど素早く反転して駆け出した。
獣にしろ、人にしろ、起き抜けに相手をするのは面倒だ。仕掛けてこないなら、逃げるに限る。
茂みを飛び越え、木立を抜ける。カノは追跡を逃れるための本能で、障害物の多いところを選んで森を駆ける。こんなとき、手綱を握るだけのセンは、大人しくそのふさふさとした毛並みに伏せているより他にない。
耳元で、風が鳴る。自分の今いる位置を図り兼ねているうちに、街道に抜けていた。木々を拓いて敷かれた街道に踏み込むと、すう、と鼻に抜けるような特有の匂いがする。獣除けの香だ。これで、獣の脅威はなくなる。人も、この速度に追い付くのは至難の技だろう。追跡者の気配はない。
まだ走り足りないようなカノを宥め、並足にさせると、ほっと息が漏れる。
何とも忙しない、一日の始まりだった。
昇る陽の位置で方角を測ると、元々目指していた方へ向かっていることがわかった。センは親しみと感謝を込めて、カノの首を軽く叩く。この賢い獣は、いつでもきちんと進む方向を分かっているのだ。
木漏れ日の落ちる街道は、緩い登り坂になって視界の先に伸びる。森は、静かなものだ。他の旅人にもすれ違わないまま、暫しの後には峠の頂に立っていた。
センはカノから降り、振り返る。見渡す限りの翠のなかに、辿って来た街道が見え隠れしながら遥か彼方まで続いている。この街道を戻ったどこか、翠に埋もれたどこかから、センはカノだけを道連れに出てきた。
「ここからでは、見つけられないか」
それほど離れていないはずの場所を見分けられないことに、センは小さく苦笑した。
くぉん、とカノが鳴く。白い縁取りのある円い目が、瞬いている。どうした、と問われているような気がした。
「なんでもないさ。行こうか、カノ」
ぺろりと頬を一舐めするカノに笑って、センは再びその背に跨った。
もうこの景色を見ることはないだろう、と思う。その意味も、必要も失ったからだ。
一度だけ強く閉じた目を開いた後、センは前にだけその視線を固めて、カノを促した。二度とは振り返らない。
背後から吹き抜けた風に背を押されるようにして、センはその地を去った。
初投稿作です。不定期更新ですが、楽しんでいただければ幸いです。