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五話 ギルドと冒険者

 その次の日の昼には、久しぶりに一同が洞窟内に顔をそろえることになった。


 俺、スラ子、シィ、カーラ、ルクレティア、スケル、ドラ子。魚人族で仮の長をつとめているエリアルに、リザードマンたちからは長の代理役としてリーザ。なんでここにいるんだろうとか思っていそうな顔で眠たげなノーミデスもいれると、総勢で十人にもなる。


 今さらながらよくわからん集団になってきた、となんとなく感慨深くしていると、周囲からの多彩な視線を受けとめたルクレティアが話の口火をひらく。


「ご主人様がアカデミーへ出立するにあたって必要な水食料、移動手段としての幌馬車についてはこちらで用意させますので、そのあいだに皆様方に協力していただきたいことがあります」

「馬車! 馬車でいくんです?」


 スラ子がわくわくした声をあげるのに、俺はうなずいた。


「アカデミーがあるのはめちゃくちゃ北、人間領域の外だ。途中に村や町がないところだってあるし、あったとしても残ってるとは限らない。何人でいくかにもよるが、どちらにしろ馬車なしじゃきつい」

「本格的ですねっ」

「やっぱり長旅といえば馬車っすねえ」


 近場以外でたことのないスラ子とスケルは聞くまでもなく旅に同行するつもりらしく、あとの同行者はシィ、カーラ、ドラ子あたり。残るエリアルやリーザには、ルクレティアとともに留守を頼むことになるだろう。


 肩から上掛けを羽織った美貌のマーメイドが小首をかしげるようにして、


「留守は任せてほしい、といいたいところだが。状況としてはどうなのかな。竜の躯を目当てに集まっていた人間たちはこの一月で随分と離れたということだったと思うが」


 質問を受けて視線をルクレティアに送ると、小さくあごをひいた金髪の令嬢がそれに答える。


「確かに一時の喧騒は収まりましたが、依然としてメジハに逗留を続けている冒険者の方々もいます」

「どのくらい?」

「昨日までの登録で十七名。しかしこれは、実際の数字としてはあてになりません」

「あてにならないんですか?」

「モグリだな。ルクレティア、そいつらが登録しない理由は?」


 一般的な常識として知っている部分もいくらかあるが、この場にいる全員で知識を共有するために訊ねる。


「冒険者が冒険者として仕事をするためには、原則としてその町のギルドへの登録が必要です。冒険者というのはいってみればならず者ですから、様々な問題を引き起こします。それを阻止し、把握するために登録をうながし、かわりに依頼の斡旋から支払い問題、依頼の引継ぎや失敗時の対応、さらには魔物にとらわれた際の返還交渉までを含めて処理するのがギルドです。ギルド機能は基本、どれだけ小さな集落にもありますが小さなところでは長がその役を兼任することがほとんどで、これはメジハでもそうでした。大きな街ではさらに細分化、組織化されていることもありますが――それはともかく」


 俺の質問の意を察したルクレティアが、基本的なところから丁寧に説明していった。


「ギルドとはつまり世話役であり、監視役であり、仲介役です。周辺に魔物、獣が多いために集落には自衛戦力が必要であり、冒険者とはそのために各集落が抱え込む用心棒でもあります。集落独自の戦力はもちろん、国主や領主との間に微妙な緊張関係を生じさせることになり、ギルドとはもともとそれを解消するために制度化されたものでした。先の大災で疲弊し、正規兵を向かわせられない領主側が制度として戦力の保持を認めるかわりに反乱はこれを許さない。もちろんまったく問題がないわけではありませんが、それも今はよろしいでしょう」


 要点さえ話してしまえば、こんなところで長々とギルド講座をしても眠くなるだけだろうから、正しい判断だ。

 聴衆の気配を読み取りながらルクレティアは続ける。


「ギルドから仕事を受けるためには登録が必要ですが、逆にいえばギルドから仕事を受けない場合、その限りではありません。依頼には個人請けと呼ばれる形態があり、これにはギルドを介しません。そのかわり情報提供、物資援助その他のサポートがないわけですが、ギルドへの仲介料も必要ないため、そうした個人依頼というのも決して少なくありません。それで問題が起こることも度々で、ギルドではこうした依頼形態を控えるよう日頃から注意を呼びかけていますが、実際に拘束力をもたせられるほどの統制を発揮できるギルドは極めて少なく、実態として捉えることもまた難しいのです」

「どうしてですかい?」


 スケルが合いの手のように疑問を呈する。


「客人として家に招かれてしまえば、それ以上追求することは難しいからですわ。契約書類や、金銭譲渡の現場を取り押さえることも毎回は厳しいです。調査をするのにも、現場に踏むこむのにも人手がいりますから」


 うんうんとスラ子がうなずいた。


「仕方なく、黙認するしかないわけですね」


 なにごともきっちりと書面に残し、法に従って粛々という状況に全ての集落があるわけではない。

 農村や辺境の集落での識字率は高くないし、そうしたところでは法などではなく人と人との繋がりが問題を解決するほうが自然だった。


「現状は。こういったことは、本登録をどこか余所の大きなギルドでおこなった冒険者が、小さなギルドへの出稼ぎなどでよくおこなわれます。各ギルド間は最低限の身分照会や情報交換など以外、決して仲は良好といえず――これは集落同士でいざこざがあった際、ギルドが戦力として用いられるからですが、そうした横の繋がりが希薄なことも問題の一因ですわね。もっと大きな理由としては、その町が統一性をとれているかどうかということですが」

「つまりメジハか」


 不本意そうな表情で、ルクレティアが豪奢な金髪を揺らす。


「現時点で、メジハにはあきらかに登録していない複数の冒険者の存在が確認できています。入出記録が一致せず、文字通り宙で消えてしまった足取りも」


 集落の規模を分ける考え方にはいくつかあるが、一般的に「町」と呼ばれるかは魔物や獣、あるいは人間同士の襲撃から身を守る防壁があるかどうかといっていい。


 メジハにも、決して立派とはいえないがぐるりと周囲を取り囲む町壁があって、出入りをするにはそこを通らなければならない。夜間には扉は閉まり、自衛と人の出入りを確認する手段にもなっている。


「潜伏しようとしたって、食うものも寝るところもいるはずだ」

「町の宿屋などにそうした姿はありません。すくなくとも表向きは、ですが」

「ようするに、メジハのなかでそいつらを囲ってる連中がいるわけだな」

「メジハは小さな町です。大勢の外からの訪問者を一手に集中して統括する場所もありませんでした。寝泊りには各家に分散して協力を頼むしかなく、そのなかでどんな会話がなされているかまで全て把握することは不可能です」


 なんとなく面倒そうな話の流れに、どこか楽しげなスラ子が腕を組んでいる。


「そんなことをして、いったいなんのメリットがあるのでしょうね?」

「兵隊として雇って町の人間同士でケンカですかい?」


 冗談のつもりだっただろうスケルの台詞に、ルクレティアはここにいない誰かに向けた冷ややかな笑みを浮かべ、


「いわゆる私兵ですわね。力というのは持っているだけで示威になります。あるいはその客人、外から来た冒険者が他のギルドの意を酌んでいるということもあるでしょう」

「密偵。前にいってたやつか。だが他の町や集落がどうしてそんなことを?」

「先日の竜の躯騒ぎで、この近辺でもっとも儲けたのは間違いなくメジハです。その分、多大な出費もあったのですから当然の権利ですが、近くの集落の人々にしてみればまた儲けの機会があったとき、いち早くそれを察知したいと考えるのはむしろ当然でしょう」

「そりゃな。別に悪いことでもないような気がするが」


 俺の率直な感想にルクレティアは肩をすくめて、


「こちらの儲けに追従しようというだけならかまいませんが、町の一部と結託して儲け話をのっとろうということもあります。集団の利益より個人の利益を優先する輩はどこにでもおりますし、メジハの町は今まで貧しくはなくとも決して裕福ではありませんでしたから、どうしてもこうした事態には慣れておりません」


 ようするに、とルクレティアは軽い息と共に告げた。


「物事に対する経験や耐性のないまま、儲けすぎてしまったのです。メジハは」


 メジハは小さな田舎町で、そこに住む人々は閉鎖的だ。

 行商人や近くの町商との交易経験はあっても、さすがに竜騒動という桁違いの一件には対処できないのも仕方がない。


「黄金に溺れたわけだ」

「この程度では、眼がくらんだ程度でしょう」


 皮肉を込めていってみると、さらりと返される。


「次の機会ではその儲けをさらに多く、自分ひとりで独占できるかもしれないなどと耳元で囁かれれば、野心の少ない純朴な心にも芽生えるものはあるでしょう。そうした人々がいつ町にどんな問題を呼び込むかわかりません」

「そういう連中をどうにかしておきたいんだな」

「はい。ご主人様がアカデミーに発たれる前に、問題の芽をつぶしておきたいのです」


 ルクレティアの説明が終わり、一拍を置いて俺から訊ねる。


「実際にはどういった行動になる」

「先日の騒動の最中は、町に出入りする人々を全て把握することさえ難しくありました。最近ようやくそちらまで手が回るようになりましたので、今は書類上にない人々の実数、その把握に努めています」

「できるのか?」

「人が生活する以上、食べ物も飲み物も必要ですし、汚物もでます。そういった生活の痕跡は、さすがに人口が千にも満たないこのような小さな町で隠しとおせるものではありませんわ」

「確認して、それから? ようするにそいつらは不穏分子ってことだろうが、表向きは決して悪いことをやってるわけじゃない。それを今、おおっぴらに叩いていいのか?」


 メジハが一枚岩ではないことは、竜騒動の最中からわかっていたことだ。

 一部の町の顔役が商人から小金を受け取って便宜を図っていたのはルクレティアも承知していて、それを将来のための布石として黙認していたはずだった。


「なにも叩き潰そうというわけではありません。優位性を確立しておきたいだけです」


 きな臭さに顔をしかめて、続きをうながす。


「町のなかに不特定多数いる冒険者が、他の町や商人などと関わりがあるのは確かでしょう。あるいは私兵として飼っているだけかもしれませんが。そうしたものを駆逐することで、これを機にメジハのギルドを掌握したいと考えています」

「コソコソ動いてる奴らのしっぽをどうやって掴む。連中に対して餌になるネタが必要だろう」 

「私自身を使いましょう。凶状持ちの孫娘を失脚させて次の長になろうと狙っている連中も多くございますので」


 スラ子にとりつかれ、町で噂になるほど酷い目にあわされた体験を思い出すように口元を歪めてみせる。

 そのスラ子からの提案にうなずいたのは他ならない俺だったので、さりげなく相手から目をそらしながら、ふと思いつく。


「……まさかお前、今日のこともそれでか?」


 ルクレティアは薄い笑みを浮かべた。


「ご主人様のお許しがあれば、本日はここに一泊させていただければ嬉しいですわ。それでのこのこと現れる輩がいるかもしれません」


 許しもなにも、最初から狙っていたんだろうが。


 やれやれと思いながら周囲の顔ぶれを見渡してみても、特に不満そうな表情はない。

 ルクレティアからの提案に思うところがないわけではなかったが、あえて反対する理由まではなかった。


 隣に控えるスラ子に意識を向けると、いつものように賛成も反対もない気配を感じる。


「わかった。好きにしろ」


 こちらを見る令嬢の表情に苦々しく、俺はうなずいて了承をしめした。


 ◇


 様々な手配のために一旦町に戻ったルクレティアは、夕方ごろに再び洞窟にやってきた。


 表向きはカーラを伴い、洞窟内の様子の確認にやってきたということになっていて、遅くなりそうなら危険な夜は洞窟で過ごしてくるという段取り。

 初心者ダンジョンと揶揄されていた場末の洞窟とはいえ、女二人での調査とはいかにもなシチュエーションではあった。


 町の不穏分子、というよりルクレティアに与していない町の顔役たちの飼っている連中が姿をあらわすこともあるかもしれない。

 それでもしこの洞窟でなにかを嗅ぎつけられてしまえば俺の立場がまずくなる。


 つまり、自分を餌にするといいながら、実際には失敗したらお前もやばいのだぞとルクレティアは俺の背中をせっついてみせたわけで、どう考えてもまともな僕のやることじゃない。


 そのルクレティアは今、俺の部屋のなかで冊子にまとめた研究レポートを読みふけっているところだった。

 膨大な量の資料を斜め読みにしていく才腕の横顔を憮然として眺めていると、


「なにか?」


 目線をあげもせずに玲瓏な声がいった。


「いや、別に」

「なにかあるのでしたらはっきりとおっしゃってください」

「別にっていってるだろ。……ああ、やっぱり聞いておく。ルクレティア、お前、焦ってないか?」


 頁をめくる手がとまり、長い睫毛がこちらを向く。


「焦る?」

「ああ。顔役連中の懐柔は今までじっくりやってきたことだろう。それを急に、自分を餌にしてまで行動を起こすってのは、なんというか。らしくない気がするんだが」


 それはもちろん、俺がアカデミーに向けて洞窟を離れるからということも理由ではあるのだろうが。果たしてそれだけか?


「焦って行動してもいい結果はでないんじゃないか」

「……そうですわね。焦るとろくなことはありません。胸にやっかいなものを押されてしまうことにもなりますし」


 自虐するように口元を歪めるルクレティアに、


「それに、他の町のことだって。締め出すだけが方策じゃあないだろう? お前なら、むしろそういう連中だって取り込もうとするんじゃないか。勝手な想像だけどな」

「勘がいいのか悪いのか。よくわからないご主人様ですこと」


 少し意外そうに、ルクレティアは手もとの書類からこちらへ姿勢を向けた。


「なぜさきほどそれをおっしゃらなかったのか不思議ですが」

「今、思いついたんだからしょうがないだろ」

「そうですか。……そうですね。焦る、というつもりはありませんが、早めに対処しておきたいというのはあります」

「竜騒動で、これからなにがあるかわからないからか」

「対応できる体制にしておきたいというのは、それです。加えて申し上げますと、他の町や商人の方々は先日の竜でこれからも金儲けを続けたいと考えているのでしょうが、そちらについても私は否定的ですので」

「そうなのか?」

「ジクバール様が帰還され、“竜”に関わる主導権は領主様に渡りました。先日のお触れなどまさにその証。これから先、竜を利用した如何なる行動にも領主様のお許しが必要になるでしょう」

「商売もか」

「領主という輩は、金になりそうなものがあれば貪欲に目をつけてきます。当然、竜を利用した商いにも税がかけられるでしょう。こんな商売ははじめに稼げるだけ稼いでしまい、あとはさっさと畳んでしまうべきなのですわ」


 妖精の鱗粉を町の基幹産業に、などといってきたことのあるルクレティアだったが、先日の竜騒動での一件を恒久的なメジハの町興しに利用しようとはしていなかった。


 それは単純に、俺がそういうのを嫌がるだろうと考えていってこないだけだろうと思っていたのだが、


「ご主人様の好みはもちろん考えましたが、個人的に恐ろしいというのもあります」

「恐ろしいって? お前が?」


 なんともルクレティアらしくない台詞だった。


「それほどまでに竜の影響は大きいということです。ステータスや武威云々ということはお話しましたけれど、一個の経済資本として見ても破格に過ぎます。メジハ程度、竜がもたらす経済流通の波の前に一発でさらわれてしまうことでしょう。いくら途方もないリターンがあるからとはいえ、身に負えないリスクを背負うのは愚者のすることですわ」

「案外、手堅いんだな」


 俺なんかよりよほど頭のまわるルクレティアのことだから、どんなリスクをも物ともせず、莫大なリターンを手中にするものとばかり思っていた。


「他人事のようなおっしゃいようですが。ご主人様、これはこの先もついてまわる問題ですわ」


 視線を細めたルクレティアがいってくる。


「死んだ竜にさえこれだけの影響力があるのです。こちらの山上にどなたがいらっしゃるか、まさかお忘れになったわけではないでしょう」


 俺は思いっきり顔をひきつらせた。


「ストロフライを利用? 冗談でも笑えないぞ」

「実際にそうした方がいらっしゃるではありませんか。そうしたことを考える者が他に現れてもおかしくはありません。そうした場合、まずはじめに竜の怒りを受けるのはどこです。ここは竜の麓の洞窟で、メジハは竜の麓の町なのですよ」

「本当に、笑えないな……」

「あまり悠長にしていられないと私が考える理由は、わかっていただけましたかしら。それとも、私がギルドを掌握することにご懸念をお持ちですか」


 ギルドは町の自衛戦力だ。

 特に戦力がそれだけに限られる小さな集落の場合、そのギルドを掌握するということは町の権力を握ることにも等しい。


「町のことは。お前に任せるっていっておいただろ」


 嫌そうな俺の顔を瞳孔に映して、くすりと冷たい気配でルクレティアが笑う。


「ありがとうございます。しかし、ご主人様。そうなれば貴方は小さいとはいえ一つの町を支配することになるのです。もう少し喜ばれてはいかがですか?」

「俺は洞窟が平和ならそれでいい」

「あら。妖精族の森はどうなってもよろしいのですか?」


 む、と顔をしかめる。


「よくないに決まってるだろう」

「ストロフライさんにちょっかいをかけてくる連中がいたらどうしますか」

「…………」


 相手がなにをいいたいのかわかって沈黙する俺に、ルクレティアがからかうように続ける。


「貴方様はこの辺り一帯が開拓され、人間社会化されることを好まれておりません。そうですわね?」


 聞いておきながらこちらが答えるよりはやく、


「ならば、そうならないよう貴方が支配してしまえばいいのですわ。竜についても同様です。とち狂った愚か者が手をだしてこないよう、貴方が竜域の保護者になればよろしいでしょう」


 馬鹿げたことをさも当然というふうに、金髪の令嬢はいってのけた。

 しばらく声もなくその表情を見つめてから深く息を吐く。


「お前なあ――」


 ふと、ルクレティアの視線が扉を見た。


 ……この流れにはなんとなく既視感みたいなものをおぼえる。

 息を殺して様子を見守っていると、


「わあっ!」


 いきなり扉が開いて部屋の外からカーラが倒れこんできた。

 床に滑り込むようにして、あわてて起き上がった顔が耳まで真っ赤になっている。


「ごめんなさい! ボク、そんなのじゃなくて! 廊下を歩いてたらスラ子さんとスケルさんが扉の前にいたから、それで――ああ、二人ともいない!?」


 振り返った先に誰もいないのを確認して悲鳴をあげる。


「ああ、いや、カーラ――」

「ごめんなさい! ルクレティアも、ごめん! 失礼しますっ!」


 そのまま短髪の少女はこちらが呼び止める間もなく、脱兎のごとく駆け出していった。


 ばたん、と閉められた扉を見つめてから、ルクレティアを向くとなにか思案するように顔をしかめている。


「……ご主人様。まさかとは思いますが、カーラや、他のどなたかと閨のご予定があったわけではありませんよね?」

「いや。そんなのあったら、お前を部屋にいさせたりなんかしないだろ」


 当たり前のことをいうと、じっとこちらを食い入るように見つめた令嬢が、はあっと嘆息した。


「なんだよ。馬鹿にしたみたいなため息して」

「馬鹿にしているのですから当然でしょう。……これでは私があてこすりでもしていたようではないですか、腹立たしい」


 不機嫌そうにいって、ルクレティアは手に持っていたレポート冊子を押しつけると立ち上がった。


「もういいのか?」

「興が醒めましたわ、このスカタン様」


 どうして俺は悪口をいわれてるんだろう。


「失礼します。おやすみなさいませ」


 ばたんッ、と乱暴に扉を閉めてルクレティアは出て行った。


「……なんだあれ」 

“なかなか面白い見世物でしたよ”


 昨日からほとんど聞こえてこなかった声がいきなり脳裏に響いて、思わず飛び上がる。


「なんですか、いきなり。ずっと黙ってたのに」

“いえね、目の前の会話に聞き入ってただけでして”


 どうやら気楽に人間観察なんぞやっていたところらしい。


“細々といろんなことを考えるものだなと、感心してましたよ”

「そりゃよかった」

“ええ。人間の些細な行動に気を配るなんて今までありませんでしたからね。それに、あのお嬢がどうしてマギさんを気に入ってらっしゃるのかも、少しわかったような気がします”


 ああそうですか、と簡単に流しかけて、さっきまでルクレティアとぶっそうな会話をしてしまっていたことに気づいた。


「あの、イエロさん。さっきのやりとりですが、あれは別にそんなんじゃなくてですね……」

“さっき? ああ、別にかまいませんよ”


 竜を利用だなんだと、逆鱗に触れても仕方のなさそうな言葉の応酬に、それを聞いていた竜の若者はあっけらかんとしていった。


“人間ごときがなにをいっていようと腹なんかたちません。お嬢の楽しみを奪うつもりもないですし”


 相手にされてないどころではない発言だが、彼我の能力格差を考えればむしろ当然なのだろう。


 ほっとしたような、ちょっとむっとしたような気分で、俺は相手へやりかえす台詞を考えて――なにも思いつかなかったので、黙って灯りを消して寝台に飛び込む。


“おや、今日は一人で寝るんですね” 


 竜の問いかけを無視して、眠りについた。



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