三話 精霊という存在
洞窟にもどると、入り口周辺に人の気配はなかった。
ルクレティアがいっていた密偵とかの影は見えないが、どこかから様子をうかがっていることもありえる。
それを察知する技量も魔力もないので、俺はしばらく洞窟に入れず、そうこうしていると入り口から見知った人物がひょいと顔をのぞかせた。
「おかえりなさい!」
スラ子が嬉しそうにこちらにやってくる。
「おい、待て。出るな!」
慌てて俺のほうから近寄っていく。
飛びつかれてよろめき、ひきずるように洞窟へと戻りつつ、
「……ちょっとは人の目を気にしろっ。ルクレティアから聞いてないのか?」
「ルクレティアさんですか?」
きょとんと小首をかしげられる。
ああ、そうだった。
洞窟で丸くなってイジけてたスラ子が話を聞いていなくても仕方ない。
「変な連中がうろついてるらしい。洞窟の様子も探ってるかもだと」
「あ、そのことならさっきシィから聞きました」
大丈夫です、と胸を張り、自信満々にスラ子はいいきった。
「近くを歩いてる人のことならすぐにわかります!」
「わかる?」
探知魔法でも使ってるのだろうか。
「いえ。ええと、なんというんでしょう。自然とそうしたものが知覚できるといいますか――精霊さんってそういう感じみたいで」
「……詳しく聞かせてくれ。戻りながらな」
脳裏にルクレティアの言葉を思い出した。
数日前にこのあたりにあったという大雨と地震。自然を司る、精霊の力。
「マスター? どうかしましたか?」
「いや。それより、わかるっていうのは、どこでもそうなのか」
「自分の周囲です。どのくらいの距離まで、というのはちょっとあいまいですけれど……正確に測ってみたほうがいいでしょうか」
「ああ、いや、今はいい。それっていつぐらいからだ?」
「この湖の管理を試みたあたりから、だと思います。多分ですが、精霊さんのいう“管理”というのは、そういうことなんじゃないかと思います」
「知ること、か」
「はい」
洞窟の入り口からすぐ先に広がる湖を振り返りながら考える。
ということは、洞窟地下の探索から戻ったあたりからだ。
そういえばと思い出す。あの時、スラ子は精霊のことが少しわかったといっていた気がする。
「あの、マスター。なにかいけなかったですか?」
恐る恐るといった表情に見上げられて、
「――いや。管理っていっただろ。それって、ノーミデスと競合しないのかなってちょっと思いついたんだ」
スラ子は湖の水精霊と、地下でマーメイドたちをそそのかしていた土精霊を取り込んでいる。
誰かが歩いているというのがわかるというのなら、それは恐らく後者の領分だろう。
ノーミデスは洞窟の管理者だから外は関係ないのかもしれないが、そもそも精霊たちのいう管理や、その領域といったものについてがよくわからない。
俺の知識不足でもあるが、そもそも精霊という存在が竜ほどではないにせよ謎ではあるのだ。
「いえ。そういうことでは、ないはずです」
んー、とスラ子は首をひねった。
「説明が……難しいですね。精霊さんたちの自我というのは、完全に理解できるわけではなくて。多分、在り方が特殊だからだと思いますが、もっと自分を近づければ、わかることもあるかもしれませんが――」
「いや、いい。そんな必要はない」
思わず強い口調でさえぎった。
「お前はお前だ。無茶はするな、絶対に」
「……やっぱり、なにかありましたか?」
スラ子が眉をひそめる。
俺は息を吐いて、
「最近、身体の調子はどうだ」
「不調は、ありません」
「本当だな?」
「本当ですっ。あ、マスターがいないあいだは寂しくて死んじゃうところでした」
頬をふくらませる相手をじっと見つめて、とりあえず嘘はついていないようだと感じた。
「俺がいないあいだ、地震とか大雨があったみたいだな。洞窟は大丈夫だったか?」
「地震があったんですか? 雨はちょっと、ずっと洞窟にいたのでわかりませんが……とりあえず、地震でなにか落ちたり壊れたりはしてないと思います」
自覚がないのか?
――いや、まだスラ子が直接の要因だと決まったわけじゃない。
それが逃避のための思考になっていないか自分をうたぐってから、外にもらさずにもう一度息を吐いた。
とにかく、少しスラ子の状態について考えてみよう。
地下で土精霊を捕食して特に不調な様子もなかったし、ここ最近は竜騒動もあってろくにスラ子のことに気を回す余裕がなかった。
ようやく落ち着いてきたところでストロフライにさらわれ、さっきのルクレティアの口調ではまた近いうちになにかしら起こりそうな気もするが、一息くらいはいれられるはずだ。
……あの口の悪いエルフが去り際にいったこともある。
精霊云々も含めて、一度じっくりと整理してみるべきだろう。ノーミデスにも話を聞いてみたい。
「マスター?」
「いや。ちょっと、お前のことが気になってな」
ぱちくりとまばたきしたスラ子が身を離して、艶やかに微笑んだ。
「ふふー」
改めて抱きついてくる。
「なんだ、重いぞ」
「なんだか嬉しい台詞でしたっ」
「そうか。よかった。とりあえず自分で歩いてくれ」
「嫌です! 四日分のマスター成分を補充しますっ」
「昨日あれだけひっついてたろ!」
ぎゃあぎゃあとわめきながら、ふと思いつく。
頭のなかにいる相手は、さっきから俺たちの掛け合いにまったくなんの反応もしていなかった。
ストロフライと関わりがないことには興味もないということなのだろうが、ひたすら黙っていられるのもなんとなく不気味ではある。
頭のなかで他人の声がするなんてひたすら迷惑なのでありがたいのだが、だったら始めから終わりまで黙っててくれればよかったんだ。
ストロフライがわざわざスラ子に声をかけてまで竜の住処に連れて行かなかったことをすっかり忘れて、俺はそんなことを考えていた。
「管理とはなんぞやー? んん、哲学的ぃ」
すっかりノーミデスの寝室に化した感があるスライム飼育部屋。
夜、枕代わりのスライムに抱きついたノーミデスに訊ねると、褐色の土妖精は間延びした声で答えた。
「あらためて聞かれると難しいかもね~。お仕事だし、あたしたちの存在する理由でもあるわけだしー」
「ノーミデス。お前の仕事に、スラ子のやつが迷惑かけてたりはしてないか? 管理とか、縄張りとかさ」
「スラ子ちゃん? ああ、そういうことぉ」
俺の聞きたいことを悟ったようにうんうんとうなずいて、
「別に大丈夫ー。あたしたち、そういうのうるさくないから~」
「でも、前にお前の同族は、マーメイドをそそのかしてお前の縄張りを奪おうとしてたじゃないか」
「ああ。あの子はね~」
ふう、とため息をつく。
「んーとねえ。管理っていうのは結局、自分自身なのよぉ。だから、管理する場所だってどこからどこまでだなんて決まってるわけじゃないの~」
わかるようなわからないような説明に渋面になる俺に気づいたらしく、
「ここと」
すぐ足元の床を指差して、
「そこ」
そこから少し前の床に指先が移動する。
「たいして違わないでしょ? 別に線なんてひかれてないしー」
さすがにこれでわかっただろうと得意げな顔を見せつけられて、俺は理解した。
この土精霊は説明がとても下手だ。
「ええと……つまり、領域とか、縄張りとか。そういうのは元々ないようなもんなのか?」
「そぅいうこと~。自分が思う分が自分。そういうもんでしょお? だってあたしたち、自然の一部なんだからー」
といわれてもあんまり理解できる感覚ではない。
それは恐らく物欲や所有欲がない精霊だからこその考えなのだろう。
自分という在り方、自我の根本がまず違う。
食べること、寝ること。生きること。奪うこと。
そうした様々な欲望で自己と他者という壁を作り出している人間や、その他の種族とは決定的な差がある。
だが、だとしたらいっそうあのスラ子に捕食された土精霊が異端に思えるのだが、
「だけど、あの子はそういう自分から切り離されてしまったのね~」
ノーミデスはいった。
おっとりとした表情が珍しく沈鬱そうで、
「だから、無理にでも求めるしかなかったのよー。失った自分を余所に見つけようとしたの~」
「……自然の一部なんだろ? なら、失ってもすぐに見つかるんじゃないのか?」
「あたしたちは自然の一部だけど、自然はあたしたちじゃないもの~」
疑問に対する回答は、やっぱりよくわからなかった。
それからも色々聞いてはみたが、結論はやはりおなじ。
――よくわからん。
ノーミデスの説明下手に加えて、そもそも人間と精霊で在り方が違いすぎる点もあるだろう。
長々と哲学問答みたいなやりとりをした結果、最大の収獲はそれだった。
精霊は違いすぎる。
だとしたら、その精霊の在り方を理解できるスラ子の心境はいったいどんなものだろう。
スラ子の価値観は、記憶や知識の元となっている俺、つまり人間のそれがベースになっているはずだ。
それに、不定形というスライムの特殊な在り方。さらには身体のなかにとりこんだ精霊の力と意識――
あまりにも、不安定すぎる。
俺は最近あまり考えなくなっていた不安を思い出さずにはいられなかった。
数日、一緒にいなかっただけで情緒不安定になったスラ子。
実際の是非はともかく、その結果として力を暴走させてしまうなんていうのはいかにもありえそうな話だった。
つまり、スラ子を安定させているのは俺という創造者の存在であって。
そのことが内包する問題は、スラ子が生まれて二ヶ月たってもなにも解決していない。
問題を解消するためにいったいどうすればいいかもわからなかった。
俺は眠たげなノーミデスに礼をいって自室に戻った。
寝台に飛び込んで考えるのは、スラ子のこと、精霊のこと。
――お前らは世界の敵だ。
銀髪の口悪エルフ、ツェツィーリャの台詞が脳裏によみがえる。
うるせえよ、と毒づく。
それはただの八つ当たりで、一番腹が立つのは、そんなわけあるかと心の底から否定できない自分自身への苛立ちだった。
俺は、俺が作ったスラ子が何者かわからない。
――間違いないのは、俺にとってスラ子が大切な存在だってことだ。
それだけは絶対に譲るつもりはない。
「イエロ、さん?」
ふと頭のなかにいる相手のことを思い出して口に出してみる。
“なんでしょう”
もしやと期待しかけて、声はあっさりと返ってきた。
「……やっぱりいるんですね」
“いったりきたりしてるわけでもないですしね”
「今、本体は竜の里にいるんですよね。むこうとこっちで声をかけられたら、テンパったりしないんですか」
竜ならそのくらい対応は簡単なのだろうかと思ったら、
“ああ、いや。ここにいる自分と向こうはもう別モノですから。今の自分は、――そうですね、日の光を直射で見たらしばらく視界に影が残るでしょう。あんなようなものなんですよ”
「じゃあ、そのうち消えたり?」
“人間の時間でどのくらいかは知りませんがね”
絶望的なことをいわれたような気がした。
いよいよストロフライに泣きつくしかなさそうだ。
竜に頼みごとなんて殺されたって仕方ないが、今回に限っていえばストロフライだって無関係ではないのだし、無下にはされないだろう。
世界巡りから帰ってきた黄金竜の機嫌が悪かったらどうなるかは定かではないが。
「そういえば、頭のなかでは会話できないんだな」
“うるさいのは嫌いなんでね”
できないのではなく、やらないだけらしい。
まあ他人の頭のなかをのぞいたらさぞうるさいことだろうとは思うが、勝手に身体にとりついてるくせにそんなことをいうのもどうかと思う。
“それに、そういうのはお嬢が嫌いそうですし。自分もお嬢の怒りを食らうのはごめんですよ”
「会話のために独り言なんて、ますます怪しい……」
俺はさっきのやりとりも聞いていたはずの相手に訊ねた。
「竜にとって精霊はどういう存在なんでしょう?」
本来なら、竜を相手取った会話なんてできるはずもない。
だが今は相手が勝手に俺の頭だか目のなかにいるわけで、だったらそのくらい図々しくしたって罰はあたらないだろうと思って聞いてみると、
“それを聞いても理解できないでしょうよ”
淡々とした声がいった。
“人間と精霊のように、人間と竜も違う。さっきの土精霊の言葉はなかなか興味深かったですが、竜と精霊もまた違いますから”
とてもわかりやすい、模範的な回答だった。
だがそんなありきたりな言葉だけではせっかくの問答の意味がない。
さらに質問を重ねようとしたところに、こんこんと扉を叩く音がした。
「どうぞ」
開かれた扉の先にあったのは、シィと、その両腕に抱かれた丸い水槽のなかで水浴びしているドラ子の姿。
「シィ。起きてたのか。どうした?」
「……甘えて、きなさいって」
なぜか恥ずかしそうなシィの表情を見て、スラ子の差し金だと気づく。
昨日はスラ子だったから、今日はシィたちらしい。
「ああ、じゃあ、三人で川の字になって寝るかー。って、ドラ子は水槽のなかで寝るんだから無理か」
こくりとうなずいたシィがはいってくる。
“人間というものは、なかなか多彩な夜を過ごすのですね”
感心したような竜の台詞を完全に無視して、俺はベッド脇のデスクを片付けて水槽用のスペースをつくった。
水をこぼさないよう慎重に水槽を置いたシィが、おずおずとこちらを見上げてくる。
そう広くもないベッドにシィを手招いて、二人で親子のように並んだ。
枕元のドラ子を見上げてから、
「寝ながらなにか話すか。竜の里のこととか、聞きたいか?」
器用に妖精の羽をたたんで横になったシィが黙ってうなずく。
「よし。じゃあまだ他の誰にも話してない大冒険について今、二人にだけ語ろう。これはすごいぞ、なにせ竜が百匹とかいてな、しかもストロフライの父親ってのがまた強烈で――」
山賊みたいな人型の顔つきと、山のような竜の姿を脳裏に思い出して。
ずきんと頭が痛んだ。
「ううっ。どんどこ……!」
“病んでますね”
頭のなかから合いの手を受けつつ、きっと普通なら誰も信じてくれないような話をしながら一晩を過ごした。