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八話 恐るべきスラ子

 自室に戻った俺のもとにスラ子がやってきたのは、話し合いの続きは明日に、と食卓で解散してしばらくしてからだった。


 ダンジョンの隠し扉から続く生活空間の一つが、ひとまずスラ子とシィの部屋ということになっている。ろくな家具もおいてやれない甲斐性のなさだが、そこは今後の努力といったところだ。

 恐らく今日の分の「食事」を終えてきたのだろうスラ子は、どことなく血色のいいように見える肌つやで、


「マスター。ご報告というか、ご相談というか。もしかしたらというような話なんですが……」


 俺は眉をひそめた。


「どうした? なにか問題か?」


 シィになにかあったのだろうか。

 シィの存在はスラ子の維持のためだけでなく貴重な収入源としても重要だ。陽気な妖精らしくない暗い表情を思い出しながら訊ねると、


「ええとですね。今、シィからもらってきたところなんですけれど。やっぱりあの子、とても感じてしまうみたいで」

「……そりゃ、なんつうか。よかったな」


 そうとしか答えようがない。

 はい、と微妙な感じにうなずいたスラ子が続ける。


「お昼のこと、おぼえてますか? 鱗粉を採取したときです」

「鱗粉?」

「はい。私が気をひいて、そのあいだにマスターが採取した。あのときも、シィはとても敏感でしたよね」


 ああ、と思い出す。

 たしかに採取が終わったあと、シィはほとんど気を失ってしまうくらいにぐったりしていた。


 それがどうかしたのか、という視線にスラ子はうなずいて、


「マスターは、私の身体は私の意志で変化するとおっしゃいました。それも一つの魔法だって。それで思ったんです。もしかしたら、私から分泌されるものに、なにかそういう効用があるのかもしれません」


 分泌。効用。

 ようやく俺にも、スラ子の伝えたいことが理解できた。


「――媚薬か」

「はい」


 スラ子はこくりとうなずく。


「自分でそう意識しているつもりはないんです。けれど、相手から吸収しやすいように、無意識に。そういうふうになっちゃってるのかもなあって」


 なんてこった。

 スラ子の冷静な考察を聞きながら、俺は愕然としていた。


 シィの容態を考えればたしかにその可能性はある。

 身体を維持するために必要な魔力を得るために、相手をその気にさせる。

 スラ子のような生態の生命体からすれば、備わっても妥当といっていい機能かもしれない。自然界にも、魔物にもそういう種はいる。


 それにしたって――目の前の人型スライムを恐々と見つめた。

 そんな能力まで発揮するなんて。それじゃあ、ほとんどサキュバスだ。吸精能力というのは、たしかに決してマイナーなものではないが。


 自分の意思、あるいは無意識で自分自身を変化させるということは、想像以上にとんでもないことかもしれない。


 あらためて底が知れない相手を見ながら思う。

 やっぱり、研究は新しいことに取り組むのではなくて、しばらくスラ子の経過を見ることに専念した方がよさそうだ。


 スラ子は安定しているように見えるが、気になることがないわけじゃない。それは、なんの根拠もない、勘みたいなものだったけれども。


「といっても、シィの様子を見ていて、もしかしたらと思っただけなんです」


 スラ子がいった。


「そうだな。そうじゃない可能性だってあるか。きちんと確かめてみないとな」

「ええ、それで――」


 スラ子の瞳がすっと細まった。

 殺気のようなものを感じて、思わずあとずさる。


「……どうして逃げるんですか?」

「……どうしてにじり寄るんだ?」


 ふふ、とスラ子は上品で邪な笑みを浮かべた。


「マスター。確かめるっておっしゃったじゃないですか」

「俺を。実験体にしろなんて一言もいってないだろう」


 俺が右に動くと、スラ子も右に動く。


「これも研究のためなんですよ、マスター」

「嘘つけ、面白そうっていうだけだろうが」


 俺が左に揺れると、スラ子もあわせて揺れた。


 緊迫した空気。

 媚薬を盛られるなんて冗談じゃない。昼間のシィのあのありさまを目の前で見ていれば、俺は男として断固この不定形生命体の魔の手から逃れなければならない。


 昨日の悪夢のような出来事が脳裏によみがえった。ああ、と苦く思う。あのときからそうだったのかもしれない。昨日は気が動転していてそれどころじゃなかった。


「私はただ、またマスターの可愛い顔を見てみたいなって。それだけなんです」

「それだけって、そんなことでお前は人のトラウマを再燃させるつもりなのか」

「そんなんじゃ駄目ですよ、マスター。風俗王になるんでしょう?」

「やめろいうな。ちょっとテンションがあがってただけだ。あれは」


 無言でにらみ合う。

 ふ、とスラ子がなにかに気づいたように目線を動かした。


「マスター。あんなところに新種のスライムが」


 俺は相手の浅はかさを笑う。


「馬鹿が、そんなあからさまな陽動にひっかかるやつが――」


 得意げに台詞をいいおえる前にスラ子が迫ってきた。陽動、関係ねえ。


 唇がおしつけられる。

 避ける暇もなく触れる。

 なにかが口のなかに流し込まれた。


 まっしろになりかけた意識をひきもどして、俺はスラ子を無理やりひきはがした。


「う……」


 くらり、と視界が揺れた。

 嘘だろう。即効性にしたって効きが早すぎる。


 スラ子から与えられたそれは、ほとんど呪いじみた効果だった。

 心臓がバクバクいっている。頬が熱い。

 発生した熱量が、そのまま体中に伝播してさらに高まっていく。


「マスター、どうですか?」


 目を輝かせて訊いてくるスラ子が、やけに艶めかしく見えた。

 いつも自然な色気がある相手だが、今はそれが尋常じゃない。


「ムラムラしてしまいます?」


 声が遠い。スラ子の表情がやけにくっきりと映る。そのくせその表情は惑うように揺れていて、スラ子以外への視界は極端にせまい。


 やばい。これは、やばい。


「スラ子、お前――」

「大丈夫です、マスター」


 スラ子は悪魔じみた慈しみの表情で、


「さっきシィからもらったばかりですから。魔力をいただく必要はありません。普通に、可愛がってほしいんです。マスターに」


 完璧な角度で小首をかしげてみせた。


「――可愛がってくれませんか?」


 その媚びるような声。眼差し。


 だから、そういうのは、ずるいだろうが――


 思考にもやがかかる。

 ふらふらと足が動き出す。そのまま、誘われるようにスラ子へと近づいて、


「……ぼ――」

「ぼ?」


 スラ子が聞き返す。その綺麗な瞳をのぞきこむように、


「ぼっちなめんなあああああああ!」


 叫んだ。


「きゃっ」


 身をすくめるスラ子をにらみつける。


「暗黒のアカデミー時代をおくるうちに鍛えに鍛え抜かれた俺のぼっち力をなめんな! こんな程度のリビドー、気合でねじふせてやる!」


 細い肩をつかんでまわれ右させて、背中を押してそのまま部屋の外まで送り出す。


「帰れ! 寝ろ! おやすみ!」

「あ、マスター。待ってくださいっ」


 抗議の声をあげるスラ子を無視して、扉を閉めた。


「勝手に入ってきたら本気で怒るからな! 歯みがけよ! いい夢みろよ!」


 スラ子はまだ扉のむこうでなにか言っていたが、俺はそれを無視してベッドにもぐりこんだ。頭から毛布をかぶって、ひたすら眠れ眠れと脳に命令をおくる。

 身体のほうでは、俺はやるぜやるぜといきり立ち、二つの食い違った神経伝達に意識が悲鳴をあげる。


 ごろごろと部屋中をころがりまわたい衝動におそわれて、実際にベッドの上で身もだえながら、ひたすら発作がおさまるのを待った。



 何百匹とスライムを数えてもまるで眠れず、ようやく動悸と発汗が落ち着いてきたのは、もう夜明けも近い朝方のころだった。


「おはようございます」


 控えめなノックに続いて、シィが顔をのぞかせる。

 ベッドのうえからそれを見た俺は、にこりと枯れきった笑みをむけた。


「おはよう。……いいところにきた。今、最後の使徒に選ばれた勇者スライムこと大スラ吉37世が、幾多の艱難辛苦を乗り越えて、ついに魔王城までたどりついたところだ。一匹のスライムが導きの手によって、ついに最強の魔王と相対する。彼の冒険の結末を、シィも一緒に見届けてやってくれ……」


 眠れない夜に自我をたもつため、脳内で創作していた物語の一端を披露する。


 眉をひそめたシィがこちらにやってくる。

 おずおずと手を伸ばして俺の額に手をあてた。熱がないか心配してくれているらしい。


 細い腕の向こうに心配そうな妖精の顔があった。俺はかすかに鱗粉の発光をともす蝶羽に、シィの死角からそっと手を伸ばしてみる。


「ひぁっ」


 可愛い悲鳴。びりっとした痛みが流れる。


「動くな」


 命令すると、シィは懸命にこらえる表情になってうなずいた。

 痛みが続く。それを無理やり我慢しているうちに、少しずつおさまっていった。

 シィが慣れてきたところで指先をすべらせる。


「っ」


 きつく結ばれたシィの口から空気が漏れる。

 妖精の羽はとてもナイーブなところだ。しばらくのあいだ、くすぐるようにしてから手を放すと、シィがもの問いたげな視線でこちらを見上げてきた。


 かすかに非難するような眼差しに、火照った様子はない。


 ……やっぱり、スラ子のいったとおりか。


 シィをとても敏感にしてしまうのに、スラ子の分泌するなにかが関わっていることは間違いなさそうだ。

 あるいは、俺の手先が絶望的にへたくそだという可能性も――いやいや、ありえない。そんなことは死んでも認めないぞ。認めてたまるか。男として。


「すまん。シィ、体調はどうだ?」


 小柄な妖精は不思議そうに小首をかしげた。


「……体調。ですか?」

「ああ。昨日も、スラ子とあっただろう。大丈夫か?」


 間接的な表現に気づいたシィが頬を染めた。顔をうつむかせて。うなずく。


「終わったあと、なんかおかしなことにはならないか? 気分とか、体調とか。魔力を吸われてる影響ってのは、当然あると思うが」

「すごく――、疲れます。けど。少し休めば、大丈夫です。魔力も」

「そか」


 催淫効果以外になにか悪影響が残ったりしないか。それを心配したのだが、シィの返答の限りではそうした恐れはないようだ。

 いや、結論を出すのはまだ早い。これからもしばらくは様子を見てみないとわからない。


「なら、いい。なにかあったらいってくれ。頼む」


 不思議そうなまま、シィは小さくうなずいた。


 シィと一緒に部屋をでるとき、ふと思って俺は訊ねてみた。


「シィ。スラ子とのあれは、嫌じゃないか?」


 それでシィが嫌だといったところで、じゃあやめようとなるわけでもないのだから、その質問にはまったく意味がなかった。シィのことを思えば、聞くこと自体にデリカシーがない。

 失言に気づいて、でも取り消すこともできずに自分に悪態をついていると、


「大丈夫です」


 恥ずかしさに首まで赤くなりながら、シィは答えた。


「嫌じゃ、ありません。……一日に一度くらいなら」


 その返答は嘘をいっているように思えなかったので、スラ子の指先やら分泌液やらを素直に凄いなと思ったり呆れたりしながら、となりを歩くシィの横顔を観察する。

 羞恥心に染まる繊細な表情は、庇護欲をかきたてられるとともにまったく別の衝動も他人に沸き起こさせて、ひどく魅力的だった。


  ◇


「おはようございます、マスター」


 食卓に朝食の準備を整えていたスラ子の挨拶は、いつもよりつっけんどんだった。その顔には普段の笑顔がない。


「おはよう。なんでお前が怒ってんだ」


 怒っていいのはむしろこっちのはずだ。軽くにらむようにしていうと、


「マスターがいけずだからです」

「なんだそりゃ」


 ぺしん、とスラ子がテーブルに両手をついた。


「据え膳を食べないのは男の恥だと思います」

「その膳に堂々と毒を盛っといていうことか」

「毒なんかじゃありません、マスターがもっと気持ちよくなれるようにっていう、……誠意です!」

「そんなはた迷惑な誠意があってたまるかあああ!」


 思わず叫んでいた。


 む、と一旦ひいたスラ子だったが、それでもまだ不服らしく、


「だいたいマスターはおかしいです。男のくせに野獣度がたりません。もっとこう、自分の欲望に正直になってもいいと思うんです」

「そんなはじめて聞くような度数のことなんかいわれても知るかっ」

「媚薬のことだって。普通、そういうのがあるってわかったら、うおー、これを使って世界中の女を虜にしてやるぜーっなんて欲望の炎を燃やすのが男の人の器量だと思いますっ。マスターがどうしてそうなのか、ゼンゼンわかりません」

「俺は、俺の知識をベースにしてるはずのお前から、どうしてそんな発想が生まれてくるのかが心の底から不思議だよ」


 うめきながら、ほとんど恐れにも近い気分だった。


「だいたい、薬品とかそういうのはな、怖いんだぞ」


 身体に影響がでるということは、身体に不自然な刺激を与えるということだ。

 それはいい意味だけとは限らない。

 副作用、有害作用。そうした危険性は必ずある。


「――それは。そうですが……」 


 スラ子が言葉の勢いを弱める。

 ふと俺たちを不安げに見るシィに気づいて、俺はため息をついた。


「もうやめるぞ。飯がまずくなる」

「……わかりました」


 朝食は、黙々と静かなまま進んだ。


 元から無口なシィはともかく、スラ子が黙っているとなんだか非常に空気が重い。ぼっち経験が、昔の記憶を思い出させる。とても胃が痛い。

 仕方なく、


「スラ子」

「はい」

「俺は普通のがいい。だから、今度はもっと普通にきてくれ」

「……普通にしたら、可愛がってくれますか?」


 期待の眼差し。

 朝っぱらからどうしてこんなやりとりをせにゃならんのだと思いつつ、渋面でうなずく。


「普通ならな」

「わかりました。今夜はマスターに普通に迫ってみたいと思います」

「だからそれをやめろ。わざわざ夜這いを宣言するやつがいるか」


 ひとまず、それで場の空気がいつもに近づいたのがわかったので、俺はほっと息をはいた。


「それとだ。さっきちょっといったことだけどな」

「よくない作用、ですね」


 スラ子がいった。


「ああ。さっきシィにも確認したが、聞いた限りじゃそういうのはなさそうだった。けど、まだわからない。もしそれにひどい中毒性があったりしたら。俺は、そういうのは好きじゃない」


 はっきりと告げる。わずかに唇をかんで、スラ子がうなずいた。


「……はい」

「勘違いするな。責めてるわけじゃない。中毒性があるかなんてまだわかってないしな。ただ、気をつけておいてほしい。お前の意識と、無意識について」

「無意識?」


 ああ、と俺はうなずいて、


「お前の意思、願いに沿って自分を変質させる。それがお前の特性だ。だったら、お前はそれをしっかり自分で制御できるようにならないと駄目だ。能力に振り回されたりなんかしないようにな。今回の件は、そのいい練習になる」

「無意識に負けるな、ということですね」

「そうだ。無意識なんてもの、誰にだってあるもんだ。はっきりした定義だってあいまいなものだが、それは普通、即の反応を起こしたりはしない。だが、お前の場合はそれがダイレクトに反映されるから――」

「わかりました」


 こちらの危惧していることを理解したのだろう。スラ子は真剣な表情でうなずいた。


「ちゃんと、自分の意思で分泌できるようになります。もちろん、無害な形で」


 ……ちょっとずれてるような気もするが、まあいいか。


 催淫能力そのものは別に悪いわけじゃない。それに付随して、それもスラ子の意図しない形で、それが悪い結果をうむことが俺は不安だった。

 小心者が悪く考えすぎているのかもしれない。しかしスラ子の特性には現状、幅がありすぎて、作成した俺ですら困惑するようなところがあった。

 幅がある――それは安定していない、ということにも繋がるからだ。


 自分でもなにか思うところがあるのか、考えこむような表情で黙り込むスラ子と、さっきからのやりとりをじっと静かに聞いているシィ。

 なんとなくまた重くなってしまった雰囲気をどうにか明るくしようと口をひらきかけて、



「――――――――――ッ!」



 天を衝き、山を震わせる咆哮が鳴り響いたのはその瞬間だった。


「嘘だろ、おい……予定にはまだ二日もはやいじゃないか」


 頭を抱える。

 大音声にびっくりした顔のスラ子とシィが俺を見た。


 二人には、俺の顔色が死人のように青くなっているのがわかるだろう。

 決して近くないはずなのに、鼓膜どころか心胆を震わせる雄たけび。

 そのもたらす意味は一つしかない。


 それは生まれながらの支配者にして、絶大な魔力の塊。

 天衣無縫にして傍若無人。世界が自分を中心に回っているどころか、世界を回しているのは自分だとまで驕ってはばからない、しかしそれが許される力を持った絶対的な上級種。


 敬慕と恐怖をもって語られるその伝説の生き物は、しかし決して幻などではなかった。


 ヤクザが、くる……!



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