九話 魚人族の望み
釣り上げられたマーメイドが湖から引きずり出され、宙に跳ねる。
「……っ!」
スラ子が顔をしかめた。
相手を捉えていた腕が半ばで切断され、人魚の身体が放り出される。
右手に具現化した水の刃でスラ子の腕を切り落としたマーメイドは、慣性に従いそのまま空を泳ぎ、
「きゃっ」
すでにシィがレビテイトを解除していたせいで、したたかに尻を打ちつけた。
目の前に落ちてきたマーメイドの首筋に、鋭利に変化させた手先を突きつけたスラ子がささやく。
「はい。危ない真似はしないでくださいね。痛いことしたくないですから」
ぐ、と唇をかんだマーメイドの右手から魔力の水刃が消えた。
「……あんたたち、いったい何者よ」
不機嫌そうな声がいった。
「何者かもわからない相手にいきなり攻撃するのかよ」
俺が呆れていうと、綺麗な顔立ちのマーメイドははん、と鼻で笑って、
「蜥蜴野郎が一緒じゃない。それだけで敵だってことはわかるわ。どうして人間が――それに他に変なのも、リザードマンなんかと一緒にいるかって聞いてんの」
「別に敵ってわけでもないんだけどな。俺たちは地上の者だ」
「上の人間が、それこそなんの用」
「なんだか騒がしいみたいなんで、様子を見にきたんだよ。ご近所だからな」
「あら、そうなの。わざわざ嬉しいけれど、もう少ししてから来てくれたほうがよかったかもね。今あたしたち、越してきたばっかりでバタバタしてるから」
越してきた、といった相手の発言を俺は聞き逃さなかった。
「あんたら、違う場所からやってきたのか」
「そうよ」
「じゃあ、ここはリザードマンたちの縄張りだろう」
「ええ、そうよ」
胸を張るようにして魚人族の女はいった。
「だからなに? ここが誰かの縄張りなら、奪いとるだけよ」
弱肉強食。強いやつが正義。
それは魔物の世界ではごくあたりまえのことだ。
縄張りだって、弱い奴は奪われるのが当然の掟というものではあるのだが、
「……やけに好戦的だな」
「好戦的。人間がよくいうわ」
女は嘲るように笑った。
俺は肩をすくめる。
自分は魔物だなんてわざわざ強弁することでもないし、人間の野蛮さを否定をする気もなかった。
「ようするに、あんたらには話し合いだったりを持つつもりはないのか」
「そんな必要ある? あたしたちと蜥蜴、弱いほうが出ていくだけでしょ」
「あんたらとリザードマンたちだけならな。けど普通、世の中には第三者ってもんがいるもんじゃないか?」
人魚の整った眉が怪訝に細められた。
「第三者?」
「ご近所さ」
俺はいった。
「それまで普通にやってきた相手と、話も聞かずに勝手にやってきて暴れてる相手。どっちのほうに味方したくなるかなんてわかりきってないか」
俺の台詞の意味を理解した相手の目に敵意がやどる。
「脅してるつもり?」
「一般論だ。もう一回聞くが、あんたらは話し合いをするつもりはない。それが魚人族の決定だってことでいいんだな」
わざとらしく訊ねると、しばらく沈黙したマーメイドが憎々しげにいった。
「あたしの一存じゃ答えられないわ」
「なら、誰か取り次いでくれないか。俺たちは別にあんたらにケンカを売りにきたわけじゃないんだ」
「どうだか」
半眼で、マーメイドは首筋にあてられたスラ子の手先を気にするようにしながら、
「いいわ。あんたたちが水中にこられるなら、案内してあげるけど」
「悪い、無理だ。申し訳ないがここまで誰かに来てもらえないか」
水中で呼吸を可能にするという魔法はあるし、シィやスラ子、ルクレティアの一人くらい使える相手はいるかもしれないが、水中は魚人族のホームだ。
わざわざ自分たちが圧倒的に不利な環境に足を向ける必要はない。
「人間って不便ね」
馬鹿にしたようにいって、マーメイドはなにかいいたげな視線をこちらに向ける。
俺はスラ子にうなずきかけた。
意を受けたスラ子が首筋から手刀をはなすと、マーメイドは一気に水中へと飛び込んで、思わず身構える俺たちを振り返った。
「待ってて。今、偉い人を呼んでくるから」
そういって、とぷん、と音をたてて湖面に潜っていく。
マーメイドが残した波紋を眺めてから、俺は後ろを振り返った。
「みんな、無事か」
全員の無事を確かめていると、若いリザードマンがなにやらしゃーしゃいっている。
「なんだって?」
「なんで逃がした! って、すっごい怒ってる~」
「そりゃ、話が聞きたいからだよ。助力するとはいったが、お前らの殺し合いに参加するなんていってないぞ」
俺が答えると、通訳を介してそれを耳にしたリザードマンがさらになにかをがなりたてた。
「臆病者! ってー」
「臆病者でけっこう。殺し合いがやりたいなら勝手にやってろ」
だいたい、あんな下っ端を一人どうにかしたところで意味がないだろう。
「どうしましょう。さっきの話では縄張りを侵してきたのは魚人族さんのようですし、リザードマンさんたちが悪くないというのは間違いないですが」
「そうだな」
スラ子に答えかけて、俺はふと違和感に気づいた。
「……治さないのか?」
スラ子の右腕がマーメイドに切り落とされたままだった。
周辺の細胞を変化させて補っていない。
「あ、すみません」
いわれてはじめて気がついたように、スラ子が切断されていた右腕を新しく生やす。その表情が微妙にひそめられていた。
「どうした?」
「いえ、なんでもありません。それで、どうしましょうか」
こちらを見る表情にはもうさっきの翳りはなくなっていて、気のせいかと思い直して話を戻す。
まだ怒りのおさまらない様子のリザードマンをまあまあとなだめている土の精霊に、
「ノーミデス、この湖の管理は誰がやってる?」
「んー。今は誰もいないぃ。ちょっと前までは、ウンディーネちゃんがやってたんだけどぉ」
「上の、洞窟前の湖を管理してたあのウンディーネか?」
「そう~。最近見ないから、放置って感じー」
スラ子に捕食されてしまった、あのウンディーネだ。
「この湖の管理者は不在。お前が感じてた異常ってのは、そのことじゃないのか」
「んー。違うかもぉ。いなくなって薄まるんならわかるけど、別のがまざってる感じだからー。他に誰かいるんだと思うー」
スケルが首をかしげる。
「この湖以外に、水精霊さんがいるってことで?」
「そうとは限りませんわ」
ルクレティアの言葉にうなずいて、俺はいった。
「さっきのマーメイド。違うところから来たっていってた。ってことは、この湖はどこか外に繋がってるってことだ。連中はそこからやってきた。精霊ってのは、そこの土地の管理者かもしれない」
「でも、わざわざ違うところから攻めてくるなんて。……やっぱり、なにか理由があるんじゃないかな」
「そうだな。まあ、そのあたりも話を聞いてみないとわからないが」
そこで視線をノーミデスに戻し、
「ていうようなことを、そこのちび蜥蜴に上手い具合につたえてくれ。さっきからしゃーしゃーうるさい」
「はーい」
説得をノーミデスに任して話し合いに戻る。
「一応、戦闘への備えだけはしておくぞ。どうにも連中、余裕がない」
「いきなり襲われちゃいましたもんね」
「ああ。まあ、リザードマンと戦争状態ってことなら、ピリピリしてて当然かもな。油断するなよ、フィールド的には向こうに利があるんだ。シィ、全員にアンチマジックを」
「はい」
うなずいたシィの背中の羽が輝きだす。
「水中に引きずり込まれるなよ。カーラ、スケル、攻撃手段がなければ回避に専念してくれていればいい」
「……わかりました」
「了解でさ」
二人の返事に重なるようにして、
「――その心配はいらない」
声がした。
振り返ると、水面に浮かぶいくつもの顔。
一瞬、生首かと思ったが、もちろん違う。
いつのまにか、そこには大勢のマーメイドたちが姿を見せていた。
想像していたよりはるかに多い数の登場に、警戒に身体を強張らせる俺たちへ平淡な声がかかる。声の主は人魚たちの中央の女が発していた。
「上がってもいいか。わたしはこのままでもかまわないが、それではそちらが話しづらいだろう」
落ち着いた澄んだ声に、あわててうなずいてみせる。
「……ああ。頼む」
岸にあがったそのマーメイドは、ひどく姿かたちの整った相手だった。
鱗におおわれた尾びれはともかく、その上半身の異様な滑らかさに目が奪われる。
見た目こそ人間だが、その肌質は人間のものとはまったく異なる。
人間が長時間も水中につかってみれば、肌はすぐにふやけきってひどいことになってしまうはずだった。
「わたしはエリアル。こちらの者が無礼を働いたようで、すまない。地上の人」
相手を強く威嚇するのではないが、自然と惹きこんでしまう声音に、呑まれかけている自分に気づく。俺は息をはらって、
「いや。こちらこそ、いきなり呼び立てて悪かった。あんたは、魚人族の長か?」
エリアルと名乗ったマーメイドはゆっくりと首を横に振った。
「わたしは警護の者だ。すまないが、長には会わせられない。そちらのことが信用できるわけではないからな」
「いや、問題ない。長くらいできそうな相手に見えただけだ、気を悪くしないでくれ」
「褒められたのかな。それとも人間族の冗談か。よくわからないが、ありがとうといっておこう」
薄く微笑する。
ひどくあっさりとして魅力的な表情だった。
「それで。この近くに住む者として、我々に話があるということだったが?」
「……ああ。実は、」
器の差というやつか、話のはじまりからしてすでに向こうにペースを握られてしまっている感がある。
背後からの視線を感じながら、
「あんたたちとリザードマンたちの争い、なんとかならないもんか」
「なんとか、とは?」
「話し合いをもつような考えは?」
美形のマーメイドはゆるやかに首をかしげて、
「もしわたしたちにその気があったとして。リザードマンたちはそれを聞くのか? そちらの様子をみれば、とてもそうは見えない」
俺の背後では、若いリザードマンがしゃーしゃーと息巻いている。
「連中、自分たちの縄張りを奪われてるんだ。興奮だってするだろう」
「その気持ちはとてもよくわかる」
とマーメイドはいった。
「わたしたちもそうだったからだ。だからこそ退くわけにはいかない。生きるために必死なのも、わたしたちも同じだから」
「……元いた場所で、なにがあったんだ?」
「別にたいしたことではないよ。襲われ、敗れ、追われた。よくある話だ」
淡々とした口調に無念さがにじんでいる。
「それで、ここまで逃れてきたわけか」
「そうだ。一族が生きるには大きな水域が必要だ。ここはとてもいい。見つけられて幸運だった――むろん、先住者にとっては迷惑でしかないことは理解しているが」
「それでも、退く気はない?」
「群れには傷ついた者や、身重の者もいる。ここから出ていくわけにはいかない」
俺は息を吐いた。
目の前の相手は決して粗暴ではない。
自分たちの非礼を自覚したうえでそれでも意見を曲げないのは、覚悟しているからだ。
マーメイドたちが、群れを生かすために新しい場所での生活を求めることをいったい誰に責められる。
もちろん、リザードマンたちが自分たちの縄張りを侵されて怒るのだって正当な権利だ。
どちらにも言い分がある。
勧善懲悪なんてもので割り切れるほど、この世の中は単純じゃなかった。
「地上の人、わたしたちは決して争いを求めているわけではない」
静謐な眼差しでマーメイドがいった。
「この湖。そして水中への一族の居住を認めてくれさえするのならば、決してこれより先の領域を侵すことはないと約束しよう。もし仲介を望むのなら、そのことをあちらに伝えてほしい」
「それが譲歩の条件か?」
「そうだ。それ以上は求めない。こちらに非があることも承知している。だからそれだけがわたしたちの望みで、そこだけは決して譲れない」
強い意志の込められた口調。
駆け引きでもなんでもない条件の提示に、なにか余計なことをいうのもためらわれた。
「……わかった。伝えるよ」
「感謝する」
微笑み、マーメイドはちらりと俺の隣――恐らく、まだ激昂を続けている若いリザードマン――に視線を送り、それから吹っ切るように視線を戻して、
「なにかあればわたしを呼んでくれ。警護の者にはよく言い含めておくから」
「ああ、わかった」
「それでは。――ああ、それから」
背中をむけかけた相手が途中で動きをとめて、
「隣人として。これからの付き合いがあるのなら、もちろんそちらに迷惑をかけたりもしない。わたしたちはただ静かに暮らしたいだけなんだ。そのことだけは、わかっていてほしい」
マーメイドは真摯な表情だった。
「わかったよ」
「ありがとう。では、また」
「――あ、待ってくれ、ひとつ聞き忘れてた」
「なんだ?」
「あんたたちをここまで導いたのは、精霊か?」
俺の質問に、相手は微笑を浮かべただけで答えなかった。
音もなく水中に入り、潜る。
それまでじっとこちらを見守っていた残りのマーメイドたちが続き、あとには無数に小さく波立つ波紋だけが残った。
「マスター」
誰かの声に振り返る。
スラ子たちがそれぞれの表情でこちらを見つめていた。
俺は一歩、彼女たちに近づきながらうなずいて、
「――すごい美人だったな」
全員から殴られた。