二話 人身蛇体にして欲高く
魔物アカデミー。
人間以外の生き物――魔物たちに存在する、唯一の意思共同体。
その組織が「魔物」の範疇に含まれる種族の多種多様さにくらべて、ひどく小さな規模に留まりつづけているのには、その魔物という在り方自体が深く関わっている。
魔物とは元来、自分勝手な生き物だ。
自分が大事。自分が一番。味方といえるのは身内だけ、場合によっては同じ種族同士で争いもする。これは人間だってそうだが。
たとえばあの竜族に代表されるような圧倒的な存在が、好んで他と並び立とうとするなどありえないし、森の民エルフは筋金入りの孤立主義の徒だ。妖精たちはただ楽しければ満足だし、精霊は自分の生まれた場所の魔力が整っていればそれで事足りる。ゴブリンやオークは誰かを襲い、孕ませることしか頭になく、もちろん、スライムなどのように知性がないものだって大勢いる。
アカデミーに与する魔物の数は少なく、魔物たちのあいだでそれはどこまでも非主流だった。
逆にいえば、アカデミーに属する魔物は次のどちらかということになる。
自分が強者ではないという自覚があるもの。
あるいは集団の強さを知り、それを利用しようとするもの。
よくいえばそれは人間という最大の敵性勢力、その力の意味を心得ているということだが、悪くいえば群れなければ戦うことのできない魔物の恥さらし。そういうやつだっている。
そのアカデミーから派遣された査察員である女性は、カーラがお茶を入れて持ってきたのを見て、
「ありがとう」
丁寧だが堅苦しさのない口調で笑いかけた。
他人との応対に慣れた仕草。仕事としてそれをしているのだから当然の技能ではある。
人の上半身と蛇の下半身を持つラミア族には美形が多いことで知られているが、それは同時に彼女たちの特性を示してもいた。つまりその美貌を武器に獲物を捕え、食料にして、繁殖の糧にもする生態を。
「いえ、どうぞっ」
他種族の同性にさえ魅力的な表情に、見とれかけていたカーラがあわてて返事をする。
お盆を抱えてさがる後ろ姿を見送って、女性はこちらに意味ありげな視線を送ってきた。
「可愛らしい方ですね。人間を雇われたのですか?」
「我々の『身内』になったばかりです。カーラという、ウェアウルフの血をひいてます」
「それはそれは。同胞が増えることは喜ばしいことです」
言葉以外の本心を悟らせない笑顔で、女性はティーカップを一口した。
俺の隣にひかえるシィを見て、
「一月のあいだにずいぶんと様変わりしたご様子で、正直、驚いています」
「まあ、色々とありまして」
「色々。ぜひ詳しくお聞きしたいですわ」
カップの奥から一瞬、文字通りの蛇の目が縦長の虹彩で俺を見た。
――いきなり来た。
「……妖精、シィは。近くで倒れていたのを拾ったのが縁で、一緒に住むことになりました。それからですね。カーラの件もあって、この一月はバタバタしていました」
俺はせいぜい顔面に愛想笑いをはりつかせて答える。
意図的にぼかした回答に、吟味する時間をもたせるようにティーカップを傾けてから、女性が口を離した。
「なるほど」
納得というよりは保留の声。
「洞窟の渦が前回より格段に落ち着いているのも、なにか関係がありますか?」
もちろんそのことについては聞かれるだろう。
俺は不自然にならないよう、全開で頭を働かせながら、
「二週ほどまえ、町からやってきた人間と小競り合いがありまして」
「戦われたのですか?」
女性がはじめて表情を変え、軽く目をみはった。
「あ。ごめんなさい。少しびっくりしてしまって」
相手の反応は、俺という魔物の駄目さ具合を知っているからこそだった。
俺は苦笑を浮かべて肩をすくめる。
「戦ったというより、相手が上手くはまってくれたという感じです。シィとカーラがいてくれたおかげでなんとか。それでまあ、この二週ほど落ち着いています」
「二週間も」
まばたきのあと、理知的な輝きの眼差しがひたりと見据え、
「素晴らしい」
にこりと微笑んだ。
「人間どもに荒らされていた洞窟を、見事その手に奪い返したわけですね。おめでとうございます」
賞賛の言葉に、俺は首をふって答える。
「少し落ち着いているというだけです。経過を見てみないとなんともいえません」
「そうですね。しかし、それでも喜ばしいことです。あなたが長いあいだ、苦しい思いをされてきたことは知っていますもの。アカデミーからもきっとよい評価があるでしょう」
「……ありがとうございます」
「本当に、自分のことのように嬉しいですわ」
相手が向けてきているものはビジネス用だとわかっているのに、ついついその笑顔に引き込まれてしまいそうになる。
俺は自分のお茶を手にとって一口し、魅了の笑みからのがれた。
「それにしても、今月は寄られるのがずいぶんと早かったですね。いつもどおり、来週頃になるかと思っていましたが」
アカデミーの査察が入るのはいつも月末だ。
今はまだ一月にある四週の三週目。月の半ばを過ぎたばかりだった。
「すみません。少し別件がありまして予定が変わってしまって。ご迷惑でしたか?」
「いえ。来週なら、もう少し様子を見たうえでご報告できたかなというだけです」
答えると、相手は微笑を含ませるようにして、
「そうですね。それはまた、来月の楽しみにさせていただきます」
それに、と続ける。
「しばらくこちらに留まることになるかもしれません。またお伺いすることもできるかもしれませんし」
「なにかあったのですか?」
「ええ、まあ。まだなんともいえないところなのですが……」
ちらりと切れ長の眼差しが俺を撫でた。
「そういえば。洞窟の前の湖バランスが少し乱れているようでしたが、なにかご存知ですか?」
どきりと心臓が鳴るのを抑えて、俺は平静をよそおって答える。
「そういえば、最近ウンディーネを見かけてませんね。なにかまずいことになりそうですか?」
じっと凝視。
しばらくしてそっと目線が外れた。
「――いえ。精霊の方々はもともと、我々の考えが及ぶ相手ではありませんからね。水のお方は特に管理には細かいはずなのに、少し自由にさせすぎている気がするのですけれど。考えすぎかもしれません」
「こっちのノーミデスはいつもどおりですが」
「あの方はいつものんびりとされてますからね。今日もご挨拶したいところですが、こちらから会うのは無理でしょうか」
思考の迷いをふっきるように笑みを戻して、女性はティーカップをテーブルに戻した。
「ごちそうさまでした。今日はそろそろ失礼しますね」
「ああ、はい。ご苦労様でした」
「上にはさっそく報告しておきます。確かに現状では経過確認が必要でしょうが、必要ならこちらから援助ということもあると思います。その件については、また追ってご連絡しますね」
「……わざわざすみません」
「とんでもありません」
ラミア族の美女は完璧な微笑で、
「我々の命の源。それを人間どもから守れるかどうかなのですから。ご協力は惜しみません」
善意しか満ちていない表情に、俺は黙って頭をさげた。
座るのではなく、巻くようにして使っていた椅子から相手が離れ、それを先導して見送りに出る途中、ふと思いついた様子で相手がいった。
「そういえば、山上のお方はちょうど食事の頃合だったようですね」
「ええ。ついさっき聞こえなくなったばかりです。二、三日は戻らないでしょう」
「そうですか……。今度こそご挨拶をできたらと思っていたのですが。残念です」
こればかりは本心からのものとしか聞こえない台詞。
そうですね、と俺は乾いた笑みで応じるしかなかった。
器用に下尾を左右に揺らして去っていく女性を送ってから戻ると三人が俺を待ち構えている。
「いきなり悪かった。スラ子、すまなかったな」
「いえ、それはいいんですが」
スラ子が少し戸惑いのある表情で俺を見て、
「アカデミーの方だったのですよね」
「ああ、そうだ。このあたりを担当している査察員。アカデミー所属のラミア族で、エキドナという」
「エキドナさん。私が会ってはマズい方なのですか?」
「マズいというか、面倒というかな……」
なんと説明すれば的確か考えてから、
「……彼女、とても上昇志向が強いんだよ」
俺はいった。
「上昇志向。ですか」
あまり聞きなれない言葉だからか、三人とも微妙な表情。
俺はテーブルに座って冷えたティーカップをとり、説明を続ける。
「アカデミーってのも一応は組織だからな。大勢に命令を出す偉い立場のやつもいれば、俺みたいな底辺の下っ端もいる。エキドナはそのなかでまあ、下から数えたほうが早いんだが、絶対に出世したいって考えてるらしくてな」
「出世。つまり権力ですね。……ルクレティアさんと似たタイプの方ということでしょうか」
近いが、違う。
「ルクレティアの場合は、生まれたときからの立場があるだろう? 町の有力者。貴族の血筋。もちろん能力だってあるけどな。だけどエキドナはそうじゃない。種族柄、外見は大したもんだし、能力だってあると思うが。彼女は自分の力だけで上に昇りつめようとしてる。叩き上げってやつだ」
「苦労を重ねながら出世をするタイプ、というわけですね」
「そうだ。ルクレティアはエリート、エキドナは非エリート。まあアカデミーからしてまず魔物の非主流だしな。集まってる連中だって癖が強いし、やっかいな連中が多い。そんななかで上を目指すってんだから――」
「さぞ優秀なのでしょうね」
「優秀もそうだが、抜け目がない。自分が上に立つチャンスを虎視眈々と待ち構えて、絶対に見逃さない。そんなタイプだ」
「なるほど」
うなずいて、スラ子がそのまま首をかしげてみせる。
「ええと、マスター。それが私とどんな関係があるのでしょうか?」
「スラ子。お前は俺がつくった特別なスライムだ」
「はい」
スラ子はなぜか照れくさそうに頬を染めた。
「その術法は一応、俺のオリジナルってことになる。まあ正直、そんな大したもんじゃないんだけどな。凄いというか呆れられるって類のものだし――」
ふとそこで気づいて、念を押しておく。
「お前のことが凄くないなんていってないぞ。勘違いするなよ」
「大丈夫です、マスター」
スラ子が俺の気遣いに苦笑してみせた。
たしかに気をまわしすぎだったかもしれない。こほん、と息をついて、
「……だが、どんなものだろうが研究は研究だし、成果は成果だ。研究者にとって自分の研究は命より大事で、誰それになんか明かしたくはない。アカデミーに論文として出すとか、そういうことでもなければな」
ああ、とスラ子がこくこくとうなずいた。
「それで私を見せないように、と」
「ああ。まあ、見せたからどうって決まってるわけじゃないんだが。……エキドナは、色々と油断できないところがある相手だからな」
「どういうところがです?」
質問に答えようとして、口のなかが乾いているのに気づいて紅茶をふくむ。
スラ子とシィ、カーラ。それぞれにこちらを見てくる三人に椅子に座るよう勧めて、自分も残る一つに腰を落ち着けた。
ちょうどいい機会だ。
事情を知らないカーラやシィもいるのだから、一度しっかり話しておいたほういいだろう。
「ここのダンジョンは人間側と魔物側、どちらからも重要視されてない。このことはスラ子には前、いったことがあったか?」
はい、とスラ子がうなずく。
「魔力の渦から生まれる魔物の数も、強さも大したことがないから人間さんたちも脅威に思わず、魔物側からも重要とはされていない。だったでしょうか」
「そうだ。魔物は自分たちが生まれる根源である魔力の吹き溜まりを大事にしたい。そして、そんなもんやっかいだからと失くしてしまいたいのが人間だ。ここの洞窟はせいぜい下級の魔物が生まれるくらいで、魔物側が必死になるほどの価値はない。アカデミーの上層はそう判断してる。人間側だってわざわざ潰すほどでもない、だからわざと残して初心者の修行場として使ってたわけだ」
人間と魔物のどちらからも見向きもされない場末のダンジョン。
だからこそ、俺は今までひきこもりながらも生きながらえることができていた。
「そういう扱われ方で、俺なんかにはかえって幸運だったんだけどな」
だが、と息を吐く。
「あの女は違う。エキドナは自分の出世に役立つものならどんなものでも利用する。この洞窟だってもちろんその例外じゃない」
「でも、この洞窟の魔渦は濃くないのですよね? 人間さんから主導権をとったところで、それでそんなに評価をされるとは思えないのですが」
そのとおり。その程度ではアカデミーがエキドナを評価する理由にはならない。
そして、そのことをエキドナ自身も承知している。
あの美貌の蛇が考えているのは、もっと別のものだった。
「――この洞窟の上にはなにがいる?」
まっすぐに立てた人差し指を追うようにそれぞれが目線をあげ、
「まさか」
とスラ子が言葉をのんだ。
俺はゆっくりとうなずいて、告げた。
「そうだ。あの女、エキドナはストロフライに接触する機会を計ってる。この世界の頂点にいる生き物、その相手を自分の野心に利用しようとしてるんだ」