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二十九話 比類不当の黄金竜

 飛翔する。


 視界が後方に吹き飛ばされ、まっさらな白に覆われたかと思うと一瞬で抜けて、次には一面が蒼く染まる。

 痛いほど鮮やかな空色に目を奪われる。


 染み一つない、なんの引っ掛かりもない純粋な青が意識の奥まで浸み渡る。視界をなにかがよぎった。宙の一点、この場に至ってなお高く位置づく太陽。その燦々と輝く炎の星が、こちらを誘うようにぐるぐると円を描きだす。


 それが、自分が回転しているからだということに気づいて――ふと思った。


「……ストロフライ?」

「なーにー?」


 足元から浮き立つような声。


「どこに向かってるんだ?」

「んー? 別にどこってわけじゃないけど、とりあえず宇宙の果てくらい行っとく?」

「なんか知らんが帰ってくれ!」


 いつの間にか周囲が赤く、そして徐々に暗く変化していっている。

 まったく事態の推移なんて理解できないまま、ただ本能的な不安に急かされて俺は叫んだ。


「どこに連れて行ってくれようとしてるのかわからんが、今はそんな場合じゃないんだ!」


 あはは、と竜が笑う。


「わかってるってー。ほんの冗談! アホ親父のところにだって自慢しに行きたいけど、そういうのはまた今度、ね――」


 俺を背中に乗せた黄金竜は軽やかに、弾むような声色で、


「デートはまた今度っ!」

「……頼むからその時は俺の身体が保つところにしてくれ」

「大丈夫だってー。気合、気合」


 気合で世界の外にまで飛び出せたら世話はないが。


 黄金竜がゆっくりと身体の向きを変える。

 足元――なのか、なんなのか――ともかく下の方向に、うっすらと蒼白く輝く大地が見えた。


 あれが世界?

 俺達の、世界なのか。


 それじゃあ、ここは――


 周囲に頭を巡らすと、そこには闇ではない、ただどこまでも深い暗がりが広く続いている。


 これは、“無”なのか?

 九種類の属性に含まれない、たった一つの、反創造の?


 だが、その周囲の広がりは確かに虚無的なものを想像させたが、至る所にぽつぽつとした光点が散っていて。そしてそのなかでもはっきりと目立つのが、今、俺の足元に広がる輝きだった。


 ――俺は今、世界の上にいる。

 天文学やそうした知識はほとんどなくても、そう理解するのにさほどの時間は必要なかった。


 地上から見上げる青。それをさらに超えた先にある空間。


 きっと竜以外、誰ひとりとして今まで経験したことのない領域に自分が今、存在している。

 そう自覚することには、なにか身体の奥底をぞくりとさせる感覚があったけれど――今は、そんなことはどうでもよかった。


 世界の真理とか。

 自分だけの発見とか。


 そんなことは一切合財、どうでもいい。なんでもいい。


「ストロフライ。頼む。俺が用があるのは、こんなところじゃないんだ」

「わかってるってば」


 くすりと黄金竜から笑みの波動が伝わった。

 そして、


「そんじゃあ――行くよ、マギちゃん!」

「……ああ!」


 一気に降下する。

 暗がりが赤く染め上げられて、それを超えると一気に青く冴え渡る。


 自分の知る空の色。

 視界にはそれとよく似ているが違う蒼が広がっていて、その中央。白雲に覆われた向こう、茶けた大地の真ん中に目指すものはあった。


 幾重にかさなる雲を突き破り、また別の雲に突き刺さり、それをさらに突き破った先で、ついに全容が明らかになる。


 巨大な不定形。

 精霊や、それ以外の無数の生命を取り込み続けたからか。その姿ははるか上空からさえ視認できるほどに膨れ上がってしまっている。それは、世界そのものを食べ尽くそうとしているかのように見えた。


「……スラ子」


 その状態がなにを意味するのか、俺にはわからなかった。

 スラ子はどうしてこんなことをしている。それはスラ子の意思なのか。それとも以前のように、そして以前よりさらに酷いことに、もうスラ子の中からは意識が失われてしまっているのか。


 それとも――スラ子は、元々がそういう存在なのか。



“溢れちまう”



 今まで様々な相手から耳にした、不吉な予言のような台詞。


 今まさに、それが行われようとしているのだとしたら――俺は、確かめなくちゃならない。



 “信じてください”



 とスラ子は言った。


 なら、俺のとっている行動はスラ子を信じていないことになるのだろうか。

 俺のやろうとしていることはその信頼を裏切る行為だろうか。


 ――いいや、違う。違うはずだ。

 信じることは自分で思考することを放棄することでも、誰かに全ての決定権を委ねることでもない。


 それではただの逃避だ。

 それじゃあただの依存だ。


 俺はもう、洞窟には引き篭もらない。


 暗く、温かい、あの優しいだけの場所から出て。

 俺は外で。スラ子と笑うんだ。


 俺がそう思っていることを、スラ子だってわかってくれているはずだって、そう俺は信じている。

 ――“信じる”という言葉がただの押し付けになっていやしないかと、自分でちょっと笑う。


 だが、いいさ。

 それならいったいなにが正しいのかをはっきりさせるためにも。俺はやっぱり、スラ子に会いにいかなくちゃならないのだから!


「いやはー!」


 心から楽しそうな雄叫びを上げながら、ストロフライが降下する。

 体感さえできない理屈とそれによる速度。


 きっと普通なら肌に触れた瞬間、魂ごと消し飛んでしまうようなその突撃に、黄金竜の加護に守られながら突き進む。


 目の前で、一秒ごとに不定形の巨大さが増していく。

 その姿がほとんど視界一杯にまで広がったかと思った次の瞬間、


「――――」


 おぞましく蠢く無数の触腕が、一斉にこちらに向かって襲いかかって来る!


「……ストロフライ!」

「問題、なーし!」


 応えた黄金竜が大きく咢を開くと、そこから金色の熱線が放たれる。

 一直線に伸びた黄金光が触腕を薙ぎ払う――が、切り裂かれた向こうから、次々に新しい触腕が伸びてくる。


 その数はほとんど無限を思わせる程だった。実際、それに近いのだろう。

 それどころか、本当にそうなのかもしれない。


 マナという“無限の創造性”を取り込み続けたスラ子。


 その力は恐らくこの世界に在るべき限度を超え、精霊や、あるいはそれらを創った何者かの想像さえ凌駕してしまっているのかもしれない。

 その結果が――膨張し、さらに成長しようとしている“不定形”のこの姿だ。


 だが、その不定形の目の前に在るのもまた、同じようにこの世界の限界を軽々と超越した存在だった。

 この世界に生まれ、この世界のなにより強大になってしまった種族。竜という超越種のなかでさらに特別な高みに位置する若い黄金竜は、一寸の隙間すらなく襲いかかるような触腕の群れを易々と切り裂き、悠々と全て回避してみせて、しかしそれでもそれ以上の接近は厳しいと判断したのか、ぐるりと回頭して不定形から距離をとった。


「厳しいか?」

「なに言ってんの!」


 黄金竜は平然と笑いとばして、


「今のは様子見っ。どれくらい力を抑えればいいか、わかんないからー。ほんと、この世界って狭いし、脆いし。必要最低限に調整するのって面倒なんだよね」


 言いながら、その口調はどこか楽しげだった。

 そう抱いた感想を俺が口にするより早く、


「当たり前じゃん!」


 竜が続ける。


「なんてったって、あたしが誰かの為に力を使うのなんて、生まれて初めてなんだから! どっきどきの初体験! わっくわくの初体験! 覚悟してよ、マギちゃん。これから、あたしの初めての全部、君には受け止めてもらうんだから!」

「……善処します」

「なーにぃー?」


 こちらを振り返った瞳にぎろりと睨みつけられる。


「ああもう、わかったよ! なんでもやってやるからそっちこそ覚悟しとけ!」

「よろしい!」


 鷹揚に頷く黄金竜の向こうに迫り来る触腕の群れが見えて、俺は顔を青ざめさせた。


「ストロフライ! 前!」

「ジニーって呼べー!」


 叫びながら、金色の熱線が放たれる。

 絶対的な輝きをまとった光の波は並み居る触腕を容易く切り裂いて、巨大な不定形まで直進。受け止めようと形を変える不定形の傘ごと、ほとんど両断した上で爆砕した。



「――――……」



 大勢の精霊達が協力して放った渾身の一撃さえ、全身に受け止めて“食って”みせた不定形が、身悶えするように震える。空間を伝わるその振動は、不定形がはじめて漏らした悲鳴のようなものかと思えたが、


「なんだ、あれは――」


 眼前に広がる光景に、俺は呻いた。

 黄金竜の攻撃に身体を断ち切られかけていた巨大な不定形。その断面から、ずるりと這い出るようになにかが湧き出している。


 いや、断面ではなかった。

 不定形の周囲。奇妙に歪曲したその空間そのものから、次々に不定形が生まれ、繋がり、また湧き出でていく。


 増殖。再生?

 いや。あれは、そういうのとは違う――目を眇めようとして、ぐらりと。頭が揺れた。


「止めといた方がいーよ、マギちゃん」


 落ちかけた意識を呼び戻すように、竜の声が響く。

 視界が戻る。動悸の音に気づいた。全身に倦怠感と、ぐったりと重い汗。まるで何十年もどこかを彷徨い歩いていたかのような疲労があることに、心底からぞっとした。


「あれがなにかマギちゃん達の頭で理解しようとすると、パンクしちゃうよ。存在してる領域が違うからー」

「領、域……?」

「そっ。時間を、次元を、事象を食らい、育む万物の諸元。混沌の不定。“偉大な母”。でも、あれがなにかなんて、どうでもいいでしょ? マギちゃんにはさ」

「――ああ。そうだ。その通りだ」


 黄金竜の言葉に頷いて。


 俺は目を閉じた。

 開く。


「俺が、用があるのは――あの“奥”だ。俺は、あそこに行きたい」


 不定形を視界にいれて見ないまま、俺を乗せた黄金竜に告げる。


「いけるか、スト――。……ジニー?」

「いけるかぁ?」


 俺が呼び方を言い直したことに、黄金竜はふふんっと満足げに鼻を鳴らしてから、


「このあたしに向かって、いけるか、なんて片腹痛い! このあたしを誰だと思ってるのさ!」


 高らかに吠えた。


「いけないとこなんてあるわけない! できないことなんてあるわきゃない! 想い人さえ手に入れて、誰があたしを止められる! 初恋竜のお通りだ!!」


 言葉の勢いそのままに突進。

 迎え撃つように不定形が動き出す。



 を、……ぅをを……をををををををををををを……



 不定形と、周囲の空間から湧き立つ異形の存在から、地を這うような無数の声が重なり合う。

 それに対して、



 るぅぅうらああああああああああああああああ――



 空から降るような澄み切った歌声が、竜の奥から絞り出される。


 金色と混沌の激突。

 人外の存在同士の力が正面からぶつかりあい、破裂する。


 時間を砕き、次元を裂いて、事象を毀す。


 おおよそ人の身には想像さえ不可能な桁違いの領域に及ぶ攻防は、俺の認識ではたった一瞬で終わった。


 俺の意識が自覚した時、視界にあったのは半壊した不定形の姿。

 ストロフライの力が押し切った――そう判断しかけた直後、ゆるやかに不定形の周囲が盛り上がり、再び元の形を成していく。


 “無限の存在”。


 こんなもの、どうしようもないじゃないか――俺は絶句するしかなかったが、


「おっけー」


 俺を乗せた黄金竜は満足そうに呟いた。


「見えたよ、マギちゃん」

「見えた?」


 あの不定形の弱点かなにかがわかったのか。

 あはは、と笑った竜が、


「みーち。マギちゃん、スラ子ちゃんに会いにいくんでしょ?」

「え? ああ、そうだけど――」

「おっけおっけ」


 そう言った黄金竜が、むんず、と背中にまわした腕に摘ままれた。


「……へ?」


 その行為の意図を訊ねる間もなく。


 俺を右手に握った竜が吠えた。

 その右腕を、思いっきり振り上げ、斜めに振り下ろしながら、



「直球! 初恋ストライク!」



 俺は叫んだ。

 盛大に投げ飛ばされながら。


「ずっと前から思ってたけどそのネーミングセンスはどうかと思うううううううああああああああああああああああああ!?」



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