二十五話 金精霊の真意
洞窟内でなにより気をつけなければいけないこと。
その一つは酸欠。
そしてもう一つは、落盤だ。
元々、この洞窟の成り立ちは地下の水流に由来している。
水の流れに浸食され、研磨されて広がった天然の地下空間。地質に含まれる様々な種類の違いや、あるいは自然が織り成す複雑な水向きの変化から、長い年月をかけてこの洞窟は作られていた。
自然の手によって磨き上げられた内部は案外というか、それとも当然というべきなのか、強度は決して低くない。
むしろ、後からやってきた俺達がそこに手をかけて地上部分と地下とを繋げ合わせようとしたことこそがその奇跡的なバランスを崩しかねず、十分な配慮が必要だった。
その改装作業に使われたのが、バーデンゲン商会を通じて外から運び込んだ石材。そして、この地下から産出する瀝青だ。
岩盤と石材とのあいだに挟む接着剤、また防水剤として瀝青を使い、全体を補強することで、俺達はこの改装した洞窟にダンジョンとして運用可能な強度を手に入れた。
瀝青には火に弱いというデメリットがある。
それはこの洞窟にあふれる水気が上手くコーティングしてくれることで致命的な問題とはならなかったが、もう一つの弱点は残ったままだ。
それが、熱。
常温で放置された瀝青はやがて固体化する。そうした性質は接着剤として有用だったが、その瀝青にたとえば防水をした上で、それを高温の炎で炙ると、それはやがてドロドロと溶けだしてしまう。水気が失われればそのまま火だってつく。
これは接着剤としては看過できない問題だ。しかし、この洞窟に限った場合、実のところそう大きな問題というわけでもなかった。
洞窟深くでは常に空気不足という危険がともなう。
一瞬の発火程度ならまだしも、継続的に熱量を与える規模の炎を盛大に燃やすだなんて事態は、実際にはほとんどありえないからだ。
そして、そのことを俺達はいざという時の切り札として用意しておくことにした。
正面からではとても敵わない難敵。もしくは、こちらの戦力ではどうあっても対処しきれない圧倒的多数が押し寄せて来た場合に、上層、中層でできる限り相手を疲労、損耗させた上でこの決戦場まで誘い込む。
そこに瀝青をばら撒き、火をつける。
良識ある相手ならその時点で撤退してくれるかもしれない。酸欠死なんて誰だってしたくないだろう。
それでも駄目だった場合。
つまりは、酸欠なんてものに期待できないような存在が相手だった場合の、文字通りの最終手段。
それが、“全てを崩落させる”ことだ。
部屋全体に瀝青がばら撒かれ、炎があふれまくって、そこから生じた熱が十分に周囲に――室内の補強に使われた瀝青にまで伝わったのを見計らって、マーメイド達が水魔法を乱発する。
瀝青が溶けだし、補強材による強度を失っていた状態に、水撃でどんどん穴を穿つ。
そんなことをすれば起こることは一つだ。
天井。周囲の壁。そして床。
その一体どこに加えられた一撃が致命的なものだったのかはわからない。
だが、鼎がその一本を失った瞬間の如く。それまで広大な空間を支えてきた天然の、あるいは人工の補強材はその瞬間。一気に雪崩を打って崩壊した。
立ち込める煙。
盛大に燃え上がっていた瀝青からの黒煙と、そして崩れ落ちて地面に激突し、もうもうと湧き上がる土砂に一瞬で視界が閉ざされる。
ほとんど目も開けていられない濃厚な空間を、俺はゆっくりと降下していった。
俺のすぐ隣にはシィがいて、こちらにしがみつくようにしながら背中の蝶羽を輝かせてくれている。
浮遊魔法で自重を失った状態で姿勢のバランスをとりながら、俺は結晶石に問いかけた。
「――俺だ」
『ご無事でしたか』
冷静さに、わずかな安堵の色がまざった声。
「シィのおかげでな。そっちの避難は間に合ったか?」
『つつがなく。スケルさんやリーザさんの無事も確認できています。カーラとツェツィーリャさんだけ、連絡がとれていませんが――』
「……無事に決まってんだろうが、タコ」
その不機嫌そうな声はすぐ近くから聞こえた。
見上げると、黒煙の切れ間から、見えない地面を踏みしめているかのように宙に立つエルフの姿。その肩にはぐったりとしたカーラが抱かれている。
俺はほっと息を吐いて、
「カーラも助けてくれたんだな」
「うるせ。しゃあしゃあとこっちに合図もなしに。わかっててやりやがったな、手前」
「信じてたよ」
「殺すぞ。てかいっぺん死ね、ボケ」
本気で牙を剥いてくる相手に肩をすくめながら、
「というわけで、こっちは全員無事だ」
『ようございました。と、言いたいところですが』
結晶石からの声に険がこもった。
『実際に使ってこその切り札とは言え、いささか乱暴すぎますわ』
「仕方ない。これ以外に手段が思いつかなかった」
『それはそうですが……。まあよろしいでしょう。今、私もそちらに向かっています』
「頼む。事後処理が大変だ」
やりとりをしているあいだに、足元に地面の感触が戻っている。
「……マスター」
「ありがとう、シィ。下がってろ」
前方にちらと視線をむけてから、不安そうにこちらを見上げてくるシィの頭を撫でて、俺もそちらに視線を移した。
そこにいたのは――半ば瓦礫に埋もれた“精霊憑き”の王女。
「……自分達で。崩落を起こすなんて」
まだ光を失っていない眼差しで、呻くように王女が言ってくる。
「こんな地下に煙を充満させることといい。信じられません。マギさん、あなたは狂ってるんじゃないですか……?」
「あいにくだが」
俺は冷ややかに応えた。
「俺はまともだよ。まともだから、まともじゃない相手に歯向かうには、まともじゃないことをやるしかない」
「そうですね。私は、まともじゃ、ありませんからね――」
自嘲するように笑う。
……王女が戦闘能力を失っているかどうか、まだ判断できない。
大広間そのものが崩れたことで、王女はかなりの距離を落下した。触れたものを金属に変え、その重量を受けつけないという能力があれば、落ちてきた瓦礫はなんとでもできたかもしれないが、それでも落下したダメージまでは防ぎようがなかったはず。
だがそれも、
「騎士の誰かがいたら、効かなかっただろうけどな」
そう。
王女をサポートする騎士が誰か一人でも残っていたら。シィが俺にそうしてくれたように、“浮遊”の魔法をかけてくれる相手がいたなら、まったく結果は違っていたはずだ。
しかし、最後まで王女に付き従った騎士達は、すでに物言わぬゴーレムへと成り果ててしまっている。その全員が、この近くで瓦礫の下敷きになっているはずだった。
俺の呟きに王女は顔を歪めて、
「そう、ですね……」
何かを悔いるように呟いた。
瞳を閉じる。下ろされたまつげから、つうっと透明な雫が流れた。
王女の身体を覆う瓦礫に変質の気配はない。俺はそこから王女に戦闘継続の意思がないことを見てとって、
「降参してくれますか」
王女は目を閉じたまま――ゆっくりと、首を横に振った。
「強情なお姫様だな」
俺は溜息を吐く。
「そっちに事情があるのはわか――、わかりました。王様からの命令は絶対で、拒否するわけにはいかないってのも。俺なんかにはわからない、立場や責任だってあるんでしょう。その上で、お互いに納得できる妥協点を考えませんか」
「……そんなものはありません」
突き放した声。
そのなにもかも諦めた口調にかちんと来る――ふと、ようやく少しは土煙が落ち着いてきた視界の向こうに、こちらにやってくる金髪の令嬢の姿をみとめて、
「王女様。あなたはこの世界に自分の理解者はいない、味方なんかいないって思ってるのかもしれませんけど、別にそう決まったわけじゃない。確かに俺にはあなたの辛さはわからないし、能力を持って生まれた苦悩なんてのもわかりません。でも、俺とあなたは違うけど、一緒に頭を捻ることくらいは出来る。……出来るはずだ」
王女はまったくの無反応。かまわずに続けた。
「それに、俺なんかより、よほどあなたのことを理解してくれそうな相手だっています。――家族とか」
ぴくりと、王女が反応した。
うっすらとまぶたを持ち上げて怪訝そうに、
「――家族?」
「はい、そうです」
俺は近くまでやってきたルクレティアを目で指して、
「ここにいるルクレティアは。メジハの町の、長の孫娘ですけど、母親が都落ちしてきた貴族で。その理由が王様の子を孕んだからってことらしいです。それってようするに、あなたの姉妹でしょう?」
俺の紹介を受けたルクレティアは黙ったまま、感情のうかがえない静かな眼差しを目の前の相手に注いでいる。
王女は大きく目を見開いて。
初めて対面する姉をまじまじと見上げてから、
「はは」
乾いた笑みを漏らした。
「あはははは。あはは、はは、は――」
声が、まだ埃と煙がおさまらない洞窟に響く。
それは突然の再会への驚きとか、感情がついてこれないとかいう代物ではなく――もっと単純な。そして、ひどく空虚な笑いだった。
俺は顔をしかめて、
「なにがおかしいんです。そりゃ、いきなりこんなこと言われても信じられないかもしれないし、本当にこのルクレティアに王様の血が流れてるかって証明する手段があるわけじゃないかもしれない――」
「違います」
俺の言葉をさえぎった王女が、大きく嘆息した。
投げやりな視線をこちらに向ける。
「そんなのは、どうでもいいんです」
「……なんだって?」
「そこにいるルクレティアさんが、王族の血筋だとか、そんなことどうでもいいです……。マギさん。だって、私の家族はもういないんですから」
相手から言われた台詞の意味が、俺はとっさに理解できなかった。
ルクレティアを見るが、令嬢はわずかに眉根に皺を寄せただけで口を開かない。
沈黙を疎むように頭を振った王女が、
「……昔のお話をしましょうか」
どこか遠い目で、
「あるところに、とても貧しい村がありました。村には貧しい畑があるばかりで、村人達は一日中、どれだけ必死に働いても裕福にはなれませんでした。そういう、どこにでもあるような貧しい村でした」
……なんだ?
急な饒舌に戸惑いながら、俺は相手の話に耳を傾ける。
「その貧しい村のなかでも、特に貧しい家がありました。両親と、小さな女の子と、もっと幼い弟の四人家族で、本当に貧しく生活していました。いくら働いても蓄えはできず、生活は楽にならず。ほとんど飢えをしのぐために、毎日を生きてるだけのような有様で。でも、一つだけ違うことがありました。――その女の子には不思議な力があったんです」
“精霊憑き”?
これは王女の身の上話なのか? いや待て、それじゃあおかしいじゃないか。
こちらの困惑を余所に、
「その女の子は、手に触れたものをキラキラしたものに変えることが出来ました。それがどういう物なのか、女の子にはわかりませんでした。だって金貨はおろか、お金なんてろくに見たことがなかったんです。女の子が自分の不思議な力に気づいて、両親にそのことを教えると、両親は村の偉い人間に報告にいきました。大人がすごい怖い顔をしているのに、女の子は気づきました」
……そりゃそうだろう。
土でも石でも、触れるだけでいくらでも金にできたら一財産どころじゃない。
そんな話を聞かされたところで誰も信じないだろうし、もし金の欠片なんて見せられても、砂金でも川で拾ったんじゃないかって思われるのが落ちだろう。
「そうですね。それで嘘つき呼ばわりで終わればよかったんです」
王女は皮肉っぽく笑って、
「でも女の子が、大人達の目の前で石を金にしてみせると事態は一変しました。大人達はもっと怖い顔になって、慌ててどこかに連絡をしにいって。少ししてから、遠くから、見たこともないおかしな服を来た人達がやってきました」
「――国王の使いか」
少しずつ、話の流れが読めてきた。
口調が苦々しいものになってしまったのは、この話の結末がどう考えてもあまり楽しいものではなくなりそうだからだが、それで止めるわけにもいかない。
「……やってきた人達のなかで、一番偉そうな、お髭を生やした相手に、村の大人達は全員が平伏していて。その男の人の前に女の子は連れていかれました。そして石を金に変えてみせろと命令されました。女の子がそれをやると、お髭の相手は大きく頷いて、女の子の両親に綺麗な金貨を三枚。投げてよこしました」
変わらぬ口調で王女は続けた。
「その金貨を受け取った瞬間――女の子の両親は剣で斬られて死にました」
一瞬、息が止まる。
俺が自分の呼吸をうまく再開させられないうちに、
「誰も、なにも動けませんでした。目の前で起こった出来事がわからないうちに、今度は周りからたくさんの矢が降って来ました。それはお髭の男の人と一緒にやってきた兵士が放ったものでした。悲鳴があがって。大人達が逃げ出して。それを兵士達が追いかけて。すぐに村中で動いている人は誰もいなくなりました。女の子は一人、ただ呆然とそれを見ていました」
陰惨な情景を口にする語り部の声には怒りも悲しみも含まれておらず、その時の少女の感情をそのまま再現しているようだった。
まるでそれが夢だったかのように。あるいは、夢であればと思っているのか。
「……誰も動かなくなった村に、兵士達が火をつけ始めました。髭の人が女の子になにか言っていましたが、ほとんど意味はわかりませんでした。ただ、どこかに連れていかれるということと、暴れたらなにをされるかわからないことだけはわかったから。女の子は震える声で言いました。弟も、と。髭の人が眉をひそめて、周りの兵士に命令して。すぐに弟は連れてこられました。――小さな弟は血まみれで、息をしていないのは一目でわかりました」
その場に昏い沈黙が訪れる。
誰も口を開かなかった。
俺も、ルクレティアも。シィもツェツィーリャも、それ以外の近くに集まってきた誰もが無言でいるなかで、王女はさらに続ける。
「すべてが終わって。女の子はやはりどこかに連れていかれることになりました。女の子は怖くて、怖くて、震えながら、殺さないで、殺さないで、とずっと呟きながら。兵士達に連れていかれる間際、血の海に倒れた両親の前を通って。女の子から二人の顔が見えました。――放り投げられた金貨を握りしめて、その死に顔はとても幸せそうでした」
ひゅっという、鋭い呼気。
それまで淡々と物語っていた王女の顔が歪み、吐き捨てるように感情が曝け出された。
「なんて馬鹿な人達……! そんなもの、いくらでも作ってあげたのに。でも、一番の馬鹿はその女の子です。自分が出来ることがなんなのか、それがいったいどういう結末を迎えるかもわからなかったなんて。――でも、しょうがないでしょう! 誰も、なにも教えてくれなかったんだから!」
悲鳴のように王女は叫んだ。
「なにも知らなかった! キンも、キンカも! それ一枚でどれだけ美味しいものが食べられるか、どれだけ立派な家が建てられるのか! どれだけ簡単に人を殺せるのか。私はただ、それがとても綺麗で――両親にも見せてあげたかっただけなのに!」
そこまで叫んでから、王女は力を使い果たしたかのようにがくりとうなだれた。
心の内側にたまった澱を一気に吐き出した肩が震え、程なくして低い嗚咽がその場に響き始める。
俺はそんな相手にかける言葉も見つからず、唾を飲み下した。そうすることで後味をそそごうとするが、苦く粘りついたものは口の中に残ったまま無くならない。
ルクレティアを見ると、視線に気づいた令嬢はこちらに視線を向け、すぐに王女へ戻す。ゆっくりと頭を振り、
「よくある話、なのでしょうね」
――よくある話。
つまりは今、目の前にいるこの相手は王族でもなんでもなく。
ただその稀有な能力を見初められて、王族ということに仕立てあげられただけなのか。
その理由は、黄金をつくりだせるその能力を目的としたもので。ほとんど無限の財源を獲得するのと同時、“精霊に選ばれた血筋”というこの世界ではとても強い意味をも、レスルート王家は手に入れたことになる。
そして。そのことを口外されないために、本当の両親、さらには出身の村の人間は全員が口封じに殺された。
それが“よくある話”ですんでしまうのなら、そんなのが日常茶飯事的に起こるのが高貴な血筋の宿命だとか言うのなら、俺は自分の生まれを心の底から感謝したい。
平凡で。魔物で十分だ。
――不意に、頭のなかで何かがカチリとはまった。
今まで王女がとってきた言動や、行動の不可解さ。それらの欠片が吸い寄せられるようにぴたりと脳裏の想像にあてはまり、俺は顔をしかめて、
「……だからですか、王女」
子どものように泣きじゃくる相手に、呻くようにして訊ねた。
「だからあなたは、妥協の余地はないって。どれだけ劣勢になっても撤退するのでもなければ、かといって俺を本気で捕まえようともしなかったんですか」
目の前の相手は、勝ちたかったんじゃない。
両親を殺した国のために成果をあげたかったのでも、その成果で自分の立場を確立したかったのでもない。
本当に“竜殺し”ができるなんて思っていたわけでもないのかもしれない。
むしろ、この王女にされてしまった少女は、ただ、
「あなたは。――死にたかったんですね。竜に。絶対的な存在に殺されることが、あなたの目的ですか」
王女は答えなかった。
その沈黙から答えを汲み取って、俺は体内に膿んだ鬱屈した気分を押し吐いた。
……まったくひどい話だ。
精霊の力を持つ、特別な存在。
手に触れたものを金に変えられるだなんて、ほとんど夢物語じみたことを実際にできるその本人が抱く望みが、死ぬことだなんて。
思わず天井を仰いで――こんな地下からじゃ空も見えない暗闇の、その先にいる誰かの存在を思い出して、歯を食いしばった。
……虚しい時。
途方もなく不条理な現実を目の当たりにした時。
そんな時はつい、空を見上げてしまいそうになる。
特別な相手に。なんでもできる存在にどうにかしてくださいと、なにもかも投げ出してしまいたくなる。
けれど、そういう相手に祈るわけにはいかなかった。
それだけはするわけにはいかない。
だから、
「……王女殿下」
歯を食いしばったまま、俺は目の前の相手に呼びかけた。
「さっきも言ったとおり――俺とあなたは違います。俺にはなんの力もなくて。あなたの苦しみも、辛さも、自分のこととしてわかってあげられません」
だけど、
「俺は俺で、あなたはあなただけど。――俺は俺で、あなたはあなただから。あなたになにか出来ることはないかと思う。あなたは、俺のことを似ていると言った。だったら、そのあなたに俺は、なにかできないかって思うんです。だから。俺や、俺達と一緒に。考えませんか、これからのことについて」
出来る限りの誠意を言葉に込めたつもりで、じっと相手の反応を待つ。
王女は泣きじゃくったまま――いや、わずかになにかを言いかけているのが耳に届いた。よく聞き取れないから、俺は王女の口元に耳を近づけて、
「――死にたい」
そう王女は言っていた。
ただひたすらに、死にたい、死にたい、と繰り返している。
それ以外の言葉を忘れたように。呪詛のように、王女はその単語を呟き続けた。
俺は黙って相手から離れて。両手を握り込んだ。
無力感。怒り。やるせなさ。
いろんな感情がないまぜになって、視界が眩む。
よろめきかけた俺をそっと支えてくれる誰かに目をやると、シィが悲しそうにこちらを見つめていた。
その背中にある薄い羽を見て、きつく目を閉じて。
「王女殿下」
再び、呼びかける。
「……わかりました。でも、それでもあなたを山頂に連れて行くわけにはいかない。あなたを、ストロフライに殺させるわけにはいきません」
「――っ!」
王女の右腕が跳ね上がった。
土砂に埋もれていた華奢な細腕が、そこに握った得物ごと振り上げられる。
剣先がまっすぐに俺へと向かい――俺の首なんか一瞬で引き千切ってしまうそれは、けれど首を切り飛ばす直前でピタリと止まった。
泣きながら、王女が俺を睨みつけてくる。
それでも手にした得物をそれ以上は振るえない相手を見すえて、俺はその冷たい金属の塊に手をかけて、
「だから。――俺がやります」
告げる。
「あなたが、本当に死にたいなら。……死にたくて。それしかなくて。でも自分では死ねないっていうなら。その役目は、俺が受け持ちます」
大きく見開かれた王女の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
その姿にあらためて痛感する。
この王女は――王女と呼ばれることになった少女は、か弱い。
自分で自分を殺すこともできないくらいに。弱いのだ。
どれだけ特別な力を持っていても。
村を、両親を殺した相手に復讐どころか、反抗すらできない。
だから、命を絶つためにわざわざ竜を相手にするしかなくて。そのためにお供の騎士達を巻き添えにだってしてしまう。
……それはきっと許される弱さではないだろう。
そして、そんな自分と似ていると、王女が俺のことを言ったのなら。
俺がこの相手にしてやれることはそれだけかもしれない。
でも、
「俺はそれを残念に思う。……俺は、あなたは生きるべきだと思うし、それがあなたの復讐だと思うし、それだけがあなたの贖罪なんじゃないのかって言いたい。死ぬだなんていうのはただの逃げで、それはくそったれなやり方で、残された連中のことなんて何一つ考えてなくて、そんなことしか手伝えない俺自身もくそったれで。ああ、でも、だから――生きててほしい」
「――ユ、――さま――ッ」
かすかな声が届いた。
マーメイドやリザードマンではない。
遠くから反響しながら必死に誰かの名前を呼ぶその声は、恐らくは仮拠点にいた別働隊の誰かのものだろう。あの水流に押し流された生き残りがいたのだ。
「……あなたと同行した騎士達の何人かはまだ、あなたを探してる。それも、それでも。あなたが生きる理由にはなりませんか」
自分でも情けなく思うくらい、最後は懇願するような響きになってしまっていた。
王女は涙に濡れた眼差しで不思議そうにこちらを見つめて、
「……優しいんですね」
そっと微笑んで。
「でも。ごめんなさい――」
それから、自分の首の上に手にした得物を近づけた。
王女の白くて細い首の上にぎらりとした刃が構える。
――掲げられた断頭台のように。
王女は震える声で、
「ごめんなさい……。やっぱり、最後の始末くらい、自分でやらないといけませんよね。――大丈夫です。自分で、やれます」
重さによらず震えるその得物の柄に、俺は黙って手を伸ばして。握りこんだ。
「――手は、離しません」
宣言する。
「俺は。この手を離さない。……離してなんかやるもんか」
それを聞いた王女は困ったように笑い。
そして、
「ありがとう」
手を離した。
王女の能力でそれまでまったく重量を感じさせなかった得物が、即座にその本来の重さを取り戻す。
その重みは、俺なんかの腕力で支えられるようなものではなくて。
まったく自然の摂理に従って。
刃が落ちた。
――分厚く重いその質量が地面にぶつかるまでには、なんの手応えも抵抗もなかったけれど。
それでも俺は、その感触を生涯忘れることはないだろう。
◇
「うふふふふ」
笑い声。
嬉々とした、まるで滑稽な芝居を楽しんだかのような笑みがその場に響く。
「――殺したな?」
現れたのは全身に輝きをまとった精霊体――金精霊ゴルディナ。
「なんということ。わらわ達の力を宿し者が殺されるとは。卑賎な人間とはいえ、同輩と言って差し支えのない相手であったというに。これはなんと悲しきこと。なんと由々しき事態か」
「……よく言うぜ」
そっと王女のまぶたを下ろして。俺は立ち上がった。
豪奢な相手を正面から睨みつけて、
「最初っから。あんたはそのつもりだったんだろう。俺たちに味方するとか、レスルートがどうとか、そんなことは始めから、あんたにはどうでもよかったんだ。あんたはこの結末が欲しかったんだろ」
吐き捨てる。
金精霊は悠然とこちらを見つめたまま、動じない。
「さて。なんのことやら」
「とぼけるなよ。あんたの腹は読めてるんだ。精霊による通貨? 世界秩序の安定? いいや、そんなのはあんたにとって取るに足らない些末事だ。それ以前に、あんたが目論んでるのはたった一つ」
息を吸って、呼気とともにその単語を吐きだす。
「――“魔王災”だ」
金精霊が無言で、その表情に刻んだ笑みを強くした。
「……精霊が、まさかこの世界の秩序を体現するっていう精霊が、まさか魔王災を望むなんてな。どうして、世界を破滅させかねない事態さえ起こしかねないことに精霊が加担するんだって、ずっと不思議だった。だが違った。あんたの狙いは、始めからそれそのものだったんだ」
「魔王災。……世界を終わらせる、破滅」
悲しげな声とともに姿を見せたのは、ヴァルトルーテ。敬虔な精霊教徒であるエルフが、悲嘆にくれた眼差しを金精霊に向けて、
「大精霊様。どうしてあなた様がそのようなことを望まれるのでしょうか」
「説明されたところで理解したくもないっすけどね」
ぼやくように頭をかきながら、真っ白い顔や身体のあちこちを煤に汚したスケルが現れる。
「問題なのは、その馬鹿げたことにこっちまで巻き込まれるってことで。ホント、いい迷惑ですねえ」
「……じゅ。止めル」
「確かに、どんな理由があろうと納得できそうにはないな。全力でお断りしたいところだ」
リーザが、エリアルが。
王都軍との戦いを生き残った洞窟の住人達が、金精霊の周囲をぐるりと取り囲む。
それぞれの手には武器、目には敵意。
「なにやら誤解を与えておるようだが――」
四方八方から敵意の塊をぶつけられてなお悠然と、精霊が口を開いた。
「わらわは何一つとして嘘を言ったつもりはない。わらわがこの世界に訪れる混乱の時代を憂いておることも、それを御する方策として精霊の名を戴く貨幣を流通させることを考えておるのもまったくの事実。ただし、何事にも必要な順序というものがある。ただそれだけのこと」
「その必要な順序とやらが、魔王災。そのために百年前みたいな事態を繰り返そうっていうのが、どう考えたって馬鹿げてるって言ってるんだよ」
百年前の魔王災。
それはつまり狂竜グゥイリエンによる全世界のほぼ壊滅と、それに対抗すべく結成された唯一の全種族、全生命共闘のことだ。
「百年前。この大陸が生き残ったのは、ただの幸運だ。竜なんていう、ふざけた存在同士の犬も食わない痴話喧嘩に付き合わされて、偶然に偶然が重なって、俺達は奇跡的に連中に踏み潰されなかっただけだ。また百年前みたいなことが起きて、今度も生き延びられるなんてあるわけないだろう……!」
「なぜそう言い切れる?」
「言い切れるさ。直接、どこぞの野盗みたいな顔した竜に聞いたからな。今度はノータッチだって」
「そのような言葉、どうやって信じろと?」
金精霊は苦笑するように、
「真実、竜がそれ程かように我等と隔絶した存在であるなら、そなた如きが竜と会話を成立させることができるとは思えぬ。逆に言えば、そなたが語り合ったという事実が、竜の存在の身近さを証明していると言えよう。――そう。あれらもまた、この世界を母に生まれた小さき生き物に過ぎぬ」
一瞬、精霊に哀れむような感情が浮かび上がる。
俺の脳裏にスラ子の言葉が蘇った。
わたしたちと同じ――か弱い生き物なんですね。
「……この世界から生まれた存在が。この世界より小さいままだってわけじゃない」
「いかにも」
金精霊は満足げに頷いて、
「故に、我らは御し、そして誅せねばならぬ。それがこの世界の秩序を司る、精霊の役目」
「違います!」
ヴァルトルーテが叫んだ。
激しく頭を振り乱しながら、
「それは、精霊の役目などではありません。あくまで精霊はこの世界を見守ることが――」
「まだわからぬか。賢く愚かな古き代弁者よ。それこそが全ての誤りの基であると」
金精霊は見下げ果てたようにエルフの言葉を遮って、
「そのような方針だったからこそ。百年前のあの荒廃した世界に、自主自立を名目に傍観という名の放置を決め込んだからこそ、今日の事態がある。それはそなたらも同じこと」
「それは……!」
「無論、わかっておるとも」
鷹揚に頷いて、
「それはそなたらの罪ではない。そなたらはただ、我らが教えを誠実に護ろうとしただけなのだからな。すなわち、誤りとは、“我ら”である」
金精霊は言った。
「精霊という在り方が間違っておったのよ。我らはただ場当たり的に問題に対処するのではなく。もっと積極的にこの世界に介入していくべきであろう」
受動的でも、消極的でも、外発的でもない。
能動的に。積極的に。そして自発的に。
精霊が自らこの世界の在り方に関わっていこうとする。
それはたとえば精霊による通貨の制定などのことでもあるだろうし、より直接的には、精霊による支配を意味するのかもしれない。
今まで、あくまで影からこの世界の生命の営みを見守ってきた存在による、方針転向発言。
それを聞いて、
「……こんなド田舎の辺鄙な洞窟で。またとんでもない話がでたもんだ」
俺はうんざりと頭を振った。
「今までの精霊としての在り方を否定して、新しい行動規範を模索って? 自己啓発はおおいに結構だが、宣言するにも場所くらい選んで欲しいもんだ。だいたい、それはあんた個人の先走りじゃないのか? 少なくとも、この二人はあんたに同意ってわけじゃないみたいだけどな」
俺が目で指したのは、いつの間にかこの場に姿を見せていた、今この洞窟に存在する二人の精霊だった。
この洞窟の天然管理者である土精霊ノーミデスと、ツェツィーリャと契約して行動を共にする風精霊のシルフィリア。
二人はそれぞれ異なる表情で同族のゴルディナを見つめていたが、どちらともに共通するものがあった。すなわち、相手への消極的な不同意。
「構わぬとも」
しかし、ゴルディナは同族からの批判めいた視線にも気にした様子をみせず、
「今のシステムに不備があることは、誰の目にも明らかなこと。天の三精などという在り方こそがそれを証明している。形をとろうとすることさえしないき奴らが、いったい何事を成してきたか? 光は見境なく物事を晴らすのみ。闇はいやらしく傍に寄り添い、宙に浮かぶ月はなにも語らぬ。そんなモノよりは、わらわの方が具体的に何事をも成し遂げてみせよう。いかなる光よりも強烈に、どの闇よりも深く心を牽きつけて。月などよりはるかに確かなものとして、この世界に生きるものに実感を与えてくれよう。“黄金”を司るわらわこそが、この世界を統括するのにふさわしい!」
いっそ堂々と、大精霊と称されるその存在は宣言してみせた。
世界を統括する。
いかにも陳腐な悪役が吐きそうな口上だが、なにより呆れてしまうことに、金精霊の表情には昏い感情や負の方向性がまったく存在していなかった。
その顔にあるのはただ自分の正義を信じ、己の行為の正当性を誇る眼差しだった。
そこには正義という名前の欲望がギラギラと輝いている。
渋面で押し黙る土と風、二人の精霊を見やって、
「……わらわ以外の地の五精どもが異を唱えるというのなら、それも一興。精霊同士は争わぬ。それもまた現行制に含まれる誤謬なれば――異見を戦わせるという行為そのものが、新しい在り方が必要だというわらわの考えを肯定しよう」
きっぱりと言い切るゴルディナに、
「――手前は、狂ってるよ」
言ったのはもう一人のエルフである、ツェツィーリャ。
「精霊が云々ってのは、正直わかりもしねえ。里の連中のことは死ぬほど嫌いだし、この世の中が間違ってるってのもわかるがな。だが、それでもだ」
ゆっくりと弓矢をつがえ、それを相手に向けて狙い定めながら、
「自分のやりたいことを叶えるために、この世界を壊しちまってもいいって時点で――どうしようもなく、手前は壊れてやがるのさ」
「わらわが狂っているとすれば、それはわらわを創りだした、そしてわらわも創世に大きな苦労を払ったこの世界もまた壊れているということになるが」
金精霊は皮肉げに頬を歪めて、
「だが、よかろう。どのような暴言も甘んじて受けよう。そう、狂わずして、何事もなせぬがこの世ならば」
「誰がさせるか」
俺は吐き捨てて。睨みつける。
「あんたの勝手な理屈に、山の上の極楽ヤクザ竜を巻き込まれるのも。それで百年前みたいなことを繰り返されるのも、まっぴらごめんだ。ゴルディナ、あんたは俺達が止める……!」
「やってみせるがよい。すでにそなたらはわらわの眷属を殺したのだ。そなたらを敵と判断するのに、これ以上の理由は――」
「――いいえ。違いますよ?」
その声は、まったくの唐突に。
全ては一瞬で行われた。
なにもなかった虚空から溶け出すようにあらわれたスラ子が、
「あなたの敵は、“わたし”です」
そのまま手を振り下ろす。
その動作は、傍目には軽く引っ掻くくらいにしか見えなかったが――
一撃を受けた金精霊ゴルディナが表情を変える間もなく。
次の瞬間、あっけなく四散した。