十八話 不意の訪問、意外な提案
次の日――だろう。多分――になって、意識を取り戻して。
俺は黙って上半身を起き上がらせた。
灯りのない室内に、人の気配はない。
直前までの記憶の一切を思い浮かべないようにしながら横を見ると、そこには机の上に置かれた二つのコップが競い合うように並んでいる。
それをしばらく見つめてから、俺は痛みとも倦怠感ともつかない重い腕を持ち上げてそれを掴んで。
黙って中の水を飲み干した。
――どちらかを残したりなんかしておくと後が怖いから、二つとも。
「おや、ご主人。お目覚めっすか」
扉をあけて部屋に入って来たスケルが、おっとり目をぱちくりとしてくる。
「ちょうどよかった。スープだけ持って来たんですが、お食べになります?」
俺は無言で首を頷かせる。
はいな、と近づいてきたスケルの差し出した盆から両手で抱えるようにスープを持ち上げて、一口すする。
塩気の香り。喉元を通る温かさが五臓六腑に染みわたり、疲労しきった全身に活力が宿る感覚。
涙がでてきた。
「……生きてるって素晴らしい」
かすれた独白をきいたスケルが感心したように、
「ご主人。なんだかイタす度に老けてってるような気がしますねぇ」
「当たり前だ……!」
俺はわなわなと全身をふるわせた。
「あんなモン、一人でもたいがい生死の狭間だってのに、その上タッグでやってくるとはどういうことだ!? 一気に二倍どころじゃないぞ! 二乗だ、四倍だ!」
「そりゃ疲労度的な意味で?」
「当たり前だ!」
からからと笑ったスケルが、
「昨日もけっこうな悲鳴が響いてましたからねえ。蜥蜴人の方々も何事かと思ったことでしょう。シィさん達の教育に悪いんでもう少し控えて欲しいところですが」
「無理だ! 耳を塞げ、遠ざけろ! 頼むからシィやドラ子に聞かせるなあんなモン!」
大声で吠えてから、はあっと息を吐く。
「……他の連中は?」
「食事も終わって、すでに隣に集まってもらってます」
「わかった。すぐ行く」
「肩はお貸ししなくても?」
俺はおもいっきり渋面で真っ白い元スケルトンを睨みつけて、
「いらん」
「そりゃ結構なことで」
嬉しそうに肩をすくめ、背中をむけて歩いていくスケルの後を追って、身体を引きずるように外にでた。
舗装のされていない通路をわたって大広間に向かう。
文字通り、このダンジョンの最奥であり、作戦会議などにも使われるそこに主要なメンバーの全員が顔をそろえていた。蜥蜴人からはリーザだけでなく、老いた長も参加している。
「おはようございます、マスター」
こちらに気づいたスラ子がにっこりと微笑みかけてくる。
「ああ、……おはよう。他のみんなも。遅れて悪い」
「大丈夫か? だいぶ疲れているようだが」
席につくと、肩掛けを巻いたマーメイドのエリアルが訊いてくる。
前線で指揮をとる彼女はこっちの事情など知らなくて当然だった。俺は渋面をつくって、大きなテーブルにつく中の二人に目をやった。
カーラとルクレティアは、それぞれ澄ましたような表情でこちらを見ようともしない。その表情には申し訳なさどころか、むしろはっきりとわかるくらいに血色が良さそうなのが見て取れて、俺は頭を振った。
「……いや。なんでもない」
くすり、と笑ったスラ子が、
「士気を高めるのもマスターの大事なお仕事ですからね」
意味ありげな視線を隣に座ったシィにむけて、
「シィ? シィも昨日は頑張ったんだから、マスターにしてもらいたいことがあればお願いしてみたら?」
いつものように頭にドラ子をのせたシィが、不思議そうにスラ子を見て、俺を見て。
しばらくなにか考え込むようにしてから、こくりと頷いた。
椅子からおりて、とてとてとこっちにやってくると――ぽすん、っと俺の膝の上に乗ってくる。
「シィ?」
頬をわずかに染めた表情が、ちらりとこちらを見上げた。
俺は開きかけていた口をとじて――ふわふわとした銀髪の頭に手を置いた。わしわしと擦ると、膝の上のシィがくすぐったそうに身をよじらせる。
シィが座りやすいように位置をなおしながら、改めてテーブルについた全員に顔をむけた。
真面目くさった声で、
「……それじゃあ、始めよう」
それを聞いた全員がぷっと吹きだした。
「ご主人。前々から思っちゃいましたが、まったくもって、これっぽっちも、威厳なんざあったもんじゃありませんねっ」
「ほっとけ」
シィからこっちに飛び移ってきたドラ子に頭をよじ登られながら、俺は仏頂面で答える。
「まずは状況の推移だ。俺がくたばってるあいだのことから頼む」
ちらりと視線をおくると、口元に微笑をうかべていたルクレティアがそれを隠すように金髪を振って、
「――ご報告いたします」
その場に立ち上がった。
「前回の戦闘から時間にして約半日が経過しています。これまでのところ、敵味方ともに復旧と次回の攻勢に向けた準備に注力中です」
テーブルの中央に置かれた精巧な立体模型を指さす。
リザードマン達が組み上げたそれには、あちこちに記憶にない小さな旗や印がついている。それがどういったものであるかは一目瞭然だった。
「こちらの状況ですが――上層奥部、敵方が構える仮拠点の近くで地下水脈を捻じ曲げられた影響の全体把握と、その修繕は可能な限りの範囲で終了しています。生き残っている仕掛けの確認。さらに、次に同じような手段で水流が溢れさせられた際、危険そうな場所の封鎖もひとまずのところ済みました」
「……バツがついてるのが駄目になった仕掛けに、部屋と通路。マルが無事な場所か」
「はい。ご覧の通り、中層域の前半部分がもっとも被害が大きく、その後に水流が拡散していくにつれ、影響は極端に減少しています。元々が、地下水の増水にも耐えられる天然の造りであったことが功を奏しましたわね」
「だが、仕掛けの大半はやっぱり駄目だな。無事なところも、浸水しないよう封鎖してるんじゃ、それこそ意味がない」
故意に溢れさせられた水流が入ってこないのはいいが、それで侵入者もやってこないのではそもそもの意味がない。
「おっしゃる通りです。現在の状況で敵方と対等以上に戦うには、よほど入念な作戦準備とその徹底した実行が必要となるでしょう」
「了解。その敵の動きは?」
「こちらの対応が整う前に畳みかけるつもりだったのでしょうが、スケルさんの奇襲で仮拠点までの補給が行き届いておらず、その意図は頓挫しています。現在、改めて外との連絡を図り、補給行動中。それが叶った段階で恐らく次の行動に出るはずです」
「行動ってのは。ようするに、攻勢か?」
「大攻勢、とでも言ったほうがよろしいかもしれません」
令嬢はそっけなく肩をそびやかして、
「地下水流を捻じ曲げ、そこに見出した侵攻路。他の通路より罠の可能性が少ない場所を利用して、彼らは一気に中層突破を目指してくるでしょう。その際には、少人数や軽装での行動が好ましくないことも理解している以上、全身を重装備に身を固め、相互の状況を容易に把握できるよう密集した隊形をとっての全力での侵攻が予想されます」
「……一騎当千の騎士連中が、文字通り一丸になってやってくるってわけだ」
わざと軽口じたててみるが、周囲の顔色は厳しい。
決して楽観できる状況じゃないなんてことは、言うまでもなく全員が理解している。一つ、息を吐いてから俺は表情をあらためて、
「状況はわかった。じゃあ、どうやって連中を迎え撃つかだ」
「必要なことが誘引、そして損耗であることは変わりません」
ルクレティアが言った。
「特に損耗について重要なのは、王都軍の個々人が備える魔力量でしょう。戦闘において魔法が決定的な役割を果たすことは、剣と鎧を備える彼らにとっても同様です」
「騎士だからって魔法を使えないわけじゃないからな」
というより、魔法を使えるうえで魔力が枯渇したあとの戦闘方法も備えている、というのがこの場合でいう“騎士”だ。
「はい。もちろん彼らもそのことは理解しています。この世界に満ちるマナは無限でも、個人に宿る魔力量、一日に使える総量はそうではありません。便利すぎるが故に多用してしまい、致命的な場面で不足してしまう。そういったことへの“抑え”や、個ではなく集団としての魔法運用。それらの徹底を含めた彼らの連携は、やはり侮れません」
「まあ、正面きって戦えば勝てない。っていうのが大前提だからな」
それは、“スラ子を頼らなければ”という話ではあるが。
「つまり、王女殿下の一行が仕掛けてくる“大攻勢”をどうやって捌くかは、連中の魔力をどう消費させるかって話になるわけか」
「はい。何人を倒した、どこまで侵攻された、ではなく、彼らにどれだけ魔法を使わせたか。どこまで疲労させたか、という観点から防衛戦闘を行うべきだと考えます」
「質問いいっすか?」
うーん、と首を捻ったスケルが、
「ルクレティアさんのおっしゃることはわかりますが、個人の魔力量ってのはそれこそ個人差でしょう? そんなの外から見てわかるもんなんですかね?」
「確かにな。一目見て相手の余力がわかれば楽なんだが」
顔色で疲労度具合はわかるかもしれないが、あいにく連中は顔までフルフェイスですっぽりだ。
「その問題はあります。王都の学士院にいた頃、一般的な魔法使いがどの程度の魔力を用いれば、一日の限界を迎えるか――というレポートを見たことがありますが、あまり信頼のおけそうなものではありませんでした。加えて、一国の精鋭である彼らにその結果がそのままあてはまるとも思えません」
「判断する材料はない、か」
「はい。魔法を使用する頻度や彼らの反応から推測するしかありません。洞窟内のスライムと結晶石を通じて全体の即時伝達が可能である我々はまだ恵まれています。個々人の判断に任せずにすみますから」
「……こっちで判断を間違わなきゃいいんだからな」
だが、それは言葉を返せば、俺がその判断を見誤れば大変なことになりかねないということでもある。
意識せずに全身が強張りかけるこちらをちらりと見やって、ルクレティアが続けた。
「ご主人様が的確な判断を下せるよう、周囲が情報の精査と助言に務める必要もありますわ。ご自分だけですべてをお済ませになる聡明さなど期待していません」
「ありがたい話だよ」
揶揄まじりのフォローへの感謝にと、俺は舌をだしてみせた。
暖かみのある冷笑でそれに応えた令嬢が、
「確かなことは、侵攻してくる敵方の誰一人として無限の魔力量を内包などしていないということです。唯一、その例外として考えられるのが“精霊憑き”ユスティス・ウルザ・ファダルーヌ王女殿下ですが、今までの行動を見る限り、王女殿下がそういった魔法的な力を発揮するのはご自分の肉体を通した場合に限ります。これはつまり、遠距離に作用する能力はない、と見てよいでしょう。完全にそう断定することは危険ですが」
「お姫様の能力は未知数だが、周りの連中の魔力さえ枯渇してくれれば、それだけでやりようはあるからな。孤立と同じだ」
「はい。加えて、もう一つ。彼らが干上がらせた川底を侵攻路にとる以上、新しい“道”を作るのにも毎回必ず土魔法を使わなければなりません。そうなれば必然、通路を用いるより彼らの消耗は激しくなります」
「川底を進むっていうのも、確かに罠の危険性は低くなるけど、良くない部分はあるよね。舗装がされてないからでこぼこしてる。そんなとこを、あんな重装備で歩くのってすごく大変だと思う」
「ああ、そうか。連中、あんな足場じゃあんまり機敏な動きは出来ないよな」
カーラの意見に俺はうなずいた。
「軽装である我々の方が、圧倒的に身動きをとりやすいのは間違いありません。周囲の地形情報も彼らの手中にはありませんからね」
「そいつはぜひとも、上手いこと攪乱したいっすねえ」
ルクレティアとスケルの会話をききながら、改めて目の前の立体模型に視線をむける。
ダンジョン上層域の最深部にある、王都軍の仮拠点。
そこからすぐの距離に強引に作られた“川底の道”。意外な手段で侵攻路を確保してきた敵方の動きは、だからこそ読みやすい部分もある。
同じように川底を拓いて侵攻するなら、連中がどういう風に動くかの予想は容易だ。そこに前もって戦力を配置しておくことも難しくない。
なら、問題は――
「……ルクレティア。お前の言う通り、連中の残存魔力を主眼においた遅滞戦闘で首尾よく消耗させられたとして。その後に正面から戦闘を仕掛けたら、こっちが勝てる見込みはどのくらいだ?」
俺からの質問に、令嬢は切れ長の瞳を細めて。
「半々、といったところでしょうか」
告げた。
「それも、楽観に楽観を重ねて辛うじて五分と言ったところでしょう。魔力が尽きた後でも近衛騎士達の地力は侮れませんし、なにより王女殿下が未知数すぎます」
「……半分勝つかもしれないが、半分は負けるってのは、賭けにでるのも怖い数字だな」
「正面からぶつかった場合の互いの力量差を考えると、そうなります。ですから、最後の直接戦闘をする場所にはやはりこちらの有利な地形を選びたいところです」
「仕掛けが使えそうなところはあるか?」
「使えそうな、というのではありませんが、使いたい場所はあります」
そう言ってルクレティアが指したのは、ダンジョン中層域の最奥といっていい深さにある、
「大広間か」
その広大な地下空間は、元々が上層で対処できない侵入者の存在を誘引して、ひたすら損耗させて疲労した相手戦力を最後に叩く、いわゆる決戦場として用意されたものだ。
ダンジョン防衛の要でもあるここには、戦闘を優位に進めるための仕掛けも多くある。確かにここに誘い込めれば、個々の力量では劣っている俺たちでも騎士団連中に抗えるだろう。
俺は模型図をじっと見つめてから、目線を令嬢に持ち上げた。
「問題、言っていいか」
「どうぞ」
すでにわかっている、という態度でルクレティアはうなずいた。
「この大広間、さっきの水流じゃあんまり被害はなかったのはよかったが、これからもそうだとは限らないよな。この部屋には繋がる道も多いから、どこから水流が溢れてくるかわからない。だからこそ、お前も俺が気絶してるあいだ、この部屋の入り口を土壁で封鎖しておいたんだろう」
その大広間に繋がる出入り口には、特に地下水流に近い側にはことごとく「封鎖」の印がつけられている。
「その通りです」
「その封鎖してる部屋まで、いったいどうやって相手を誘い込む? そもそも、そんな場所に連中が誘われてくれるもんか?」
「その点も、おっしゃる通りですわね」
平然とした態度を崩さない令嬢に、俺は訊ねた。
「どう解決する」
「後者については簡単です。彼らが求める獲物が目の前に現れれば、彼らの足は自然とそちらに向かうでしょうから」
周囲の視線が一点に集中する。
全員からの注目を受けて、俺は思いっきり息を吐いた。
「俺が餌か。まあ、そのくらいは予想してた。……もう一つの方は?」
「彼らを川底から追い出します」
ルクレティアは言った。
「追い出すだって?」
「はい。彼らに水流を枯れさせてそこを進むという行為が、彼ら自身にも危険極まりない行為であることを体験していただくのです。そうすれば彼らの誘導も容易です」
「連中に危険だって体験させる? 待て、それはつまり――枯れた川底に、水流を元に戻すってことか?」
「その通りですわ、ご主人様」
俺は令嬢が本気かどうかを確かめようとして目をすがめた。
「……連中、大攻勢って言ったって、まさか全員で仮拠点から出て来るわけがないよな。奴らが拠点近くで捻じ曲げた水流の仕掛けを守らなきゃいけない。そうしなきゃ、後ろから自分達が水流に押し流される羽目になる」
「おっしゃる通りです」
「ならお前は、連中が本気で守ってるとこにこっちから攻め込んで、仕掛けをぶっ壊せって言ってるんだな」
「ええ、その通りですわ」
ルクレティアはこちらを真っ直ぐに見つめて、うなずいてきた。
「容易いことではないことはわかっています。仮拠点の近くではスライムによる遠視の見通しも悪く、こちらにも相応の犠牲が出るでしょう」
犠牲。
――勝つために、必要な犠牲。
じわりと湧きあがるものを、俺は口のなかで噛み殺した。
今さら、犠牲をなしにだなんて言っていられる状況じゃないことはわかってる。
俺は竜じゃない。自分の我儘を通す絶対的な力なんて持ち合わせちゃいない。
それでいいと、決めたんだから。
だから。
俺に必要なのは子どもみたいに駄々をこねることでも、それを押し通す理不尽ななにかでもなくて。それを認めることだ。
認めたうえで、それでもそこから進むことだ。
「マスター……」
声に、ふと我に返って顔をあげる。
いくつもの視線が心配そうにこちらを見つめていた。
今の声は、カーラか。それともルクレティア? スケルかもしれない。不安そうにこちらを見上げている、膝の上のシィかも。
ただ、その心配する声は、決してスラ子ではないだろうということだけは、なぜかはっきりと確信が持てていて。
俺が決断を口にするべく声をあげかけた、その瞬間。
「――そう無理に迷うこともあるまい?」
声は、俺の腰元から聞こえた。
あわてて膝の上のシィをスラ子に預け、椅子を蹴って立ち上がる。俺が腰に差した短剣――メジハのリリィ婆さんから譲り受けたその鞘から、声は響いていた。
そこから浸みだすように、金色に輝く姿が現れる。
「ゴルディナ……!」
豪奢な肢体を露わにした精霊が、からかうような微笑を揺らしてみせた。
「どうした? 何を驚いておる」
「そりゃ驚くさ」
一気に跳ね上がった心臓の鼓動を落ち着かせようとしながら、俺はうめいた。
「いきなり他人の持ち物から姿を現すってのは、あんまり良識のある行為じゃない」
「わらわは金の精霊。そのあるところであれば、どこに姿を見せようとわらわの自由というもの」
言いながら、すっと俺に近づく。
その前に広げられたスラ子の手のひらが、金精霊のそれ以上の接近を制止した。
手の主であるスラ子は穏やかな表情のまま。
その眼差しだけが、極寒よりもなお冷たく静かに相手を見据えている。
「……ふん」
鼻を鳴らした金精霊が俺から一歩離れて、ぐるりと周囲を見渡した。
「ここがそなたらの拠点か。暗く、湿気た、いかにも似合いの場所ではあるが――」
その眼差しが、ひたりと壁際を注視して止まった。
「なるほど。このような仕掛けか」
洞窟内のスライムたちを通して送られる“映像”を見て、金精霊が唇を捻じ曲げた。
「大精霊様。これは――」
「まったく不穏よな。我ら九精霊のいずれでもない者が、どの精霊にも属さぬ力をこうも明快に行使しておいて、汝らはただそれを黙認しておるというわけか?」
ぐっと口を噛みかけたヴァルトルーテだったが、
「……いいえ。大精霊様。そうは思いません」
押し殺すような声で、言った。
「ほう? ではいかなる了見か」
面白そうに金精霊が問う。
ヴァルトルーテは、眉間に深く皺をきざみ、こちらへと視線を向けて。長い間の沈黙のあとに、
「彼女は……この洞窟を守護しているだけです。世界を滅ぼしかねない、この山頂に棲む黄金竜への無謀な接近。そこから生じる災厄を掃おうとしている。その事に限って力を行使する限り――それが非難に値するものではないと、私は思います。何故ならそれは、……この世界の均衡を護ろうとする行為だから、です」
苦渋に満ちたヴァルトルーテの顔を興味深く見つめてから、金精霊ゴルディナは高らかな笑い声をあげた。
「うふふ、これは面白い! エルフよ、かつての我らが代弁者よ! そなたはつまり、この者の存在を認めようてか。なんと愉快な! 聞いておるか、風の」
「……聞いてるヨ」
微風ととともに、風の精霊シルフィリアが憮然として姿をあらわす。
「聞いておるなら、そなたも笑うべきであろう。こともあろうか、この者は今この“紛い物”を我らと同格に見ようと言ったのだぞ? 十番目――いや、十一番目の同朋か。ふふ、これを笑わずしてなんとする」
とっておきの冗談を耳にした風に、金精霊は身をよじらせてしばらく笑ってから。晴れ晴れとした表情で見据えて、
「よいぞ」
その一言に、当のヴァルトルーテどころか、それ以外の全員がぎょっとした。眦をつりあげたシルフィリアが、
「ゴルディナ。何を言って――」
「何もなにも。よいぞ、と言っておる。先の妄言、このわらわが認めてやろう」
「ゴルディナ、あんた……!」
風精霊が憎々しげに睨みつける。
それを平然と受け流す金精霊に、俺は強烈な違和感をおぼえた。
なんだ?
精霊は、精霊同士で争わないんじゃなかったのか?
どれだけ異見があろうと決して争わない。その奇妙な在り方こそが精霊的であるというのなら、今目の前で異見を戦わせているこの状況はなんだ?
俺が感じたような困惑は、恐らく俺以外にも思ったことらしく、ヴァルトルーテやツェツィーリャだけでなく、その他の全員が眉をひそめて事態の推移を見守っていた。
――いや。
ただ一人、スラ子だけは相変わらず落ち着き払った表情のままだった。
「それで、何をしにいらっしゃったんですか?」
いっそ穏やかなほどの声音。
ちらりとスラ子をみたゴルディナが不快そうに顔をしかめたが、すぐに気を取り戻したのか優雅な表情をつくろった。
「なに。互いに苦労しているようだからな。仲介でもしてやろうかと思ってな」
「仲介?」
俺は顔をしかめて、
「なんだそりゃ。精霊が、講和の橋渡しでもやってくれるってのか」
「それを望むなら」
冗談の様子も見せずに金精霊がうなずいてくる。
俺は相手の真意を計れないまま、
「……意味がわからないが、あんたがそうしてくれるってんなら、王女殿下に今すぐ『竜のことは諦めて国に帰って欲しい』って伝えてくれ。そうすりゃ、こっちも戦わないで済む」
「ふむ。それは出来ぬな」
「なら、」
「まあ聞くがよいぞ、人間」
金精霊はこちらの言葉をさえぎって、
「そなたらにとっても悪い話ではない。話によっては、わらわはそなたらについてやってもよいと思っておる」
「……なんだと?」
意外すぎる台詞に、俺は眉をひそめた。
「俺たちにつくだって? どういうことだ」
「言ったであろう。わらわは憂いておる。故に、新しい仕組みが必要だと確信しておる。そして、その仕組みを体現する者を求めておるのだ。その体現者に、そなたらがなるというのなら――そのそなたらとわらわが敵対する理由などあるまい」
あるいは敵の親玉かと思っていた相手からの突然の転向宣言に、俺は混乱した頭で周囲に目線を配った。
発言の意図を考えるように顔をしかめたルクレティア、困惑するカーラたち。厳しい眼差しを金精霊にむける二人のエルフとシルフィリアを見てから、視線を戻す。
「俺たちが、体現者だと?」
「いかにも。わらわの願いを叶えてくれる者がいるなら、わらわはその者こその味方である」
「あんたの願いってのは。精霊の通貨っていう、あれのことか」
「精霊の下に生まれ、流通する貨幣。それこそがわらわの望みである」
「おかしいじゃないか」
俺は頭を振った。
「上にやってきてる王女様とそのご一行は、その為にこんな田舎までやってきてるんだろう。あんたが俺たちにつくっていうのは裏切りじゃないか」
「あの者達は困窮する自国を救わんと願っておる。わらわのつくる通貨を奉り、それを率先するならその願いは確かに叶おう。それが叶うのであれば、彼の者らとそなたらが必ずしも争う必要はない。そなたらが、通貨流通による利益を独占したいというなら別だが――」
そうなのか?とからかうように、金精霊はこちらに向けて顔を傾けてみせた。
俺はそれに答えず、
「……竜のことは? 竜を利用させるつもりなんて、俺たちにはないぞ。そこの意見が一致しなきゃ、協力なんて出来るわけがない」
「ふむ。その事であるが」
金精霊は小首をかしげたまま、
「理由はわからぬが、そなたは妙にあの竜の信用を得ておるらしい。ならば今のまま、竜の代理人として認められぬでもない。そのそなたが協力するというなら、こちらも不要なリスクを抱える必要はないのではないかと思うたのよ」
つまり、と言う。
「そなたが協力してくれるなら、これ以上の争いは不要となる。まあ、それを上の者達が聞くかはわらわの知る処ではない。故に上の者達の行動についてわらわがなにを保証できるでもないが、それこそそなたらの話し合い次第というところであろう」
……本当なのか?
当然のように、俺のなかからは疑いの気分が晴れなかった。
本当に、このゴルディナが言うように、このまま戦闘が終結する可能性があるのだろうか?
深く考えるまでもなく、ひどく美味すぎる話に思えた。
騙そうとしているのかもしれない。
だが、精霊が騙そうとするなんてあるだろうか。
それに、ゴルディナの提案は実際ひどく美味しい話でもあった。
精霊の通貨が云々という話はおいておくとして、精霊と事をかまえる危険性がなくなるというのがうまい。
つまり、スラ子が“危険”だと見做されるようなことがなくなり、そこにストロフライが関わってくる可能性もなくなる。
ストロフライへのちょっかいを諦めるというなら、それこそが俺たちの目的でもある。
精霊の通貨については、俺に即答できるような話ではないが――そもそも、俺たちだってギーツやアカデミーで人間と魔物との異種族間の経済交流をすすめようとしている立場なのだ。
話次第で、上手い具合に落としどころが妥結する可能性はある。
それで上にいるレスルート国の連中も一緒に救われるというなら、それに越したことはない。別に俺たちは、あのお姫様やそれについてきた騎士連中に恨みがあるわけではないのだから。
――誰も損をしない、のか?
そんなこと本当にあるのか、と俺がさらに一層疑り深く相手を見据えようとしていると、
「一つ、お伺いしてもよろしいですか」
と訊ねたのは金髪の令嬢ルクレティア。
冷静な眼差しが俺をみる。
俺は黙ってうなずいた。
「差し許す、人間よ」
鷹揚にうなずく金精霊に、
「……精霊の貨幣。人間、魔物を問わず一気に流通する共通貨。その有用性は大いにあると思います。貨幣という価値観で全てを塗り上げる。文字通り、それはこの世界を新しく支配することに繋がるでしょう」
「人間にしては聡明であるな」
「そこで問いますが、貴女はいったいどこまでを支配するおつもりなのですか?」
金精霊が不思議そうに首をかしげた。
「どこまでとは?」
「貨幣とは価値を担保するものです。そして、その為にはなによりまず釣り合いが必要とされます。全くなくても、逆にありすぎても意味がありません。そこに貴女はいったいどの程度、介入されるおつもりなのですか」
驚いたように金精霊が目をみはった。
「……これだから人間は侮れぬ」
感心したように囁いてから、
「聡明な人間よ。いかにもそなたの言う通りであるな。価値とは天秤の振れ幅が道理。故にそれを量り、調整する役柄が必要不可欠である。それはわらわとその眷属以外にありえぬ」
「では、貨幣高権の全てを精霊である貴女がたが独占すると?」
「直接的にはそうなる。しかし、貨幣から生まれいづる力とはそれだけではあるまい。人間よ、欲深く非力なそなたらが生み出した“貨幣”にはそれ以上の力がある。そう、無限の如き力がな」
それを聞いたルクレティアは美しい眉をひそめて、囁くように、鋭く呟いた。
「――“利貸し”ですか」
「いかにも」
金精霊が笑う。
それはどこかひどく歪んだ、なにかの自信に満ち満ちた表情だった。
「利貸し?」
「利子利息。つまり金貸しです。今日、金貨一枚を貸すから、返す時には金貨一枚と銅貨十枚にして返せよというような」
「いや、それはわかるが。金貸しがどう影響するってんだ?」
「これはまた人間らしい愚鈍さよ」
嘲るように俺を笑ったゴルディナが、
「自らの生み出したものが、どういった結果を及ぼすかまるで理解しておらぬ。だからこその人間か。優れた者には生みだせぬものも、確かにある――」
あきらかに褒められていないとわかったから、俺がなにか言い返そうとしたところに、
「その人間の愚かさを。利用されるとおっしゃるのですか、大精霊様……!」
詰るようにうめいたのは、ヴァルトルーテだった。
「未熟で、危うい。彼らが持て余すに違いないその気性を利用して、己が望みを果たされるというのですかっ」
「清廉なそなたらには叶わぬことであろうからな」
ゴルディナは哀れむような声で、
「そなたらは清く、正しい。故に誰からも認められず、ただ疎まれるのみ。それに傷つき、自分達の住処に引き篭もったのはそなた達自身であろう」
「それは……」
悔しげに唇を噛み締める。
「そなたらが庇護し、教えた人間。未熟で愚かなその教え子は、その未熟さゆえにそなたらをついに超えたぞ。金を貸す。そこには利が生まれる。利が利を生み、際限なく積み重なる。そしてそれは、実際に存在しない額にまで堆く積み上がるのよ。知っておるか、エルフよ。こやつらはそうして、やがて竜にさえ値段をつけてみせたぞ」
ほとんど哄笑するように、金精霊は言った。
「なんという傲慢。なんという驕慢か。まるで無限に在るマナの如く、この者達は数を無限にこの世を計ろうというのだ」
「――数とは無限を表すものではありません」
「故に如く、と言ったのだ。聡明な人間よ」
ルクレティアの台詞に、金精霊は機嫌よさげに応えた。
「勘違いするでない。わらわはそれを評価しておるのだ。無限のマナに対して、マナの関わらぬ概念で抗おうというのだからな。その健気さは余りある。故に気に入った。そして確信した。これこそが、この世界の均等をつくる最良の手段であるとな」
ルクレティアとヴァルトルーテが沈黙する。
それを眺めるようにしてから、金精霊ゴルディナは視線をこちらへと向けてきた。
「さあ、人間よ。わらわに協力するがよいぞ。それはつまり、そなたがこの世界を手中にするにも等しい」
しん、と空間が静まり返る。
その場にいる全員からの視線が突き刺さるのをひしひしと肌に感じた。
俺は、細く長く息を吸いこんで。
吐きだした。
……落ち着け。
すぐに答えなんかでなくっていいはずだ。
人より頭が回るわけでもないんだから、その分俺はじっくりと考えないといけない。
それが許されない状況だってあるだろうが、今この場はそうじゃない。
もしも目の前にいる精霊が俺に即決を求めてくるなら。そこにだって、なにかの背景があるはずだ。それを見抜け。
考えろ。
考えて、考えて、考え抜け。
俺の判断には俺以外の連中の今後だってかかっているんだから、いくら悩んだって悩み足りない。
そうしていくらでも悩んだあとに――しっかりと決断してみせろ。
「ふむ」
こちらの返答を待っていた金精霊が、いつまでもそれがないことに痺れを切らした様子もなくうなずいた。
「なかなか慎重である。よかろう、では答えは今は聞かぬ。精々、懸命に考えて結論をだすがよい。――それほど時間があるとも思えぬがな」
口にしたその姿が溶けるようにして宙に消える。
霞と失せた場所をしばらく見つめてから、俺は大きく息を吐いた。視線を周囲に向けて、
「……どう思う?」
「判断が難しいところですわね」
視線を受けた金髪の令嬢が頭を振った。
「非常の旨みのある提案ではあります。マナを司る精霊が、まさか与太話を持ち掛けようとしているとも思えません。種族や国家の別を問わない、全種族共通貨幣。もしもそれが流通することに成功したのなら、その意義は計り知れません。そこには確かに、あの金精霊が口にするだけの将来性があります」
「こっちだって、アカデミーとの商売やろうとしてるんだしな」
「はい。通貨鋳造とその管理を行うのも、精霊の公平さに委ねるというのは一つの道理ではあります。その元で十分な恩恵に預かれるというなら、考える余地はあるでしょう」
別に俺たちは正義の味方をやっているわけじゃない。
いや、精霊と与することになれば、それこそ俺たちがそちらの側に立つということになる。
精霊の意思を表す、秩序の体現者。
そんな立場を任されるのは背中がむずがゆくなるようで御免だが、少なくともそういう立場にあれば、この洞窟――そしてこの山を不届き者の手から護ることはできる。
そういう名分を、手に入れることができる。
つまりそれは、スラ子もまた認められるということだ。
それだけで俺にとっての意味は余りある。
スラ子がいるダンジョン。そこから外に開かれて色々なことが生まれるきっかけになる、そういう場所を護るということこそが、俺の望みなのだから。
だが――
「考える余地はある。なら、ルクレティア、逆にお前が素直に頷けないって部分はどこだ?」
「……恐らく、ご主人様がお感じになっている部分と同じでしょうね」
ルクレティアは言って、もう一度豪奢な金髪を振った。
「その判断は、保留にしておくべきかと思います。恐らく最終的にはそこが問題となってくるでしょうから、急いても仕方がありません。それよりも、今はこの状況を利用できることを考えるべきです」
「利用する?」
「はい。金精霊が先ほどのような話を持ち掛けてきたのは、少なくとも王女殿下の一行にとっては裏切りにも近いものであるはず。両者の間に隔たる意識差はもはや確定的です。ならばそれを楔に、有利な交渉を持ち掛けられるはず」
「金精霊から持ち掛けられた話を、即行で王都軍の連中にバラすのか?」
「黙っているように、などとはあの精霊から言われておりません」
ルクレティアは冷笑を浮かべた。
「交渉の結果、我々と王都軍、そして金精霊の三者がそれぞれに納得できる妥協点を得られるなら結構。そうでなくとも、彼らが仲違いしてくれるならそれもまた良し。それすら叶わなくとも、時間を稼げればそれだけこちらの準備は整えられます。スライムによる遠視というこちらの手の内がバレた以上、今後の戦闘指揮にはより一層の注意が必要になるでしょうから」
「なるほどっ。さすがルクレティアさん、あくどいっすなぁ」
「あくどいとはなんですか、失礼な」
大きくうなずくスケルに、ルクレティアが不満そうに眉をひそめる。
「……最低でも時間稼ぎになるなら、呼びかける意味はあるな」
「はい。そしてもちろん、その間にしっかりと準備を整えておかなければなりません。交渉が上手くいかなかった場合のことを考えて」
「ああ。そういや、その話だったな」
俺は頭を振って、
「大広間への誘導。そのために、仮拠点近くの仕掛けをぶっ壊して地下水流を元に戻す、か。……それ以外の策はないか? ルクレティア」
「戦略的な観点からの搦め手ならいくつかありえますが、実際の戦術面では、これ以上の策は現状では思いつきません。申し訳ありません」
「……わかった」
俺はうなずいて、顔をあげた。
全員を見る。
仮拠点への攻勢。
スライムによる映像支援が届かないそこでの戦闘では、激しい反抗が予想される。
犠牲は必ずでる。
その犠牲を覚悟してそれをやるか。
それを実際にやるなら、誰にやってもらうか――
「……じゅら」
短く声を発したのは、一人の蜥蜴人。
まだ年若いリーザではなく、鱗に覆われた巨体のあちこちをヒビ割らせた老リザードマンが、
「じゅらや、じゅらしゅらら」
俺にはまだ理解できない蜥蜴語を、傍らのスラ子がすぐに訳してくれる。
「――自分がやろう、とおっしゃっています」
「じゅら」
縦長の虹彩で俺を見据えた老いた長は、気負うのでも声を荒げるのでもなく。
短い言葉を繰り返して、重々しくうなずいてみせた。