十七話 決戦前に
斥候隊の一つを潰した時点で、俺はエリアルに遅滞戦闘の終了を伝達した。
マーメイドとリザードマンを退かせる――分隊の一方と連絡が途絶えた王都軍も、すぐにそれに気づいて侵攻を中断、味方の探索に入り。程なく重傷を負った三名を見つけて仮拠点まで撤退した。
ダンジョン防衛の本命である中層攻防戦。その初戦はこちらの優勢勝ちといっていい内容だが、防衛側で参謀役を務める金髪の令嬢はその程度の戦果では満足しなかった。
王女殿下と近衛騎士の一行が仮拠点に戻った時点で、ルクレティアはすでにスケルに率いさせた少数の奇襲隊を上層まで進出させていたのだ。
そのまま、地上と仮拠点間を往復する物資運搬隊を強襲させる。
運搬隊には数名の護衛はついていたが、スライムによる遠見と結晶石を用いた指示伝達を受けるこちらの奇襲はほとんど卑怯なレベルで、なんなくそれは達成された。
積荷をあらかた奪い、持ち出せないものは使えないように壊したり、沈めたり。しばらくして下層まで戻って来た奇襲部隊の面々は、両手に持てるだけの食糧を抱え込んでいた。
「やー。大漁、大漁! ただいま戻りましたー」
「お疲れさん。なにか外と連絡とりあってそうなのはあったか?」
「いやあ、それが。積荷をひっくり返して探してみたんですが、そういうのは見つからなかったっすねえ」
ふむ、と俺は腕を組んだ。
今、王女様とそれに随行してきた連中の主力はこの洞窟内にこもっている。彼らがメジハの町にいる味方とやりとりをしているなら、手紙か何かが運ばれている可能性が高いと思ったのだが、
「わかった。とりあえず、ゆっくり休んでくれ」
「ういーす。すみませんが、そうさせてもらいますー」
表情には出していないが、ずっと走り回って疲労も溜まっているはずだ。ふらふらとした足取りで部屋をでていく後ろ姿を見送ってから、視線を戻す。
部屋にはカーラとルクレティア、そしてヴァルトルーテの三人が顔を並べていた。
シィ、エリアル、リーザらは前線での指示や負傷者の手当て、被害状況の把握とその復旧に忙しく、スラ子も今はシィに付き添っている。戦闘が始まったのと同じタイミングで姿を消したもう一人のエルフは、まだ戻ってきていない――と思ったら、スケルと入れ替わりに不機嫌そうな顔が入ってきた。
こちらに声をかけるどころか、視線すらあわそうとしないツェツィーリャを横目にしながら、俺は口をひらいた。
「ルクレティア、続きを」
「はい。先ほどの直接戦闘ではこちらの完勝とまではいきませんが、向こうに相応の痛手を与えることが出来ました。負傷者の近くには鋼線もそのままにしてありますから、どういった顛末かは容易に察知できるはず。軽装での行動が危険だという認識を彼らが持てば、これ以降の斥候にも慎重になるはずです。あの重たい鎧を片時も脱げないというのはそれだけでかなりの負担になります。体力的にも、精神的にも」
「安全な場所でしか装備を脱げない。とりあえず、連中を仮拠点に押し込めることは出来たか」
「さらには、スケルさんの襲撃が成功しました。彼らもすぐに物資運搬隊が襲われたことに気づくでしょう。自分達の後方が決して安全でないとなれば、彼らの行動はかなりの範囲で制限されます」
「撤退、してくれるかな?」
期待を込めたようなカーラの問いかけに、ルクレティアは静かに首を振って、
「どうでしょう。私が王都軍の立場なら、仮拠点の確保と後方安全の確保。これらに注力しつつ、外から冒険者を呼び込んで数に頼んだ威力斥候を行います。物量による飽和作戦は我々にとってもっとも恐るべきものですが、少なくとも現時点での動きを見る限り、その可能性は少ないように思われます」
「なら、今度はしっかり全員に重装備をさせつつ、今日みたいな斥候か」
「――と、思っていたのですが」
令嬢の口調に、それまでになかった感情が滲んだ。
「違うのか?」
「……普通であれば、その可能性が高いと思われます。周囲のサポートを受けた王女殿下の侵攻力は、その速度はともかく、異常です。少しずつでも確実に、中層域の地形情報も明るみになってしまうのは止められません」
「それを分かった上での遅滞戦闘だろ? お姫様の進軍速度を少しでも遅らせて、その間に周囲から戦力を削っていくって方針だったじゃないか」
「はい。先ほどの戦闘で、こちら側の狙いが王女殿下よりむしろその周囲にあるということには敵方も気づいたはずです。今後は分隊の動きもより慎重な、襲撃を警戒したものになることが予想されます」
「つまり、あのお姫様の止められない進軍が最奥に辿りつくまでと、その間にこっちがどれだけ向こうの兵力を削れるかって展開じゃないのか?」
「その通りです。消耗戦じみた争いは、本来であれば我々が採るべき策ではありません。しかし、今回の場合、彼らもまた容易に人員を補充できる状態ではなく、何かしらの理由で結果に焦っている状況であるならば持久に持ち込むことが最善だったはずです」
だった、はず。
その言葉は令嬢の思惑が外れたということを意味していたから、俺は眉をひそめて、
「どういう意味だ」
ルクレティアはわずかに顎をひいて、
「こちらにとっては、ジリ貧でも相手の兵力をすり減らし続け、最終的に敵方を撤退させれば一応の勝利ではあります。しかし、王都軍の方々にとってはそうではありません」
俺はひどく思い詰めていたお姫様の表情を脳裏に思い出した。
「成果が出るまで帰れない。帰らないって感じだったな」
「はい。ですから彼らは恐らく、その前に大規模な攻勢に打って出るでしょう。自分達が疲弊しきる以前に。それこそ、その攻勢で結果を出さなければ国元に帰れない、という覚悟と決意で攻め入ってくることが予想されます」
少しその場面を想像してみただけで、全身に鳥肌が立った。
「……死に狂いの連中と戦わなきゃいけないってのは、あんまりぞっとしない」
頭を振って、
「だとしたって、こっちに出来ることは遅滞戦闘と、相手の戦力削るのに集中をって話じゃないか? 連中、すぐに決戦に持ち込める状態じゃないんだ。なにせ道を知らない。鈍亀みたいに、ゆっくり確実に、斥候しながら前進しかできないはずだろう」
「道はすでにあるのです」
ルクレティアが言った。
「なんだって?」
顔をしかめる俺に合わせるように眉根を寄せて。令嬢は、テーブル上の立体模型に細長い人差し指を伸ばした。
「道なら、ここにあります」
その指先の示す箇所を見つめた俺は、相手の意図に気づくまでしばらくかかった。
「……地下水流? ――あっ」
怪訝そうに眉をひそめたカーラが絶句する。
俺は呻いた。
「地下水流の、“川の底”か」
「そうです」
令嬢が頷いた。
「彼らが塞ぎ、捻じ曲げて枯れさせた地下水脈道。この洞窟内を流れる大きな水流の跡地は、そのまま彼らにとって格好の侵攻路に成り得ます」
改めて立体模型図を注視する。
上層の奥に作られた侵攻側の拠点。その程近くを流れる地下河川に行われたなんらかの仕掛けで、そこから先の水流の在り方は激変した。
地上部分と、リザードマンたちが生活していた地下深くとを繋げたこの洞窟には、多くの地下水が流れてきている。近くの湖。それに、山に降った雨水が浸みこんだりといった具合にだ。
王都軍が流れを大きく変えたのは、その一本。決してその一本だけが洞窟内の水流の全てというわけではない。だが、本流ともいうべきものではあった。
その結果、溢れた水流が意図しない場所に流れ込み、今までにない水流を作りだして。ダンジョンの構造はかなりの被害を被った。
それだけでもこちらにとっては痛手だったが、
「新しい道なら、そこに罠がある可能性は低い。水流を利用した罠ならともかく、水流そのものに罠なんてほとんど仕掛けてないしな。掘削して新しい道を作ろうとすると落盤が怖すぎるが、水を抜くだけならその心配も少ない。主流ほどの川幅があれば、連中の主力であるお姫様が得物を担いでそこを通るのに十分な大きさがある……」
「加えて、地下水流を捻じ曲げることで我々の混乱も誘えます。こちらの防衛戦力の半分はマーメイドの方々であり、彼らの迅速な移動手段にも地下河川は用いられていますから」
「一石二鳥どころか、四鳥ってか? 勘弁してほしいもんだ」
うんざりというよりは、相手を賞賛したい気分で俺は天井を仰いだ。
そうした気分はルクレティアも同じらしく、
「さすがは精鋭、近衛騎士団といったところでしょうね。ダンジョンの探索など本職ではないはずですのに、よくお考えになること」
肩をすくめる。
俺は背もたれに預けた体重を一気に前かがみに押し出して、
「――ようするに、連中が決戦を仕掛けてくる舞台はすでに整ってる。そういうことなんだな、ルクレティア」
「そのように考えておくべきでしょう」
ルクレティアが頷いた。
「彼らにとって主目標であるはずのご主人様が、間抜けにも溺死するかもしれないリスク。それを知りつつ水流を氾濫させ、隙をつくる。彼らの行いは意表と無謀の線上で踊るようなものです。明らかに彼らは焦っていて、だからこそ中途半端な行いには出ないはずです。やるならば、必ずやりきる。そういう気概を固めていることでしょう」
「こっちが混乱してる間がチャンスだからな。せっかく水を抜いてつくった新道も、そこに改めて罠を張られたりしたら意味がない。なら当然、その前に攻めて来るか」
「既存の進路が想定以上に警戒が厳しいなら、なおのこと彼らにとっては新道を活用する意味が大きくなりますわ」
俺は組んだ手に顎をおしつけて、
「策はあるか? これ以上、連中の好きにさせない方法は」
「……難しい、としか申し上げられません」
豪奢な金髪が振られた。
「相手方が我々より“上”をとっている以上、不利な部分は出てきます。彼らが攻め、我々が守る。基本的な立ち位置も同じです」
「あの人達が仮拠点近くにつくった仕掛けを壊すってのはどう? 水流が元に戻れば侵攻路も消えるよね」
「それは私も考えましたが、王都軍の方々も同じようにそのことは予想しているでしょう。仮拠点の防衛、そして仕掛けの防衛には人数が割かれているはずです。仮拠点周辺ではスライムによる視覚情報が入らないことを考えれば、それだけでこちらの不利は免れません。不可能とは申しませんが、相応の犠牲は覚悟すべきです」
それに、と続ける。
「彼らが行った仕掛けを壊した結果、水流が素直に以前のような形に戻ってくれるとも限りません。天然洞窟であったこの場所の構造は複雑です。元に戻そうとして、かえって被害が増えてしまったのではそれこそ意味がありません。それよりも、今はこれ以上の被害が出ないことに注力すべきかと思います。彼らは必ず同じような手を繰り返してきます」
「水の抜いた新道が途切れた先で、また土魔法でも使ってくるわけだ。なるほど、確かにな。……対策は?」
「ひとまず、生き残っている罠部屋などにはリザードマンの方々に頼んで土嚢を積んでもらっています。こちらにはあまり土魔法の使い手がいらっしゃいませんから――必要な場所には後ほど、私が行って直接、封鎖しておこうと思います」
「わかった。一応、ノーミデスにも話を通しておく」
この洞窟の天然の管理者である土精霊は、昔から他者の行いが影響を及ぼすことに寛容だったが、人間同士の争いが始まるようになってからはほとんどどちらも無視するようになっている。
無視というより放置に近い。
恐らく、それが彼女の精霊としての立ち位置なんだろう。
精霊としての立ち位置。
属性、あるいは人格性によって異なる立場と思考を考えながら、
「なら、今やるべきことは引き続き被害の確認と、応急処理。それから連中が仕掛けてくる決戦についての対策を考えておくことだな」
「はい。最速で明日にも、彼らが仕掛けて来る可能性はあります。そして、その後のことも考えておかなければなりません」
「その後?」
「どちらかが全滅するまで戦う、などという血生臭い結末はご主人様にはお好みではないでしょうから」
澄ました顔で言ったルクレティアが、
「王女殿下の一行が仕掛けてくる決戦を制した際、相手にとっての逃げ道を用意しておくべきかと思います。具体的には、講和の道筋ですわ」
「問題はどこを落としどころにするかだな」
反射的に応えてから、そこで口をとじる。
はかったように、ルクレティアも口を閉ざしてこちらに意味ありげな視線をおくってきていた。
わざと俺から言わせようとするあたり、性格が悪い。――いや、たしかにこれは必要なことだと思い直して、俺はため息をついて、
「……精霊だな」
いった。
ヴァルトルーテが顔をゆがめて、向こうの壁際で背中をあずけているツェツィーリャが面白くもなさそうに鼻を鳴らした。
眉をひそめたカーラが、
「精霊? 王女様のそばにいる金精霊ですか?」
「ああ。あの精霊――大精霊は異常だ。あいつがやろうとしていることは明らかに、精霊としての本分を逸脱してる」
「どういう意味ですか?」
カーラの質問に、誰もなにもいわないことを確認して、俺は続けた。
「……精霊は受動的だ。消極的で、外発的。そういうイメージを俺たちは持ってる。実際、その通りなんだろうと思う。一般的な精霊の在り方なら、それは間違ってない。――けど、あのゴルディナは違う」
それぞれの表情で沈黙する二人のエルフに目線を向けながら、
「精霊は基本、この世界で起こった出来事について関知したりしない。ただ、世界そのものを揺るがす重大事――魔王災が起こった時にはその限りじゃない。逆説的には、彼らが動く時はそれほどの“世界の危機”ってことだ」
「はい」
「なら、今、あの金精霊が動いてる“世界の危機”ってのはなんのことだ? これからの世界秩序が云々だとか、本人は言ってた。これから来る貨幣の時代とか、その混乱とか。そういう予測や不安があるかもしれないってのはわかる。だけど、あの金精霊がそのためにストロフライの力を借りようとか思ってるのはどう考えてもおかしい。“世界の危機”をどうにかしようとして、別の“世界の危機”を呼び込もうって話だからな」
「消極的どころか、むしろ積極的ですらあるでしょうね。今までの代弁者であった賢人族から、より愚かで欲に満ちた人間を選ぼうとすることも含めて」
「ああ、そうだ。そんな精霊が外発的なのかって疑問だ。本当に、連中の内部には動機ってものがないのか? 俺はそうじゃないと思う」
そこで呼吸を区切って、
「精霊は――少なくともあの大精霊ゴルディナは、能動的で、積極的で、自発的だ。俺はそう感じる」
俺の視線に気づいたツェツィーリャが顔をしかめた。敵でも見るように思いきり睨みつけてくる。
「……なんだよ、そのツラは」
「反論があるなら聞くけどな」
「――反論? 反論だァ?」
口の悪い銀髪エルフは唸るように歯を剥きだしにして、
「ンなもんねぇよ。ボンクラ、手前の言ってる通りさ。――あの金精霊はイカれてる」
「ツェツィ!」
咎めるような姉にちらりと視線を送って、
「だってそうだろ。ヴァル姉、さっきあいつに会いにいったけどな、確認したさ。あいつははっきり言いやがったぜ。これからは自分が主導するってな」
俺は顔をしかめた。
「主導? なんの主導だ」
「決まってんだろうが。この世界だよ。これから人間、魔物を問わず広がるだろう貨幣、その大元を握って自分がこの世界を管理、主導するんだとよ! これが掟破りじゃなくてなんだってんだ!?」
「……精霊同士に、掟なんてないわ」
ヴァルトルーテが弱々しくかぶりをふった。
「それぞれの精霊は、各々の思うやり方でこの世界の均等を求める。それが精霊だもの。そうでしょう?」
「だったらこりゃなんだってんだ! あんな身勝手なやり方に、他の連中まで従わなきゃいけないってのかよ!」
「――それがゴルディナの狙いなんデショ」
吐き捨てるようなツェツィーリャに応える声。
微風とともに現れた風の精霊シルフィリアに、俺は訊ねた。
「どういうことだ?」
ちらりとこちらをみた風精霊が、
「あたしらには指示系統なんてナイ。上も下もナイ。だから強制もないし、命令もナイ。でもお互いに争うようなこともナイ。キミが言った通りダヨ。あたしらは“そういう風”に出来てる」
「……つまり、誰か言いだした奴がいれば、その意見がそのまま通るってわけだ。全体の意見として?」
協議や反論というものが存在しない。
それぞれが異なる思考や立場を持ちながら、決して仲違いすることはない。
確かにそれは、ひどく歪な在り方だった。
本来ならありえない。
普通は、異見があればそれは争いごとになる。“普通の生き物”であれば。
「ま、それで協力するかは別だけどネ。だけど、今回のゴルディナのやり口はちょっと嫌だナ~」
「……貨幣による人間・魔物社会の掌握。それだけではなく、精霊間での主導権を握ろうという目論見でもあるわけですね。傲慢、強欲の金精霊。なるほどと思える話ではありますけれど」
呆れたようにルクレティアが頭を振った。
ちっ、と舌打ちしたツェツィーリャがつかつかとこちらに向かってくる。そのまま乱暴に俺の襟首をつかんで、すごんでくる。
「――オレがなによりムカつくのはな、ボンクラ。手前のクソったれたあの精霊喰らいのヤツが、上にいる金精霊よりよっぽど自制してるように思えるってこった。もちろん、あの野郎はそんなこと百も承知でそうやってるんだろうがな。胸糞悪ぃ……!」
憎々しげに、乱暴なエルフは突き飛ばすように俺を放して、そのまま部屋から出て行った。
「ツェツィ! ……すみません、私も」
その後を追って、ヴァルトルーテも去っていく。
俺はやれやれと頭をふって、
「マスター。ツェツィが言ってたことって……?」
不安そうなカーラの視線に眉をしかめて。頷いた。
「……ああ。スラ子は多分、わかってる。だから、あいつは手を出そうとしてないんだ」
だから、スラ子は自分の力を振るわず――俺たちの補助にまわっている。
あの金精霊が、スラ子やストロフライを“世界の危機”と認定してしまうようなことがあれば、それはそのまま金精霊の行動を正当化する口実にまで成り得る。
スラ子は、そうさせない為に動いていないのだ。
自らの力の行使を、スライムによる遠視という極めて強力な、だが限定的なものに抑え。
その範囲を、黄金竜の気ままで破滅的な行いから世界そのものを護るという意図と、この洞窟内という区域に制限させて。
スラ子のことを毛嫌いしているエルフ姉妹が、それでも認めてしまわなければならないほど、その行いは徹底している。動かないことで最大限、こちらをフォローしてくれている。
――本当にそうか?
隙間風のような疑問がふと胸によぎった。
スラ子が直接的な行動を起こしていない理由は、本当にそれだけか?
もしかしたら、そこにはもっと別の意味があるかもしれない。
例えば。これから先に、自分が全力を尽くさなければならない“何か”が控えていることをわかっているからこそ、今はその力を温存しているだけ、とか――
不吉すぎる空想に、俺はそれを飲み込むように大きく息を吸いこんで、吐いた。
「――スラ子はよくやってくれてると思う。だから、それを無駄にしないためにも、あとの始末はこっちでつけなきゃならない」
「精霊や竜、それにスラ子さんを表に出さないまま。あくまで人間同士の争いとして、事態を解決させるということですわね」
ルクレティアにああ、と頷いて、
「お姫様たちとゴルディナは、目的が一致ってわけじゃない。お姫様と近衛の連中は、あくまで自国のためにストロフライへの直談判にやってきてるはずだからな。だったら、連中のあいだに楔を入れることだって不可能じゃないはずだ」
「あの大精霊は、あくまで王女殿下の行いが主であると口にしていました。たとえそれが建前だとしても、公にしてしまっている以上、そちらが解決してしまえば口出しはできないはずです」
「その為にも、まずは洞窟にやってきてる人達との戦闘を優位に進めなきゃってことですね!」
納得したようにカーラが頷いた。
「ああ。それと、ルクレティア。連中との講和に使えそうなネタはあるか?」
「幾つか考えてはいますが……。しかし、王女殿下の動機がはっきりするまではなんとも申せません。結局は王女殿下次第ということになるでしょうし」
「まあ、そりゃそうか。とにかく、そっちのことも頭にいれといてくれ。あとは状況が一段落してから、他の連中も含めて話し合おう」
「かしこまりました」
話は一旦、そこで終わったつもりだったが、カーラとルクレティアはどちらも部屋から出て行こうとしない。
「どうした?」
「どうした、ではありません」
呆れたように言ったルクレティアが、
「お話はまだ終わっていません。ご主人様、貴方様が腹に抱えていらっしゃることは、他にもおありになるでしょう」
「あー……」
そういえば、さっきの戦闘中にあとで話すって言っていた。
俺は顔をしかめて、
「いや、別に――」
「教えてください、マスター」
まっすぐにこっちを見つめてきたカーラが、
「マスターは、ボク達にいったいどうして欲しいって考えてるんですか?」
逃げようのないストレートな質問に、俺は渋面になって。
「……別に、大したことじゃないさ」
息を吐いた。
「ルクレティア。さっきお前が言ってた話だ」
「私が、ですか? なんのことでしょう」
「ああ。終わった時のことを考えて動くべきって。そう言ってたろ」
「それは、確かに言いましたけれど」
令嬢が優美な眉をひそめる。
「だからそれだよ。この戦闘が終わったら。王都の連中や、金精霊の企みなんかを跳ね返して、その後だ」
怪訝な顔つきの二人を等分に見やりながら、
「勝ちはしましたが、こっちもほぼ全滅だなんて冗談じゃない。勝った後に、そこから始まらなきゃ意味がない。――ルクレティア、お前は言ったな」
金髪の令嬢に目線をむける。
「千年以上残るような、混沌とした価値観をここに残すとか。悪いが、俺にはお前の言ってることがさっぱりわからない。壮大すぎて俺の頭じゃ理解できないし、自分がそんな大層なことをしてるとも思えない。けど、お前がそう思ってるんなら、それをするべきだ」
視線をカーラにむけた。
「カーラ。お前もだ。人間とウェアウルフの血をひく君にしかできないことがあるはずだ。メジハの連中、それにタイリンの仲間達のことも。君じゃなきゃできないことがある」
「マスター、なにを、」
魔物まじりの少女が不安そうに口を開きかけるのをさえぎって、俺はさらに続けた。
「二人に限った話じゃないんだ。リザードマンの若い連中は外にでて生活をしようとしてる。彼らと妖精族のあいだを取り持つのには、シィやリーザが不可欠だ。マーメイドたちも、子育てが終われば同族を探しにいかなきゃいけないだろう。ここにいる皆、やることがあるんだ。この洞窟は、そういう場所だ」
今、この場にはいない誰かに語りかけるように、
「俺は、引き篭もるためにこの洞窟を守るんじゃない。この洞窟から始まるそういう全部を守るために、この洞窟を存在させたいと思ってる」
「――つまり」
すっと目を細めた美貌の令嬢が、
「私達をここで死なせるつもりはない、と。そうした戦いが始まる前にここから退去しろと、そうおっしゃりたいのですか?」
その静かな台詞の底に流れる冷ややかな迫力に。
俺は正面からそれを受け止めて、
「そうだ」
うなずいた。
呆れたように、ルクレティアが深いため息をついた。
「なにを甘いことを……」
「甘い? なにがだ。真っ当な理屈だろうさ。ルクレティア、メジハや、ギーツ。それにアカデミーとの商いもだな。それらを統括するなんて、お前以外のいったい誰にそれが出来る」
ルクレティアは黙ったまま、鋭い一瞥だけを返してくる。
「別に俺は情に流されて言ってるんじゃない。適材適所ってやつだ。洞窟を守ることに命を懸ける奴がいる。洞窟の外でやるべきことがある奴もいる。お前らは後者のはずだ」
「……そして、ご主人様やスラ子さんに、スケルさん。それに老いたリザードマンの長や、マーメイドの方々が前者と?」
感情の凍えた声音で令嬢がささやいた。その切れ長の目は、ほとんど睨みつけるようにまでなっている。
「エリアルには、生まれたばかりの赤子や何人かを外に避難させるように伝えてある。なにがあっても、連中の血が死に絶えることがないようにな」
「そんなの!」
ざわり、と髪が逆立つ。
狂暴化の前兆のように眉も逆立てさせるカーラを、――すっと。その隣から伸びた令嬢の手が制した。
「ルクレティアっ?」
「……確かに、おっしゃる通りですわね」
令嬢の漏らした呟きに、仰天したようにカーラが目をむいた。
「なに言ってるんだよ、ルクレティア!」
「カーラ、ご主人様のおっしゃっていることは間違ってはいませんわ。玉砕など愚かなことです。生きてその後を続く者がいるからこそ、命を懸ける意味があるのです」
魔物見習いの少女は呆然と令嬢を見つめてから、
「でも! そんなのって……」
悔しそうに唇を噛み締める。カーラから視線をこちらに戻したルクレティアが、
「ご主人様」
「……ああ」
「お考えはよくわかりました。筋の通ったお話かと思います」
「ああ。わかってくれてよかった」
内心、ほっとしながら俺は頷いた。
よかった。
カーラが反対するのは予想していたが、ルクレティアがどういう反応をみせるかはわからなかった。冷静に考えればわかってくれるはずとは思っていたが、まさかカーラの説得まで助けてくれるとは。
「ご主人様のお考えはわかりました。これで後顧の憂いなく、決戦に備えられるということですわね。一党を率いる主の識見として、大変に素晴らしいものだと思います」
ルクレティアが言った。
どこか棘を感じないでもないが、柄にもなくこっちを褒めるような台詞に、俺は違和感をおぼえかけながら、
「あ、ああ。ありがとう」
ルクレティアは満面の笑みを浮かべて、
「ええ。――糞喰らえですわ」
にっこりと、そう言った。
目の前の上品な令嬢にはあまりに似合わなさすぎる台詞に、俺は自分の耳をうたがった。
俺の視界のなかで、カーラもそれまでの激昂を忘れたようにきょとんとしている。
ルクレティアが続けた。
「糞喰らえ、ですわ。ご主人様」
――どうやら空耳じゃあないらしい。
「ええと、ルクレティア」
「糞を喰らえと言ったのです」
「いや。それは聞こえたんだが……」
「それはようございました。ご主人様のお粗末な頭ですぐに忘れたりしないよう、もう一度お伝えしておきましょうか?」
「もういい! なんだよ、納得したんじゃなかったのかよ」
大きく手を振ってさえぎる俺に、ルクレティアは心底から不思議そうに目を見開いて、
「納得? 誰がですか」
「お前だ! 筋が通ってるって言ったじゃないか」
「ええ、申し上げました」
「だったら――」
「理屈はわかります。筋としてもよろしい。けれど、ご主人様。貴方様は大切なことをお忘れでいらっしゃいます」
「……なにがだ」
俺が顔をしかめて訊ねると、金髪の令嬢はいっそ堂々と、
「どれほどの正論だろうと、感情で納得できなければそんなものには欠片の価値もありはしませんわ」
「そういう問題か!?」
「そういう問題ですわ」
まっすぐにこちらに近づくと、乱暴エルフに倣うように襟首を掴んで、
「――ご主人様。貴方は、この私が殿方を失くしたあとに、そのまま平然と過ごせるような女に見えているのですか」
苛烈な感情を宿した極寒の両眼がこちらを見据えた。
その眼差しに吸い込まれそうになりながら、俺は息を呑んで。
「――少なくとも。一時の感情に流されるような弱い女じゃないと、思ってるさ」
答えた。
いくら恫喝されようが、ここだけは絶対に譲れない。
すでに町に送ったタイリンと同様、カーラやルクレティアには最後の戦闘に加わってもらうつもりはなかった。
我儘だ、勝手だと罵られたってかまわない。
俺と他の奴らじゃ役目が違う。
他の連中の役割をつくること。それが、俺の“役割”だ。
怒りに燃えてそのままこちらを焼き尽くすような令嬢の眼差しを至近にうけて、俺がそれから目をそらさずに睨み返していると、
「……わかりました」
そっと息を吐いたルクレティアが俺の襟を放した。
自由になった気道で息をととのえながら、
「わかってくれてよかっ――」
「では、せめて子種をいただけますよう」
真顔の令嬢にあっさりとさえぎられ、俺は思いっきり顔をゆがめた。
「はあ?」
「そのくらいはよろしいでしょう。今生の別れかもしれないのです。せめて忘れ形見を残しておくのも、殿方の甲斐性ではありませんか」
平然と言ってくる。
それに対して、なんと答えていいものかわからず。視線を彷徨わせると、カーラと目が合う。顔を赤くしたカーラが慌てて下をむいた。
視線をもどすと、ルクレティアはまったく冗談の欠片もない表情でこちらを見つめている。
俺はため息をついて、
「――わかったよ。それで、納得するんだな」
「ええ」
ルクレティアは再び笑みを浮かべて、
「私が確実に貴方様の子を宿せたと確信が持てましたなら。それで納得いたしましょう」
「ちょっと待て」
令嬢が首をかしげた。
「なんでしょう、ご主人様」
「確実にってなんだよ。そんなのわかるわけないだろ!?」
「わかりますわ」
「嘘つけ! そんな話聞いたこともないぞ!」
「あら、ご主人様は女でもいらっしゃいませんのに、いったいなにがおわかりになるというのでしょう」
酷薄な笑みで言う。
俺は歯ぎしりして目の前の相手をにらみつけた。
もちろん、これが安い挑発だってことはわかっている。
いくら俺が頑張ったところで、「まだ不足です」だなんて言っていつまでも居座るつもりに決まってる。
そんな目に見えた挑発に乗るなんざ、アホだ。アホがやることだ――
「それとも――」
冷静になれ、と念じ続ける俺の耳を、ルクレティアの嘲笑が打った。
「ご主人様にはそんなことも満足にお出来にはなりませんか」
ぷちんっときた。
「……上等だ」
据わった目つきで目の前の相手をにらみつけて、
「やってやる。満足させればいいんだろう。そうしたら、認めるんだな? やってやる、いつまでも俺が情けないままだと思うなよ!?」
「それは結構ですこと」
極上の笑みで応えたルクレティアが後ろを振り返り、いったい自分はどうすればいいかと居心地悪そうに真っ赤になっていたカーラに、
「さあ、カーラ。ご主人様はこのようにおっしゃっています。貴女もこちらに」
「ちょっと待てえええええええええええ!」
今度こそ、俺は絶叫をあげていた。
「なんですか、騒々しい」
「なんですかじゃないだろう! お前……お前、頭おかしいんじゃないか!?」
「そ、そうだよ――ルクレティア。いくらなんでも、それは」
しどろもどろに手をあたふたさせるカーラに、
「あら。私と貴女は同じ気持ちかと思いましたけれど。カーラ、それでは貴女はこのままメジハに戻るのですね」
「そういうことじゃなくって……!」
「そういうことですわ。それでしたらどうぞ、部屋からお下がりなさいな」
むっとしたカーラが押し黙る。
話がおかしな方向に流れそうな気配を察して、俺はあわてて口をはさんだ。
「違うだろ! そういう話じゃない! だいたい、一人でもたいがい化物じみてるっていうのにそれを同時に二人だなんて――」
それを聞いたカーラの眉が、ぴくりと跳ねあがった。
底冷えのする声でぼそりと、
「……ルクレティア」
「なんでしょう」
「やっぱりボクも参加するよ」
にっこりと怒った笑みを見せて、宣言した。
「あら、それは残念ですこと」
「うん、ごめん」
ふふふ。ふふふふふふふふ、と嫌な笑みを浮かべた二人がにじりよってくる。
「待て! さっきのはそういう意味じゃない! 物事には順序というものがあって、まずは一対一からクリアしていくべきだと――」
目前に迫った二人が、すっと表情から笑みを消す。
「お黙りください、ご主人様」
「黙って、マスター」
そして――
俺は。枯れた。